伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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63. 清延の本音

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 迫り来る足音に、琇華しゅうかは身構える。

 念の為、かんざしを構えていると「琇華! 琇華か!」と、足音と共に声が近づいて来るのが解った。

「え……、この声は、まさか……漓曄りようさまっ?」

 琇華は、声を張り上げる。まさか、ここに漓曄がくるとは、琇華は思っていなかった。攫われたのだし、第一、しゅ学綺がくきの正体も、知らないはずだ。

「琇華、無事か!」

 だが、確かに、声は、漓曄のものだった。琇華は、駆ける。途中、油で汚れた靴のせいで滑りそうになったが、「漓曄さまっ!」と叫んで闇の中、近づいてきた男に、飛びついた。

「琇華。たしかに琇華だね? 良かった。あなたが無事で。 ……今、灯りを付けよう」

 漓曄が携帯用の火打ち石を使って灯りをつけようとしたので「お待ちになって!」と鋭く琇華は止めた。

「琇華?」

「このあたりは、一面、油が撒かれています。……ことが済めば、あの男は、妾もろともに……この殿舎を焼き払うつもりです」

 琇華は、再会の喜びもつかの間に、漓曄に先を急がせる。

「琇華、一体なにが起きているというんだ?」

 困惑した声で問い掛ける漓曄の手を引っ張って、琇華は急ぐ。あたりは、真っ暗闇だったが、漓曄が側に居てくれるのは心強かったし……おかげで気持ちが落ち着いたせいか、目が慣れてきた。

「朱学綺に攫われました」

「それは、町の女性達から聞いた。彼女たちの機転で、馬車を追ってくれたらしい。皇城に向かうなら、馬車は北へ向かうはずだが、南へ向かったのを不審に思って、町の者たち総出で、あなたのあとを追跡してくれた。おかげで、ここまで、全く迷いなく来ることが出来たよ。これは、ひとえに、町の者から信用され、愛された、あなた自身の人徳によるものだ。彼女たちは、皇城まで来て、私に訴えたんだ」

 そんなこととは全く知らなかった琇華は、胸が熱くなる。

(妾は、この国にいても、良いという事ね………)

 民から、認められたという事実を目の当たりにして、琇華は、目頭が熱くなった。嬉しくて涙が零れるが、いまは、その喜びに浸っている場合ではない。

 漓曄の手を引きながら、琇華は告げる。

「洙学綺の正体は、湃《はい》清延せいえんという男です」

「湃《はい》清延せいえんだって? ……愁月の婚約者だった男だろう? なぜ、生きている?」

「陛下を強く恨んでおいでです。愁月を、奪われたと思って居ます……そして、湃《はい》家を滅ぼし、しゅ学綺がくきとその家族を襲って、なりすましたようです」

 漓曄が、息を呑むのが解った。

「では……あれは、本当に湃《はい》清延せいえんなのだね」

「はい……そして愁月が、婚礼のやり直しの為に連れて行かれました。早く、助けに参りましょう!」

「ああ、急ごう!」

 琇華と漓曄は、足早に、母屋と思しき殿舎に立ち入る。甘い香の薫りで満ちた殿舎の奥から、灯りが漏れている。

「あちらに灯りが付いているようですわ」

 闇の中、二人は、こくん、と頷く。一歩ずつ、近づいて行く。足音を立てないように、ゆっくりと。

 辿り着いた場所は、寝所だった。初夜のように皓々と灯りがともされており、牀褥しょうじょく、柱、牀帷しょういに至るまで、すべて赤一色で整えられていた。

 そして、牀帷しょういの影に映るのは……。

「湃《はい》清延せいえん!」

 漓曄が、鋭く叫ぶ。その声に気がついて、牀褥しょうじょくの上の清延が、ぎこちなく、振り返ったようだった。

(愁月は……無事かしら……)

 琇華は、それが気になった。無理強いに近い形で身体を暴かれるのは、辛い。たとえ。それがかつての婚約者であったとしても。

「愁月っ!」

 琇華が叫ぶが、反応はない。代わりに、返事をしたのは、清延だった。

「無粋だねぇ、黄金姫。わたしたちの初夜を邪魔しに来たのかい? この男と一緒に」

「愁月は、無事なの?」

 琇華は、清延の問いには答えずに、愁月の無事を確認する。

「愁月は、無事だよ? 無事というのも、おかしな事だ。なぜ、私が、愛する愁月に危害を加えると言うんだ」

 不愉快そうな声音が聞こえた。真紅の牀帷しょういを割って現れた清延は、顔を歪めながら、琇華を見る。仮面を外した清延の顔は、皮膚が溶けて、半顔が、醜く潰れていた。

 琇華が、清延の顔に魅入ってしまったのに気がついたのだろう、清延は、にやりと笑みながら言う。

「自分でね、熱湯を掛けてね……顔の半分を捨てたのさ。万が一、仮面のしたを暴かれても、言い訳が立つように」

 清延の狂った哄笑が、部屋の中で、龍のように渦を巻いている。その音をかき消したのは、漓曄だった。

 す、と漓曄は佩刀を抜いた。幅広の、刀だった。

「おやおや、皇帝陛下。あなたは、そういうことは、からっきし駄目でしょう? しってますよ。武術も駄目、勿論、軍を動かすほどの兵法の知識もない。詩文にも疎くて、女心も解らない。せめてもの救いは帝室の血統を色濃く移した、その美貌だけ……。あなたに出来ることなんて、せいぜい、他国に姿絵を売り歩く程度の、ハリボテ皇帝陛下」

 けらけらと笑いながら、清延は言う。そして、牀褥しょうじょくの端に置いていた剣の鞘を払った。

 切っ先が、漓曄に向けられる。迷いも躊躇いもない構えだった。



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