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潜入編
29.アレクシス殿下(二)
しおりを挟む「そういえば、聖剣祭の役割が決まったって?」
「ええ、先ほど教えていただきました」
ステラの声は、心なしか弾んでいた。向かいの席ではレオナルドが分厚い本をめくっており、その音と重なるようにページが一枚、ふわりと舞った。
「ほう。何になったんだ?」
レオナルドは顔を上げずに尋ねた。
「受付とクローク係。……一番大変な一日目だけですけど」
「それはご苦労さま」
ようやく顔を上げたレオナルドが、にこやかに微笑んだ。その表情を見て、ステラは心の中でため息をついた。
(皇太子殿下って、意外と暇なのね)
ふいに、レオナルドが言う。
「じゃあ、二日目と三日目は暇なんだな?」
「……ええ。一日目さえ乗り切れば、あとは自由時間です」
レオナルドの微笑みがさらに深くなる。
「なら、どちらか一日。俺と一緒に聖剣祭を回らないか?」
「……はい?」
思わず聞き返したステラに、レオナルドは平然と続ける。
「一緒に祭りを楽しもうという誘いだよ、ステラ嬢。もちろん、メイドだからという理由で断らないでほしいな」
「ですが……二日目は、カレンとリサと一緒に回る予定です」
「ほう」
「三日目は、まだ約束はしていませんが……たぶんカレンと回ることになるかと」
ステラはカレンの無邪気に喜んでいた顔を思い浮かべ、曖昧な返事をしながらもやんわりと断るつもりでいた。
しかし、レオナルドの目がきらりと光る。
「じゃあ、三日目はまだ確定じゃないんだな。よし、俺が先約だ」
「え……?」
「三日目は一緒に回ろう。逃げるなよ?」
「いえ、それは……」
「変装して行く。皇太子とは誰にも気づかれない服装で。どうせなら、庶民として楽しんでみたい」
「……そういう問題じゃ……」
「じゃあこうしよう。待ち合わせはしない。だが、もし当日俺が君を見つけたら、一緒に回る。それだけ」
「……ロイク様から情報を得て探す、というのはなしです」
「もちろん。あくまで偶然の再会、ということで」
レオナルドの悪戯めいた笑みに、ステラは肩を落とす。
(うまくかわしたつもりだったのに……)
「……わかりました。ただし、本当に偶然会った場合だけです」
「承知した」
レオナルドは本を閉じて、にこりと笑った。その笑顔は、まるで小さな賭けに勝った少年のようだった。
「ステラ、起きて! 起きてってば!」
カレンの弾けるような声で、ステラはまどろみの中から引き戻された。目をこすりながら顔を上げると、すでに制服に着替えたカレンが立っていた。
「……何事……?」
「騎士たちの訓練よ!聖剣祭前の特訓が早朝から始まってるって噂、聞いたの!」
「……それ、今聞いたんだけど……」
ステラは半開きの目で時計を見た。まだ仕事が始まるずっと前。それでもカレンに引きずられるようにして、二人は訓練場へ向かった。
朝の空気は肌寒く、吐く息が白くなる。カレンはそんなこと気にも留めず、テンション高くずんずんと歩いていく。
「着いたー!」
訓練場にはすでに数人の若い騎士たちが汗を流しながら剣を交えていた。カレンは目を輝かせて柵越しにそれを見つめる。
「はああ……やっぱり騎士様って素敵……!」
ステラは隣であくびをかみ殺しながらカレンに尋ねた。
「そういえば、ロイク様のことは“素敵”って言わないよね。タイプじゃないの?」
「ロイク様? かっこいいとは思うけど、私のタイプじゃないのよねぇ」
「へぇ……どんな人がタイプなの?」
「ふふん、30代後半で渋い髭を生やしてて、体格がよくて……あ、あの人とか最高!」
カレンが指さす先には、恰幅のいいベテラン騎士が構えていた。
「……なるほど、ダンディー路線なんだ」
ステラは苦笑いしながらも、その熱量にやや感心した。だがこれだけ黄色い声を上げていて、怒られたりしないだろうかと心配にもなった。
そのときだった。
「……!」
訓練場の入り口から、長身の金髪の青年が姿を現した。誰もが一斉にその方へ目を向け、自然と道ができる。
「……アレクシス殿下……」
ステラは小声でつぶやいた。そう、去年の聖剣祭の優勝者。華やかな美貌に騎士としての実力も一流。人々の憧れの的だった。
アレクシスは堂々と場に歩を進めると、目線を剣を構えていたロイクに向けた。
「君、ロイクだったな。少し手合わせ願えないか?」
「……私でよろしければ」
一度は謙遜して引き下がろうとしたロイクだったが、アレクシスの真っ直ぐな視線に逆らえず、剣を構える。
瞬間、空気が変わった。鋭く、洗練された動き。周囲の騎士たちも手を止め、二人の勝負を見守る。
「すご……」
カレンが感嘆の声をもらす。
ステラも思わず息をのんだ。二人とも圧倒的な技量で、まさに見惚れるような応酬だった。
だが次の瞬間。
「――あれが、レオナルドのお気に入りのメイドか」
アレクシスの低く落とされた声。それはロイクにだけ届く距離だった。
ロイクの目が一瞬揺れる。視線の先には、訓練場の柵越しに立ち尽くすステラの姿が。
その隙を見逃さなかったアレクシスが一閃――打ち合いの末、ロイクの剣がはじかれ、勝負が決した。
「さすが殿下ね……」
カレンがうっとりとした声をもらす中、ステラは眉をひそめた。
「でも……ロイク様、今何か気を取られてたような……」
アレクシスは剣を収めながらロイクを一瞥し、意味深な笑みを浮かべた。その笑みは、勝負そのものよりも“確認”に満足したような不気味なものだった。
訓練が終わるとすぐ、ロイクは足早に王宮の奥へと向かった。向かう先は、レオナルドの執務室。
「……アレクシス殿下が、ステラ嬢の存在を認識しておられました」
レオナルドは報告を聞いても表情を変えず、机の上の書類に目を落としたまま静かに呟く。
「そうか」
ただ一言。それだけの返事だったが、レオナルドの思考が何かに触れたことだけは、ロイクにもはっきりと伝わった。
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