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58. 皇帝の一大事
しおりを挟む午後のひととき、琇華は、繍工のおばちゃんたちに混じって針を動かしていた。
刺繍である。
髪の毛よりも細い絹糸を数本束ねて、刺繍するので、大変細かな手作業が必要な品だった。これは、この地方だけで行われている特別な刺繍だという。
「これを、我が国の儀式で使うようになったら……こぞって他の国も、これを使うようになるわ」
琇華には、その確信があった。游帝国以外の各国……堋国、棠国、熹国、鑠国などの国々は、游帝国を手本としている。儀式や風習など、各国独自のものもあるが、基本的に、宗主国である游帝国に倣う形になる。
これは、堋国の事情を琇華は良く知っているので、間違いない。
游帝国の儀式用に使う品々を豪華にして、近隣諸国にも使わせる。なんなら、金の有り余って居るであろう貴族や富裕層にも買わせる。そうやって、この刺繍を使わせる。その一方で、ほかの地域には、この刺繍をさせないように触れを出してある。この刺繍については、瀋都で生産を独占する。皇宮に於いても服を作成する部門があったが、どのみち、下請けとして城下町に出されているのだ。
「それにしても、皇后さま、大分、皇帝陛下の感冒は長く掛かったようだね」
「夏の感冒は、誰が罹っても長引きますわよ。……皆様方も、お気をつけてね。妾は、皆様方を頼りにしているのよ」
皇帝の容態が悪いことは……表向き、感冒ということになっていた。真実を公表すれば、国が混乱するからである。
皇帝の体調など、公表されているものは殆どが嘘だ。
「頼りに、だって」
繍工の女達は、顔を見合わせて、へへ、と笑う。
「そうですわ。妾の考えた財政立て直し計画は、絶対に、皆様方の力が必要なの。だから、妾も、お手伝いするわ」
キッパリと言い切った琇華の顔を見て、女達は、へへ、と笑う。
「皇后さまなんて、雲の上のお人かと思って居たけれどねぇ」
「わたしらと一緒に、刺繍をやって下さるなんて……」
「陛下の、衣装は、妾が刺繍したいの」
琇華が刺繍しているのは、皇帝用の衣装だった。それでも、一番重要な……漆黒の上衣の刺繍は、齢八十という、熟練の繍工に頼んで居る。これは、黒糸と金糸、そして、様々な宝石などで刺繍する為、技術が必要だった。
琇華が刺繍しているのは、皇帝が、何枚も重ねる直領の衣である。上衣と色味が違う黒で作られたところに、黒と銀の刺繍糸で様々な吉兆紋様を刺繍している。
「皇帝陛下も、こんなに良い皇后さまをお迎えできて、幸せな方だねぇ」
「たいてい、雲の上のかたがたは、下々の所まで降りてくることはないからねぇ」
それは、おそらく、琇華が堋国出身だった事が大きいだろう。
堋国では、年に一度、大茶会という催しが行われる。身分の貴賤関係なく、誰でも参加できる大茶会だ。実際、琇華は、大茶会に参加した際、堋国の民達と楽しく茶を飲む機会を得ている。
だから、もともと、市井のものたちと交流を持つことに抵抗がなかったのだ。
「皇帝陛下は、妾にも、とても優しくして下さるけれど……お世継ぎのことを考えると、妃を迎えて貰った方が良いのよね……」
小さく呟いてしまう。本当ならば、国家の機密に関わることだ、口にしない方が良いのは解っていたが、つい、ぽろっと零れた。
「あらあら、皇后さま! なぁにを言っているんだか!」
「そうですよ! まだお若いし、游帝国に来て半年も経っていないでしょう? あたしなんか、五年、子供が出来ませんでしたよ。でも、ちゃんと、子供は授かりますからね」
「そうですよ、善行を積んだ分、他の人より、早くご懐妊しますよ!」
女達が慰めてくれるが、そうではない。
この国は、堋国の血を引く子供を帝位に就けるつもりはない。
(陛下は、まだ……妾との間に子が出来たら、殺すと仰せになるのかしら)
それも、解らない。
表情の曇った琇華は、気分を変えようと顔を上げて「さあ、日が高い内に、すこし刺繍を進めましょう」と繍工たちに呼びかける。
「そうだね」
「ああ、皇后さまの言う通りだ」
女達が賛同を示していたその時だった。
「皇后陛下! 皇后陛下っ!」
仮面の側近、洙学綺が刺繍工房へ駆け込んできたのだった。
「ちょいと、アンタ! 戸がもげちまうよっ!」
「そ、それどころじゃないんです! 皇帝陛下が、何者かに攫われました!」
琇華は、耳を疑った。だが、大急ぎで駆け込んできた洙学綺は、床に膝を付きながら、荒い呼吸を取り繕うともせずに、琇華に言った。
「……陛下は、ご無事なの?」
すう……、と全身から血の気が引いている。
「解りません……まずは、皇后陛下、皇城へお戻り下さいませ」
震える指先を、必死で隠しながら琇華は立ち上がる。
「ごめんなさいね、皆様。妾は、皇城へ戻ります。くれぐれも、この件は、他言無用に」
唇を噛みしめて、さも、何でも無いことのようにして、平然と歩く。だが、頭の中は、不安でいっぱいだった。
(攫われたって……どういうことなの……?)
だが、まずは皇城に戻らなければならない。洙学綺は、琇華を馬車へと案内した。馬車は、大通りに止められていた。いつもつかうものよりも、大分大きな馬車だった。外からは完全に見えないように箱形になっていて、明かり取りの為の小窓まで付いたものだ。
「中で、少々打ち合わせなど……」
その洙学綺の言葉に従って、琇華は馬車へと乗り込む。四人は優に乗れる広さだった。
「それでは、職人の皆様、失礼」
洙学綺がそう告げながら、馬車の中に入ってくる。
程なく、馬車が走り始める。
「皇后陛下、まずは、白湯を。気を静めてくれます」
洙学綺から受け取った白湯を、琇華は一気に飲み干す。たしかに、のどは、カラカラに乾いていた。
「それで……皇帝陛下のご様子ですが……」
洙学綺が、琇華に告げる。目の前の仮面が、揺れて笑っているように、ぐらぐらとゆれていた。
(なに……?)
訝しむ余裕もなく、琇華の意識は、遠のいて、闇に飲まれていった。
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