伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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40. 瀋都の惨状

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 愁月しゅうげつを伴って、琇華しゅうか掖庭えきてい宮を出る。久しぶりに、自分の足で歩いて、外に出た。それは、存外心地よい開放感を琇華に味わせた。

(陽差しは強いけれど……外の風は心地が良いわ。殿舎の中に居るより、ずっと良い)

 掖庭宮を出る折り、いつぞやの門番が、琇華の姿を見て「あ」と声を上げた。ちょうど、交代の時間のようだった。琇華も、その声に気がついて、やんわりと微笑む。

「その節は世話になりましたね。ほう機鏡ききょうでしたね?」

 と琇華が声を掛けると、ほう機鏡ききょうは平伏して、言う。

「皇后陛下に、拝謁致します。その節はご無礼を……!」

「顔を上げなさい。あなたに、案内して頂いて、助かりました。礼を言いますよ」

 ほう機鏡ききょうは、中々、見目良い丈夫であった。

「皇后さま、この者をしっているのですか?」

 瑛漣えいれんが驚いて聞く。

「陛下のおわす瓊玖ぎきゅう殿まで案内して下さったの。あの時は、花玉堂かぎょくどうだったわ。わたくし、そのおかげで、大切な真実を知ることが出来たので、本当に、感謝しているの」

 彭機鏡には立つように命じて、「あなた、今から、仕事は終わりなの?」と問い掛ける。

「はい。先日は、夜の番でしたので、次は、明日の朝からです」

「昼夜を問わずに、番をして下さるおかげで、妾や、このものたちが、安らかに暮らせるのね。彭機鏡、それに、衛士の者たち、感謝しますよ。……そうだ。どうせならば、一つずつ、饅頭を持っていって。
 妾達は、いまから、城下へ行って、職人に逢おうと思うの」

「職人、でございますか?」

 真っ白でふわふわとした饅頭を捧げ持ちながら、彭機鏡が聞く。

「ええ。妾と愁月と女官達の衣装を作りたいのだけれど、皇帝陛下がご立腹なことだし、皇城の職人に作らせるのも、自由が利かないようだから、外の職人に頼みたいのよ」

「護衛も付けず?」

 一応、武芸を仕込まれているという女官達を連れては来ているが、万が一の時には、確かに心許ない。

「ええ」

「では、わたくしが、お供致します」

 彭機鏡が、跪いて、拱手した。

「でも、あなた、寝ずの番だったのでしょう? 休まなければ、身体が持たないわ」

 固辞した琇華だったが、女達の安全の為に、と彭機鏡の申し出を受けることにした。



「愁月も、あまり、外を出歩いたことはないのよね?」

 琇華は、確認するように言う。元々、愁月は、この国でも有数の貴族の姫君だった。ならば、町歩きをしたことがないほうが普通だ。

「はい。ですから、わたくし、あの………心細くて………」

 あたりを窺うように、びくびくしながら、愁月は言う。

「大丈夫ですよ。なにかあっても、彭機鏡もおりますしね。それに、あなたは、必ず妾が守るから……それより、楽しいことを考えましょう? わたくしは、黄金色の衣装が欲しいの。だから、あなたは、紺青の衣装が良いわ。きっと映えてよ?」

 ゆっくりと皇城と花園の間の道を場外へ向かって南下する。一刻ほど、たっぷり歩いて、琇華達一行は、やっと場外へ出ることが出来た。

「皇后陛下、ご出立である」

 彭機鏡が、城門の兵士に告げる。すると、すぐさま、門番達が動き始める。下から見上げると、天にも届くのではないかと言うほど、城門は巨大だ。その巨大な城門を開くには、時間が掛かる。大の男が二十人も掛かって、押し上げるのだ。

 どん、どん、どんっ、どどんっ。

 太鼓の音が鳴り響く。この太鼓で呼吸を合わせながら、門を押し開くのである。

「通常の門は、あちらです」

 彭機鏡は、城壁の片隅にある小さな門を指さした。門番は、十人ほど居たが、門扉は開いたままだった。

「我々は、あの門から出入りします。小さな俥ならば、あそこから出入りします。こちらの御門は、皇后陛下、皇太后陛下、先帝陛下および、皇太子殿下と、特別に許しを得た皇族、高官のみが出入りを許されます。
 ですから、ここのものたちは、みな、この国で神聖な色である、黒の衣服を着ているのです。勿論、黒は、皇帝陛下のみの御料ですので、この者達の色は、『黒』ではなく『暗色』と呼ばれます」

 彭機鏡が説明するとおり、皆、黒い服だ。対して、彭機鏡は、身分に応じた色なのだろう。円領えんりょう(丸い襟)の衣装は、橙色だった。

 皇后の色は、気の滅入りそうな鴉青からすば色である。

 やがて、扉が開き、銅鑼が鳴り響いた。

「皇后陛下、ご出立!」

 号令が、反芻される。この中を、しずしずと、琇華は進んだ。そして、念願の瀋都しんとへ、足を踏み出す。踏み出して、絶句した。

 

 ――――がらん、としていた。

 秋でもないのに木枯らしが吹いたように、塵一つ落ちていない整然とした道。そこに、人の営みの気配はなかった。

「こんなに……誰も居ないの?」

 声が、掠れた。

「少し前までは、外で寝転んでいた者も居たようですけれど……みな、目障りだと追い立てられて」

 彭機鏡の説明を聞いて、琇華は、背筋がぶるっと震えた。

(こんなに酷いなんて)

 どこからともなく流れてくる強烈な匂いに、鼻が曲がりそうだ。何の匂いかと思って探ると、邸宅と邸宅の間の隙間に、人が倒れていた。一瞬見ただけだが、琇華の目に焼き付いて離れなかった。死体は、中年の男のようだった。かろうじて、肉に引っ掛かっていた衣装から判断すると、である。皮膚は、青紫色になって、内側から割れたように、いくつかの亀裂が走っていた。そこに、白い蛆虫がびっしりとたかり、うねうねと白い波のように蠢いている。

「死体です。あのような不浄なものは、御覧になりませぬよう」

 琇華は、唇を噛んだ。

「あのまま、放置していたら……蛆の被害が酷くなるわ。どこぞに埋葬するか、火葬するしかないわね。……それを、頼めば手伝ってくれそうな町の者を探すわ」

 声が、震えた。

 死体からは離れたが、あの死臭―――いや、人間の身体が腐っていく、強烈な臭気だ。

 女官達の何人かは、倒れているようだった。

(倒れては居られないわ……)

 このままでは、瀋都は、死の町になるだろう。城門から近いこの区域は、普通は、大臣などの邸宅になっているはずだが、そこでこの状況だ。これでは、城下の、職人達の住まうあたりは、どんな惨状になっていることか………。

 琇華は顔を上げた。

「誰か、誰かおらぬかえ!」

 大声で叫びながら、通りを歩く。その声を聞きつけたのか、小さな子供が、ひょっこり、無気力な顔で塀と塀の間から顔を出した。

「妾は、教えて欲しいことがあるの。教えてくれたら、お礼に、饅頭を差し上げてよ」

 琇華が合図すると、瑛漣が心得たというように、手にした桶に山と積まれた、饅頭を見せた。

 子供の、虚空を映したような空ろな瞳に、光が戻る。



 

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