伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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06.女官達の本音

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 掖庭えきてい宮というのは、妃たちの住まうところで、皇帝の住まいである太極殿の西に位置している。

 太極殿を挟んで東にあるのが皇太子の宮で(それゆえ東宮と呼ばれる)、西が掖庭宮となる。

「正式に結婚となったら、あなたは、明日から玄溟げんめい殿の主になるのだけど、今日はまだ、お客人と言うことらしくてね。もどかしいことだけれど、椒蘭しょうらん殿で仕度をしておいで」

「わかりましたわ」

 とはいえ、出てくるときに湯浴みも着替えも済ませてしまったので、特にすることもないが、心を落ち着かせるには丁度良いだろうと、琇華しゅうかは、皇帝の長い睫が、僅かに伏せられて、黒水晶の瞳に影を落とすのを見ていた。その、憂い顔にも似た表情は、艶めいているようにさえ思える。

 間近で見ているだけで、胸が高鳴ってしまってどうしようもなかったというのに、皇帝は「宴で待っているよ」と琇華の頬に口づけを落としていった。

 皇帝の口唇は、存外、温かかった。

 暖かで柔らかな口唇が触れたところが、焼けるように熱い。

「王女殿下」

 皇帝の後ろ姿をいつまでも見送っていた琇華に、声が掛けられた。振り返ると、そこには、女官らしき女が控えている。

 目鼻立ちは整っているが、過度に着飾っていないせいか、落ち着いた雰囲気である。琇華が、この国に来て初めて接する女だった。髪は一つに結い上げているが、釵などは地味なものを一つ飾るばかり。衣装も、円領えんりょう(まるい襟ぐり)の上襦じょうじゅに、簡素なくんを身に纏うだけだった。

 ほう国では、王妃の侍女ともなれば、華やかな色味の上儒に、くんは、幾重にも薄布を重ねた下裳かしょう。それに被帛ひはくをつけて、髪も様々な形に結い上げた華やかな姿をしていたものだ。

「私は、殿下付の侍女を勅命により仰せつかりました。瑛漣えいれんと申します。以後、何なりとお申し付け下さいませ。私を筆頭に、全部で十人が玄溟げんめい殿にお仕えすることになります」

 しっとりとした低めの声音が、耳に心地よい。琇華は、瑛漣の手を取って言う。

「妾の侍女なのね。心強いわ。……この国のことは何も知らないままに来てしまったの。ですから、この先、良く教えて下さいね」

「私などが……お教えできることは何も……でしたら、皇帝陛下に奏上して、せんせいを付けて頂くことも出来ようかと思います」

「それだったら、私は、この国の歴史と、作法については、教えて頂きたいわ。……最初のうちは、何かと忙しいでしょうから、落ち着いたら、お願いしてみましょう」

「はい。……それでは、殿下、少々、お休み下さいませ。ながいすまでご案内致します」

 朗らかな笑顔で言う瑛漣に続いて、琇華は歩いた。靴は、必死に走って追いかけてきた勅使が持ってきてくれた。真っ赤な繻子の靴に、真珠やら宝石やらが付いた豪華な物だ。

 案内された榻に座って、琇華は瑛漣に茶を頼んだ。

ほう国では、西域の茶も飲むと聞きましたが……あいにく、こちらにはありません。游のお茶でよろしいですか?」

 西域の茶は、鮮やかな紅色をした発酵茶である。ほう国では、それに、薔薇の花びらや、干した果物などを入れて飲むことが多かった。美しい紅色の水色すいしょくと、甘い香りが同時に楽しめるのだ。

「游のお茶は、初めてです。楽しみです」

「畏まりました。それでは、仕度をして参ります」

 拱手こうしゅして、後ろ向きに去って行った瑛漣を見送って、琇華は部屋を見回した。游帝国の建物は、ほう国と大して変わらないが、ほう国の方が色合いが金色に近いものばかりだった。それは、琇華が王宮育ちということも合っただろうが、こちらでは『黒』を尊ぶ為に、全体的に、落ち着いた色合いになる。

 この殿舎は、賓客をもてなす為に使われる殿舎ということだろうが、飾りに使われるのも、黒漆に施された螺鈿であったり、黒水晶、黒金剛石などである。琇華は、游帝国に来て、初めて黒真珠を見た。ほう国で尊ばれていた真珠は、貴重な『黄金真珠』であったからだ。

 榻から外を見ていると、美しい花が咲いているのが見えた。

 芍薬である。薄衣のような花弁を幾重にも兼ねた豪奢な花は、琇華の好む花の一つであった。草のような爽やかさと、蜜のような甘やかさを兼ね備えた香りもは素晴らしい。

(ちょっとだけ、お花を見に行ってしまいましょう)

 琇華は、花嫁装束の薄衣を頭から外し、長々と裾を引く真紅の上衣も脱いだ簡素な格好で、庭園へと向かう。庭園は、今を盛りと、純白の芍薬が咲き誇っていて、空気を甘く染めていた。

「まあ……良い香り。ほう国のものより、香りが濃いような気がするわ」

 うっとりと呟いた琇華は、ふと、人の気配を感じた。殿舎と殿舎を繋ぐ、長い回廊。そこに、女官達が居た。先ほどの瑛漣も簡素な格好だと思ったが、この女官たちは、さらに簡素で、釵一本身につけていない。

「やっと、蕃国ばんこくの女が到着したって?」

 蕃国の女、と言われて、琇華はドキリ、と胸が跳ねた。なぜ、そんなことを言われているのか、解らなかったが、それは、琇華のことだろうと、思った。今、他国から来た女は、琇華以外にないだろうから。

(蕃国って……なぜ?)

 今からの結婚に弾んでいた心が、急に冷えて行く。何事か解らないが、とにかく、話を聞くしかない。琇華は、芍薬の中に身を隠して、話を聞いた。

「やっときたらしいわ。それで、瑛漣さまが、なにやら我が儘を命じられたらしくって、走り回っていたもの」

「飛んだ女ね。……だって、皇帝を蕃国に呼びつけて、平伏させたんでしょう? そうしなければ、援助はしないって」

(援助……)

 なんの話だろう、と胸が、嫌な早鐘を打つ。呼吸が、上手く出来ない。気を落ち着かせようと思って居るのに、指が震えた。

「本当に、良くやるわよねぇ。蕃国の女に、なんで心を寄せる男が居るというのよ!」

「案外、二目と見られない醜女しこめかも知れないわね!」

「言えてるわ! こちらへ来るときだって、急に我が儘を言って、一泊多く掛かったらしいし」

「本当に、人の迷惑もなんにも考えない女ね!」

「仕方がないわよ。蕃国の女なんて、膨大な化粧料がなければ、ゆうに嫁いでくることが出来るはずがないでしょう? お金しかないのよ!」

「あら、アンタたち、いい加減にしなさいよ」

 一人の女官が、他の女官達を宥めた。(良かったわ。一人の味方も居ないわけじゃないのね)安堵した琇華は、涙ぐみそうだったのが、なんとか留まることが出来た。

「なによ、禎蘭ていらん。アンタ、蕃国の女の肩をもつの?」

「違うわよ。お金を出して頂く間は、丁重にお迎えしなきゃ。金子きんすを渋ったら面倒よ」

 庇ってくれたと思った女官の、あまりの言葉に、今度こそ、琇華は視界が滲んでぼやけるのを感じていた。

(なぜ……なぜ、金子、金子と、そればかり)

「ああ、そうね! 蕃国の女でも、金子にお仕えすると思ったら、気分が楽になったわ。あなたって、天才よ、禎蘭ていらん!」

 きゃらきゃらと、女達は笑う。女達に気付かれないように。

 惨めな気持ちを引きずりつつ、琇華はそうっと歩き出した。

(違うわ。妾は、恋したの。……皇帝陛下も、妾を気に入って下さったわ)

 黄金宮の庭園。あの四阿で、皇帝は、跪いて愛を誓ってくれた。―――今さっきも、皇帝陛下は、琇華の頬に口づけて下さった。一刻も早く、結ばれたいとまで言ってくれたのだ。

(陛下に逢いたい……っ!)

 そして、そんなことは嘘だから気にしないように、といって欲しい。

 琇華は、(たしか、今の間は、皇族方だけで宴を開いているはず……)と勘だけを頼りに、皇帝の元へと向かっていった。



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