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第2章 深海の檻が軋む時

第28変 真珠の涙(裏)

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~シアン視点~

「はああぁぁ――かっこわる」

 せっかく、変わろうと決意したその日のうちにみっともなく彼女の前で泣いてしまい、そのうえ、もう彼女にも嫌われてしまうのかもしれないと思ったらネガティブ思考の全開が止まらず――本当に僕ってダメダメだ。やっぱり変わろうと思ってもすぐには変われなくって、どこまでいっても、小心者でネガティブなことしか考えられないそんな自分が本当に惨めで……恥ずかしい。

 でも、彼女の真っ直ぐさに毒気を抜かれて……自分の惨めな過去も大嫌いな体質も、全部全部吐き出した。吐き出してしまった……そして、それでも彼女は――

「僕を嫌いにならないでくれた……全部知ってなお――」

 変わらず、あの笑顔で笑ってくれた。不意に込み上げてきた熱い気持ちを堪えながら、僕は机の上に置いた花瓶を見つめる。

(僕は――ズルイな……)

 小さな白い鉢植えの中に華々しく咲き誇っているのは、僕の髪の色と同じシアン色の花と、彼女の瞳の色と同じマゼンタ色の花……僕は僕の手で作り出したマゼンタ色の人工花弁をそっと撫でる。この花にはシアン色の花と同じような精霊は宿っていない。いわゆる、無精霊植物だ。でも――それでも、なおも華麗に咲くその花は、まるで彼女そのもののようだった。

 これは僕が彼女と会った次の日に作り出した新しい品種の花――作り出した僕が言うのもなんだけど、綺麗なだけでなく、魔薬学において他の薬品の補助をする材料にもなるすごい花だ。マゼンタ色のその花弁を適量入れるだけで、普通に使用する薬品の量を減らしても同じ効果が生まれる――そういう代物。

 この効能は単なる副産物に過ぎなかったのだが、その副産物ですら彼女のような優しい性質になってしまい、思わず苦笑が漏れてしまった。自分の身を砕き、相手を助けるというその性質――そう、それが余計にこの花を愛おしく感じてしまう要因になっているような気がするのは、決して気のせいではないだろう。

 彼女と作った魔薬を花達に届けた後、僕はどうしてもこのマゼンタ色の花を作りたくなり、彼女に会いに行くちょっと前に作っていたのだけど、まさかこの花があれほど僕の頭を悩ませていた魔薬学開発促進会の論文に採用されるとは思っていなかった。

 彼女と助けた花々に使用した魔薬は論文向きではなかったから、既に論文の方は諦めていたんだけど……その魔薬こそがこのマゼンタ色の花を生み出すことに繋がった。

『やったことで無駄だってことはないよ。もしかしたらその時は無駄だったって思うかもしれない。でも、そこで費やした時間や労力ってのは、ずっと先のどこかで、絶対に何かの役に立つ。それが何十年、何百年先になるかは分からないけど、絶対に報われる――』

 彼女が言ったそんな言葉が頭をよぎり、思わず苦笑してしまう。

「ずっと先って言ってたけど――報われるの早すぎなんじゃないかなあ」

 本当に――どんなことがどう転がってどんな結果を生み出すかなんて、分からないものなんだなあと思う。

 しかも、きっとこの花は魔薬学開発促進会の論文でも一目置かれている存在になるだろうと赤い髪の先生からお墨付きまでもらってしまった。あの先生は研究に関して包み隠すことをせず、かなりシビアな評価をくれるので、おそらく論文は遠くない未来に一目置かれる存在となるだろう。

 彼女に出会ったことで、本当に何もかもが上手くいきすぎて正直、怖いくらいだ……。

「ありがとう、【ルチア】……」

 僕はそっと【マゼンタ色の花の名前】を呼んだ。むろん、花に誰を重ねているかなんて、言わなくても分かるだろう。

「君にこんなに色々してもらったのに……僕は――本当にズルイなあ」

 ため息をつき、足元にある大きなタライの中にある自身のシアン色の鱗を撫でた。タライの中には温かいお湯が入っているのだが、この鱗は何も感じられない……。

「泳げないくせに――」

 拳でたたいても反応しない……痛みを全く感じない僕の尾ひれ……

「守れなかったくせに――」

 こぼれてくる硬い涙をグイッと乱暴にぬぐい、パチンと両手で頬をたたく。

「アイツなんかには負けない……本当に彼女を助けたあの変態なんかには、絶対に……」

 あの急流の中、僕と彼女を抱えて岸まで泳ぎ切ったのは、他でもない金髪金眼のあの男だ。あの時、結局僕の尾ひれは動かなかった。どんなに願っても、叫んでも、僕は彼女を本当の意味では救えなかった……。






 あの濁流の中での記憶が蘇る――





 ★   ★   ★





「動けよ――!!!」

 魔力の泡がビリビリと揺らぐほどの大きな声が出る――が、それでも動かない自身の尾ひれに涙だけが溢れる。

(ど、うして――僕はッ!!!)

 そうして何もできない自身への怒りと無力さが満ちてきた瞬間、何かに襟首を掴まれ一気に引き上げられる。

「カッハッ――ゴホゴホゴホッ――」

 地面へと乱暴に背中を叩きつけられ、思わず彼女を抱えながら咳込んでしまう。

「咳込んでないでさっさとルチアを解毒してくれないかな、根暗」

「ハッア――?」

 荒い呼吸を何とか整えて視線を上げると、そこには月明かりを浴びて神々しいほどの輝きを放つ金色の髪から、水滴をポタポタとたらしている青年の姿があった。張り付いた前髪を鬱陶しそうに手で後ろに撫でつけ、彼はその魅力的な金色の瞳を細めた。

「耳まで遠いのか? さっさとルチアの苦しみを取れって言ってるんだよ、根暗」

 苛立ちを隠そうともせず、彼は冷たい表情で僕を見下ろす。彼の滑らかな肌に、白いワイシャツが濡れてピッタリと張り付き、その逞しくも均整の取れた体がしっかりと見える。学校指定の軍服せいふくの上着は脱いで飛び込んだらしい。裸足で草を踏みしめ、彼が一歩前に出る。

 その瞬間、止まっていた思考が一気に動き出し、バッと体を起こす。

「ルチアーノ!!!???」

 自分の腕の中にいる彼女の冷え切った体に、全身の血の気が引くのを感じながら、すぐさま素早く彼女の軍服せいふくの袖口をまく)り、その白い肌に浮かび上がっている血管の場所を確認する。荒く弱々しい呼吸を繰り返す彼女の様子に手がカタカタと震える中、なんとか解毒剤が入っている透明なケースをポーチから出す。無菌状態のケース内にある時間凍結の魔力式を施した細い針を一度深呼吸して手の震えを抑えた後に取り、彼女の血管へと差し込む。

(この魔道具なら余分な魔力を調整して適切な魔力量を循環させてくれるから、惑いの森でも大丈夫なはず……だけど――それは理論上……もし、魔力が暴走したら彼女は――)

 魔力を込めようとした手先が一瞬止まる。ドクドクとやけに早い心音が耳元で鳴り響き、歯がカチカチと音を立てそうになる。

(でも……やらなきゃ! 僕がやらなきゃルチアーノは――!!)

 ギリリと歯を折れそうなほど噛みしめ、震えを押さえる。

(何もしないまま後悔はしたくない!!)

 覚悟を決めて針に慎重に魔力を流し込んでいく。魔力の暴走はないように見えるが最後まで気を抜けない。ポタリと頬をつたい冷たい雫が落ちる。

 魔力を操り、魔力式を丁寧に――でも、出来る限り早く解除していくと、針の先端に開いた小さな穴から解毒剤が血液中に流れていく感覚が魔力越しに伝わる。その解毒剤が全身に回るよう、針を通して注いだ自身の魔力に水の属性を付加させ、彼女の体内を巡る血管を傷つけない様に細心の注意を払いながら解毒を続ける。

 自然治癒能力が高いため、針を刺した先から肉体が再生してしまい、針を抜くのが少々大変な点を除けば、血も出にくいし逆流の心配もないこの方法は注射器を用いるよりも効率的な方法だ。もちろん、その反面、一歩間違えば血管を破壊しかねないので、実際の医療現場ではいまだに注射器が好まれて使われている。

(さっきは――注射器も持ってればって思ったけど、この分なら魔力の暴走もなさそう……理論通りで良かった……)

 そっと消毒されているガーゼを針が刺さっている彼女の白い腕に当て、針を引き抜く。無事に解毒が終わり、震える息を吐き出した瞬間、不意に小さく掠れた声が聞こえた。

「ごめん、ルチア……俺がこんなこと言う資格なんてないかもしれない――けど、ごめん」

(???)

 彼女を挟んで聞こえたその声に、思わず顔を上げると、泣きそうな顔をした金髪の青年が片膝をつき、彼女の顔を覗き込んでいた。

 一度彼女の頬に手を伸ばしかけ、一瞬だけ苦しげに表情を歪めた後、彼は彼女に触れることなく立ち上がる。

「あなたは――」

「ンッ――」

 僕の言葉は隣で上がった可愛らしい彼女の声に遮られ、続かなかった。一瞬だけ彼女へと視線を戻し、紅くなってきた頬と唇にホッとする。そうして再度青年へと目を向けた時、彼はそこにいなかった。

 驚きながら周囲を見回すが、彼の姿は見当たらない。

 遅れてお礼を言い忘れてしまった事に気付いたが、彼女とただならぬ関係をかもし出していた彼にお礼を言うのがなんとなく癪だと感じてしまい、少しだけ苦い顔をしてしまう。

 フルリと彼女のまつ毛が震え、その綺麗なマゼンタ色の瞳がぼんやりと空を見つめる。彼女の濡れた黒髪が朱の差した頬と唇と相まって妙に色っぽく見えてしまい、少しだけドギマギとしてしまったが、僕は一呼吸置くことで心を落ち着けた。一瞬だけあの金髪金目の青年のことが脳裏をよぎったが、あの鋭い金色の視線を頭の隅へと追いやり、彼女へと声をかける。

「あ、ルチアーノ、良かった……目が覚めたんだね」





 ★   ★   ★





 彼女の本当の意味での恩人はあの男なんだ……。
 それなのに、僕は言わなかった。
 その事実だけ、言えなかった。

(でも、事実を知ってる僕は――悔しい。彼女を助けたのが僕じゃないなんて……解毒はできても、これじゃあ――)

 それに、この事実を彼女に伝えなかった僕自身にも嫌気がさしている。もちろん、あの男が彼女にこのことを話さないことに安堵を覚えている自分にも……。

 あの男がルチアーノを『ご主人様』と言い、迎えに来た時は心底驚いた。ただならぬ関係性……それを感じ取っていた身としては、ある意味納得もできた発言だが――それでも、悔しさがあふれる。

 今の僕では彼女に釣り合わないのだと……彼こそが彼女の隣に立つことを許された存在なのだと……そう言われているようで、自分の無力さを改めて感じた。

 彼女を連れていかれるさまを大人しく見守っていたのは、そうした劣等感――でも、心の中で生まれた諦めたくないという気持ちをバネに変え、僕は一度決意したんだ。

 彼のように輝かしい朝日を睨みつけて――
 変わることを……決意したんだ。

 まあ、それも早々に挫けるほど、その決意は脆かったんだけど……それでも、また、同じように――何度でもその決意を掲げようと思えるようになった。

 そう、僕はたとえ何度挫けても、足元じゃなく、前を――なりたい未来の自分を見つめていたい。

 その背中に追いつき、その幻想を追い越せるように……





 ★   ★   ★





 何度も尾ひれのマッサージを繰り返し、マヒした感覚を少しでも戻そうと頑張る。

(……意味のないことなんかない。諦めたりもしない)

 抗体作りに精を出すばかりか、こうやって無様ぶざまなリハビリをしていることは、彼女には内緒だ。

(もう、この間のようなネガティブ思考ばかりの情けないところを見せたくはない……)

 その時、ふいに外から彼女の大きな怒声が聞こえた。彼女はまたあの変態の被害にあっているらしい。僕は急いで腕輪で能力の制御をして歩ける足になると、水で濡れた足を魔法で乾かし、戸締まりをしっかりして外に行く準備をすませる。

 まだ、これは偽りの足の感覚だけど……いつか――いや、今からでも……

(今度こそ、僕は――変わるんだ)

 たとえ、何度ネガティブな発想に捕らわれようとも、それ以上の頑張りでそれを乗り越えて――変わるんだ。

 泣き虫で、弱い僕だけど……そこに彼女がいてくれる限り――笑ってくれている限り――

(僕は変われる)

 深く息を吐き出し、研究室兼僕の部屋のスライド式のドアに手をかける。

 できた魔薬を担当の先生に見せに行ったり、呼び出しを受けたりした時以外はこのドアを開けて外に出たことがない。買い物も必要な資料探しも全て自分が作り出した【使い魔】に行わせていたこの僕が、まさか自ら外に出たいと思う日が――いや、日々が続くなんて……

 自嘲気味な笑みが出てしまうのはいつもの悪い癖だ。

(きっと、この表情も彼女に怒られてしまう……)

 脳裏に浮かんだ凛とした雰囲気の彼女の姿に、さっきとは別の温かい笑みが浮かぶ。

(ルチアーノ……僕は君のおかげで変われる)

 人魚の間では呪い子と言われていた【呪われた群青色の瞳】をラピスラズリのように綺麗だと言ってくれた君。僕の【呪われた体】を心配してくれた――僕のことを気にしてくれた……そんな君。僕の【ネガティブ思考】を全部取っ払ってくれた君。こんな僕を嫌いにならないと言ってくれた君。

(どれも、初めてだった。初めて――僕はここにいても良いんだって思えた)

 今までずっと……光の届かない孤独な深海にいた僕の心を――温かい日向の陸地まで引っ張り出してくれた君。僕の可能性を信じてくれる君。

(ああ、早く彼女に会いたい……)

 僕は、彼女を求め、今日もこのドアを開ける。

~シアン視点END~
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