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潜入編
10.メイドの休日(一)
しおりを挟むパーティー準備の山がようやく片付き、王宮の空気が少しだけ穏やかさを取り戻しつつあった。
その朝、ステラは支給されたメイド服ではなく、落ち着いた生成りのワンピースに袖を通していた。
粗い麻布ではあるが、胸元に小さな花模様が刺繍された、どこにでもいる平民の娘の装いだ。
腰には薄手のショール、靴も柔らかな革のもの。
「ただの街娘」にしか見えないように、細部まで気を遣っていた。
「ねぇステラ、今日出かけるの? よかったら一緒に――」
「ごめん、今日はちょっと一人で……」
カレンの問いかけをやんわり断ると、ステラは布の帽子を深くかぶった。
王宮の正門に着くと、門番の兵士に外出簿へ名前を記す。
「身分証明の布札を忘れずに」と言われ、腰の袋から木札を取り出して見せた。
門の外に一歩出た瞬間、空気が変わった。
皇都の通りは王宮とは異なり、土と焼き菓子と人いきれのにおいが入り混じっていた。
朝市は終わりかけで、露店の声もどこか緩んでいる。
(……時間通り)
雑多な通りを歩きながら、ステラは人ごみに紛れるようにしていくつか角を曲がった。
やがて人通りが急激に少なくなり、石畳の隙間に苔がむした細い裏路地に足を踏み入れる。
ステラは足音を殺しながら、細い通りの先を見据える。
――そこに立っていた。
壁にもたれるようにして佇む男は、黒いフード付きのマントを身にまとい、顔の半分を影に隠している。
だが、その佇まいはただの平民とは明らかに異なっていた。
姿勢はまっすぐで、体の動きに一分の無駄もない。
気配を消す術に長けた者だけが持つ、静かなる鋭さがあった。
男――リアン・ヴェルグは、もともとステラの祖国――アルチュセール王国に仕える隠密の長。
代々、王族の護衛や裏の任務に携わってきた一族の出であり、ステラの幼少期から彼女の影となって動いてきた忠臣だった。
「……姫様。お姿を拝見できて、安堵いたしました」
リアンはそう言って、フードをわずかにずらすと、敬意を込めて頭を下げた。
鋭い目元には、かすかに柔らかな光が宿っていた。
「“ステラ”って言って。ここでは、ね」
小声でステラが答えると、リアンもすぐに口調を改めた。
「――失礼しました。……ステラ様」
リアンが一歩前に出ると、懐から封蝋された一通の手紙を差し出す。
上質な羊皮紙に、アルチュセール王家の紋章がくっきりと刻まれている。
「陛下からのお便りです。……内容は、ほとんど心配の言葉ばかりでした」
「……そうでしょうね」
ステラはそれを受け取ると、そっと胸元にしまい、代わりに自分の用意した手紙をリアンに手渡した。
折りたたまれたそれは、何度も推敲された形跡があった。
「渡してくれる?」
「かしこまりました」
リアンは恭しく受け取る。
「例の件については――」
「調査中、とだけ書いておいたわ。あまり詳しくはまだ……」
「……賢明です。陛下もそれ以上を求めることはなさらないでしょう」
彼女の父――アルチュセール王国国王ヴェルディス・アルチュセール三世は、ステラを溺愛していた。
この任務に反対したのも当然だった。
王宮への潜入を“王女に課すなど狂気の沙汰だ”とまで言ったほどだ。
――だが。
それでも、ステラがどうしても行くと言って譲らなかったため、国王が出した唯一の条件が「月に一度、必ず文でやり取りをすること」だった。
この日が、その最初の一度目。
「……何か変化があったら、次の便で知らせて」
「承知しております。次回は、また四週後に同じ場所に」
「うん……ありがとう、リアン」
リアンは深く一礼し、ステラが踵を返すのを静かに見送った。
路地を出る足取りは軽やかだが、その背に乗るものは決して軽くない。
リアンと別れ、路地裏を出たステラは、少し足早にもうひとつの目的地へと向かった。
皇都の大通りからやや離れた静かな小路に、小さな古本屋がある。看板の木彫りには「書房 エストレア」とあり、年季の入った扉には、控えめな鈴がぶら下がっていた。
(アルチュセール王国にあった記録だけじゃ足りない……帝国の言葉や視点も知っておきたい)
扉を開けると、かすかに紙とインクのにおいが鼻をかすめる。
店の中は天井まで届きそうな本棚が並び、床にも積まれた本の山。狭い通路に身をすぼめながら、ステラは迷いなく棚へと向かう。
(近年の政治、貴族の動き、軍事改革――この国の内部をもっと知らなきゃ)
「三年前の戦の分析……」
「あ、この人名……最近の勲功録に載ってたわね」
一冊、また一冊と取り出し、ページを繰っては、内容を頭に刻み込んでいく。
ステラの記憶力は常人の域を越えていた。目にした文章は、ほとんどすべて正確に覚えられる。
そうして黙々と情報を飲み込んでいたとき、ふと手にした雑誌の見出しが目に留まった。
《皇太子殿下の側近、ユリアン様 独占インタビュー!「殿下の隣にいることが、私の誇りです」》
あの満面の笑み。どこか作り物めいた眼差し。
ステラは小さく眉をひそめると、つい口をついて出た。
「……にこにこ毒男め」
「――ずいぶんひどい呼び名ですね」
思わず肩がびくりと跳ねた。
いつの間にか、自分の肩に誰かの手が置かれていた。
(まさか、こんなところで……!)
ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは、旅人風のシンプルな外套に身を包んだ金髪の青年。
だが、どれだけ装いを偽っても、その端正な顔立ちと隠しきれない存在感までは変えられない。
「あなた……」
青い瞳が、いたずらっぽく細められる。
「はじめまして、ですよね。ステラ嬢」
レオナルド皇太子殿下――その人だった。
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