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60. 偽りの人物
しおりを挟む洙学綺の経歴は、齟齬がある。
(いや、正しいのは、絶対に系図のはずだ)
漓曄は、水差しから、直接水を飲んだ。喉の奥が、カラカラに乾いて、貼り付きそうだった。
系図が正しいのだとしたら、洙学綺は、現在十六歳。
鑠国への留学は、実に、十二歳のころという天才だったはずだ。
だが、現在、漓曄の側に居る『洙学綺』は、間違っても十六歳の少年ではない。
漓曄と同い年の、二十四歳だ。だからこそ、入宮の際に提出された書類が、漓曄と同じ『蓮花十年生まれ』となって居るのだろう。
「……まさか……」
思いたくはなかったが、あれは洙学綺ではない。別の人物だ。
「では、一体、誰なんだ……?」
考えるが、出てこない。思い当たる節などあるはずがない。だが、あの人物は、仮面を掛けて、のうのうと漓曄の側で『側近』をやっていたのだ。本人は出世を望まないと言っていたが、理由はただ一つだろう。
昇進となったら、様々な人間が、書類の精査をする。その時点で、洙学綺が偽りの人物だと気付く可能性が高くなっていたはずだった。
漓曄は、すっくと立ち上がった。
あれが誰であるか、そんなことよりも、側に琇華が居るはずだった。
(琇華が、危ないかも知れない!)
とっさに、そう思ったのだった。
「陛下?」
「馬を! ……城下へ向かう」
「馬? 城下………? 一体、どういうことでしょう」
慌てふためく宦官は、事態を、理解して居ない。漓曄が説明していなかったのだから、仕方がない。だが、漓曄は苛立って、足早に外へ出ようとしたときだった。
『陛下っ! ……っ皇帝陛下っ! 一大事でございます!』
外から、声が聞こえた気がした。男の声のようだった。
「なにか、聞こえたか?」
宦官に問い掛けると「はあ、なにやら、聞こえるような……」とはっきりしない。だが、確かに、声は聞こえる。
『陛下っ! 皇后さまが!』
『黄金姫さまが、攫われたんですよ!』
俄に信じがたい言葉が、漓曄の耳に飛び込んで来た。しかも、こちらは、何十にも重なって聞こえる。おそらく、女たちが大勢で声を上げているのだろう。
漓曄は、窓を開けた。
すると、窓の外に、後宮の衛士一人と、なにやら、粗末な衣装を纏った中年の女達が居るのに、一瞬、たじろいでしまった。
「陛下!」
衛士が、漓曄に気がついて、とっさに拝礼する。女達も、慌てて、礼をした。
「いや、礼は良い。そなた達、一体なにを騒いでいたのだ?」
漓曄が、一人の中年の女に目をやると、彼女は、たどたどしく、震える声で、漓曄に返答する。
「黄金姫さまが……、仮面の男に攫われました。それと、お妃様も」
「お妃様……」
「古淑媛です」
すかさず、衛士が言う。漓曄は、前身から、血の気が引くのを感じていた。目の前が、一度、くらり、と傾ぐ。
「仮面の男か?」
「はい。なんでも、皇帝陛下が、攫われたと、虚言をいって、馬車に乗せて行ってしまいました」
そして、漓曄の前に翡翠の佩玉が差し出される。それは、淑媛のもつ、佩玉だった。
「助けに行かなくては!」
漓曄は、入り口へ向かう時間も惜しんで、窓からひらりと外へ出た。
「衛士、馬を! そなたも、供をしなさい」
命じられた衛士、彭機鏡は、「ハッ!」と短く受けて、厩へと駆け出す。
中年女達に取り囲まれる形になった漓曄は、彼女たちに問い掛けた。
「あなた方は……皇后が、いつも世話になっている職人かな?」
「い、いえ……、わたしらのほうが、皇后様に、おせわになって……」
思わぬ言葉を掛けられた女達は、美貌の皇帝を前に、真っ赤になりながら、たどたどしく言った。
「いや、あなた方のおかげで、皇后は、日々、楽しそうにしている。礼を言います」
漓曄は、一度、礼をした。まるで、皇太后にでも拝礼するような、丁寧な礼を見た中年の女達は、皆、驚いていたが、驚愕は、すぐに感激の涙に変わった。
「こ、皇帝陛下に、お礼を言われるなんて……、ねえ」
「本当に、勿体ないことです」
女達は、すすり泣きながら、袖口で、涙を拭っていた。
「いや、それより、陛下! 黄金姫さまを!」
丁度、彭機鏡が、馬を二頭引いてきた。皇帝は、馬に「頼む」と声を掛けてから、跨がる。そのまま駆け出そうとした時に、一人の女がの声が聞こえた。
「町の男衆が、馬車のあとを追いましたから! 辻で立っているはずです!」
「それは有り難い。……では!」
漓曄は、そのまま馬を走らせた。後ろを、彭機鏡が続く。
皇城を抜け、瀋都へ入る。下町へと南下していくと、辻に男が立っているのがわかった。
「陛下ーっ! こちらです!」
大声で手を振りながら、男が案内してくれた。
その声に導かれながら、漓曄は、必死に馬を走らせる。
朱学綺が何者なのか、判然としない。だが。
(絶対に、お前だけは許さない……)
漓曄は、冥い熾火のような、怒りを押し込めつつ先を急いだ。
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