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第二章 菓子を求めて游帝国へ
歴代皇帝ゆかりの温泉
しおりを挟む靡山から、平原を見遣ると、乾いた土煙の向こうに高い城壁に守られた、游帝国の首都、瀋都が見えた。
「なにを見てる、娃琳」
厩に馬を預け終えた鴻が、声を掛けて来た。
翡翠池《ひすいち》は、元々、竜女が使ったという伝説を物温泉だが、この村の名前になって居るという。
「先帝(槐花帝、瀛黎氷)は、良くお運びになったもんだけどねぇ。いまの、仙花大女皇帝(濘灑洛)は、一度もおいでになっていないんだよ。そろそろ、美貌も衰えてくる頃合いだろうから、温泉でゆっくりなされば良いのにねぇ」
勝手なことを言うのは、皇帝が使う温泉用の宮殿の管理を任されているという、老婆だった。
「美貌も衰えるっていうが、まだ、三十四だろう? 女皇帝は」
「三十四だったら、女は衰えるよ! ……ああ、そこの奥さんも、もうそろそろ、三十路だろう? 肌に艶がなくなってきているし、目の端に皺があるよ。どうだい、温泉に入って行かないかい?」
老婆は、ひっひっと笑いながら、娃琳に言う。正直な所、奥さんという言い方も気になった娃琳だが、肌に艶がないだの、目の端に皺だのと言うのは、余計なお世話だ、と怒鳴りつけたくなった。
「温泉とは、この、皇帝のお使いになる宮殿を、使うと言うことか?」
「ああ、なんなら、ここに泊まると良いよ。ここは、先帝から、管理を任される代わりに、好きなように使って良いというお達しが出ているんだ。そのかわり、毎日の掃除から、何から何まで、全部、こっちがただでやってるんだ。身を粉にして、浴室の床の隅々まで、ぴかぴかに磨き上げるかわりに、好きに使えって言うんだよ」
「先帝……」
娃琳は、先帝の御代を覚えていない。割と善政を敷いていたというが、晩年は、濘皇后(現在の仙花大女皇帝)に狂って、そのまま崩御したという話を聞いた。
「そうそう、先帝の頃は良かったねぇって、みんな言ってるよ。今の女帝は、どうにも、締め付けが厳しくってねぇ」
老女の嗄れた指に手を取られた。思わず、引きつった声が出そうになったのは、次の老女の言葉でかき消えた。
「それとあんたら、どうだい、この村に用事があるんだったら、皇帝陛下の牀褥で眠っていきなよ。それに、この翡翠池は、子宝に恵まれるという湯だよ。なんと言っても、先帝(槐花帝)も、先々帝(槿花帝)も、みんな、ここで子供をこさえていったんだからね! 夫婦者だったら、絶対に、入っておくべきだよ!」
老女は、折角現れた客を、絶対に逃がすまいと、鬼気迫る勢いで、勧めてくる。嗄れた指が、娃琳の肌にめり込む勢いである。
「ふ、!」
夫婦なんかじゃない! と言おうとしたのを、鴻に口を手で塞がれた。
「子宝に恵まれるとは嬉しいな、娃琳。……この通り、妻のほうが年上だから、子宝を焦っていたんだ。やはり、自分の子を、腕に抱いてみたいからね」
にこにこと微笑みながら、とんでもない事を言う鴻を睨み付けようとして、目で制された。
「妻は、恥ずかしがり屋なんだよ。……だから、あまり、からかわないでやってくれ。今日は、ここに投宿するから、仕度をしておくれ。ところで、この通り、駆け落ち同然の夫婦なんだが……、皇帝の寝室は、高額なのかな」
きっちり、宿代を値切る鴻を頼もしいと思いがら、もう一つ、全く別のことを、娃琳は考えて居た。
(……こういうことに手慣れているみたいだし……、本当は、雑琉の市井の者なのかな)
どちらでも、良かった。
老女に部屋を整えて貰っている間、村で食事を摂ることにした。
「食事だったら、酒場があるからね、あそこは、安くて、美味いものを食わせるよ」
勧めてくれた村の者の言葉を信じて、酒場へ行く。
日が沈みかけた時分だが、早々に仕事を切り上げたものか、狭い店内に、男達が五人も額をくっつけるように固まって、茶碗を傾けていた。中に入っているのは、酒だろう。
「珍しいね、旅のひとかい?」
店主らしき男が、入ってきた娃琳たちに声を掛ける。
店内は、酒と、油と、食べ物と、男達の体臭の入り交じった匂いが籠もっていた。初めて嗅ぐ匂いに、思わず、娃琳は顔を顰めてしまう。だが、ちらりと見遣ると鴻は平然としているので、酒場というのは、どこもこんなものなのだろうと思い直す。
「ああ。村の人から、ここで飯が食えると聞いてきたんだ」
「夫婦かい?」
「まあね」
娃琳の腰に、にゅっと鴻の腕が伸びてきて、彼の身体のほうへと引き寄せられた。
「おおっ、熱いねぇっ!」
ひゅうひゅうと口笛を吹く男たちが、はやし立てる。そんな声を聞きながら、鴻は入り口にほど近い席に娃琳を導いた。
「あちらの、人の多い席のほうが良いのでは?」
そう聞くと、鴻が、娃琳の耳許に唇を寄せる。
「万が一の場合に備えて……ね。入り口が近い方が良い」
鴻が言葉を発する度に、耳朶に暖かな吐息と、柔らかな唇の感触を感じる。それに、くらり、としながら、娃琳は「警戒しすぎだ」と呟くが、鴻は微笑むだけで、それ以上は言わなかった。
「このあたりの名物を……二人分持ってきてくれないか。酒は良いよ。酒癖が悪くて、いつも、妻に怒られるんだ」
鴻の言葉を聞いていた男達が、ぎゃはは、と下卑た笑いを漏らす。
「はははは、お前ぇ、さっそく、尻に敷かれてンのか!」
「姐さん女房の味は、さぞかし良いんだろうなあ」
鴻は相手にしなかったが、娃琳は慣れていないので、一刻も早くここを出たい気分でたまらなかった。
(ああ、早く、食事が届けば良いのに!)
恥ずかしがっていると、鴻がもう一度、耳許に囁く。
「……恥ずかしがって、奴らを喜ばせてやることはないよ」
「喜ばす……?」
「アイツらは、酒の肴が欲しいんだ。……だから、俺らが、こんな風にしてれば、そのうち、自分の酒に戻るさ」
どさくさに紛れて、鴻の口唇が、娃琳の頬に触れた。
「………今のは、必要だったのか?」
鴻は、答えない。
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