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62. 游帝国の皇后
しおりを挟むここがどこだか、琇華には解らない。
灯りがともされていなかったのは、油まみれのこの部屋では、かえって幸福なことだったのかも知れないが、部屋の様子は、次第に掴めなくなってきていた。
(とにかく、抜け出さないと……)
愁月の放り投げてくれた、釵に縄をこすりつけて居るが、油で滑って、中々切れない。
(愁月の……命は無事だと思うけど)
愁月が、今も、あの男を思って居ると言うことはないだろうし―――なにより、女の髪を引っ張るという乱暴な態度が気に掛かる。
もしかしたら、命も危ないかも知れない。抵抗した愁月を、殺すくらい、あの湃《はい》清延は、やりそうだ。
(妾がここに居ることを、陛下はご存じないわ……)
調べていけば、繍工の女たちから、『洙学綺』が、琇華を連れに来たということは解るだろう。そして、洙学綺が、皇城に戻らなければ、その足取りを探すだろう。だが、仮にそれからここに辿り着いたとしても、琇華は殺されているだろうし、愁月は奪われたあとだ。
だから、琇華が、なんとかするしかない。
(落ち着いて。……この縄は、切ることが出来るわ)
そう言い聞かせて、琇華は、辛抱強く、釵を動かす。
日が落ちて、部屋の中は、闇に満ちた。この闇では、もし、清延《せいえん》が足音を忍んで近づいたら、その人が近づいてきたことさえ、解らないだろう。
(そして、解らないうちに、殺されるのはまっぴらだわ)
その為には、まず、琇華が自由になること。これが一番大切だった。
しかし、荒縄は、琇華の柔肌に食い込んでいる。手強い。釵を動かし続ける琇華の指先が、重く、億劫になる。何度か、心がくじけそうになったが、愁月を助けなければという一心で、手を動かし続ける。
腕の筋が突っ張って、指先がつりそうになり、そろそろ限界かも知れない……と琇華が諦めかけたその時、荒縄は、ぷつり、と切れて勢いあまって釵が手首をサッと引っ掻いた。血が滲んでいる感触がするが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
(はやく、愁月を助けなければ……)
琇華が身を起こして立ち上がろうとした、まさにその時だった。
闇の向こうから、カツン、と靴音が響いてくるのが聞こえた。
カツ……。
カツ………ン……。
幽かな―――足音を殺して進んでいるような、押し殺した足音が、近づいて来る。
(近づいて来る?)
琇華は、身構えた。一通りの結婚の儀式を終えた清延《せいえん》が、琇華を処分する為に、ここに来ることも考えられる。
琇華が手持ちするもので武器になりそうなものなど、愁月の釵と、あとは、自分の釵だけだ。特別な訓練を受けた者ならば、それだけで、正確に一突きして人を殺めることも出来るのだろうが、琇華は、そんな訓練など受けていない。
徐々に近づいて来る足音に、気が変になりそうだった。
(陛下……っ!)
本当に、今朝の幸せなひとときが、嘘のように思える。初めてお互いの名前を呼び合って、なんとなく、心が通じたと実感できたのに。
(幸せすぎて、天が罰を下されたのかしら……)
弱った心が、そんなことを考えたが、琇華は(いいえ)と思い直した。
(幸せすぎることを、罰されることはないわ。それに、仮に罰が下るなら、雷でも落とされる。……これを行ったのは、湃《はい》清延という哀れな男)
それならば、なにも畏れる必要はない。
琇華は、すっくと立ち上がった。その揺るぎない立ち姿を、もし見るものが居れば、流石、游帝国の皇后だと、平伏するだろう。琇華は一度目を瞑り、呼気を整えてから、す、と顎を上げた。そのまま、油に汚れた建屋の中を、雲の上を滑るように歩いて行く。
琇華の前方から、靴音が近くに迫っている。
カツ……ン……。カツ……。
靴音が、ピタと止まった。琇華の前方に、足音の主が居るらしい。
「妾を、殺すつもりか? しかし、妾は存外しぶといぞ」
闇の中、相手の姿は見えない。どれほど、余裕の笑みを浮かべてここまで来たのか、全く解らなかった。だが、琇華は臆さなかった。釵一本でも、喉元を狙えば……と、真剣に思い詰めたのである。
しかし、予想外の事が起こった。
足音が、突如猛然と琇華に迫ってきたのだった。
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