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第二章 菓子を求めて游帝国へ
だから、あなたは、もう少し、配慮をしろと言うんだよ
しおりを挟む何でこんなことになったんだ……と、娃琳は順を追って考える。
温泉に来た。皇帝の使っていたという寝室は、牀褥が一台しかなかった。仕方がない。鴻は、『夫婦』だと言ったのだし、それは、もう、本当に仕方がない。その方が安全だと言うことも、よく解った。
そして、実際に、賊に襲われて、これは鴻が退治した。上手くいって良かったと思って居る。
(それで、返り血を清める必要があるのはわかる……し、安全の為には、一緒に入った方が良いのも、解っている)
だが、それはどうなのだ? と娃琳は頭を抱えていた。
皇帝専用の湯殿である『翡翠池』は、広々とした殿舎で、入ると、まず居間がある。湯上がりで寛いだり、音楽を聴いたり、茶を飲んだりする為の場所である。そして、その奥に、着替えなどを行う為の部屋がある。その奥が、浴槽のある浴室だ。
娃琳は、浴室手前の浴槽のある部屋で、衝立の後ろで湯着に着替えながら、頭を抱えていたのだ。
「娃琳、まだ?」
無邪気に、鴻が聞いてくる。それに「ま、まだだ!」と答えながら、娃琳は、どうしようかと気ばかり焦っていた。
「まだ着替え終わらないのか?」
着替えは終わったが、心の準備が出来ていないんだ! と、叫び出したい気持ちを堪えて、娃琳は、溜息を吐く。いつまでも、鴻を待たせておくわけにも行かない。
一応、おかしな所はないよな、と丁度、鏡があったので、湯着姿の自身を確認する。髪は、いつもの通りに結っている。葡萄の釵は外してあるが、特に変わらない。真っ白な湯着を来た姿は……いつもの、地味な姿と、大差無かった。だが、ここ数日は円領の官服のような男物の装束を着ていたから、久しぶりに、女の衣装を身に纏ったような気分になっている。
「娃琳」
呼びかけられて、仕方がなく、娃琳は鴻の所へ向かう。
「そんなに急かすな。女は、色々、仕度が掛かるんだよ」
「それは悪かった……あなたも、早く、血を拭いたいと思ったからね」
鴻は、にっこりと笑う。その手に、絹の手巾があった。どこから持ってきたのか解らないが、この殿舎のどこかにあったものを、勝手に持ち出したのだろう。
浴室の戸にも、龍が描かれていた。扉の取っ手にも、龍が飾られている。
「どこもかしこも、龍だな」
「仕方がない。游帝国は、龍に守護された国だ」
湯気に隠された湯殿は、大変、豪華な物だった。黒曜石で作った柱に、水晶の簾、金枝銀枝の飾りには、瑪瑙や珊瑚で作った梅や桃の花が付いていた。名工の手によるものらしく、花片の柔らかさは、本物の花に見まごうばかりである。
浴室に、直接掘られた大きな浴槽は、『翡翠池』の名にふさわしく、翡翠で作った玉板で大きく掘った浴槽全体を覆った、贅沢なものだ。
「す……すごいな」
圧倒されて、娃琳は掠れた声で呟く。
「皇帝専用と聞いていたから、さぞかし、豪華だと思ったが……想像以上だな」
鴻も驚いて、きょろきょろと辺りを見回している。
「なんだか、少し、変な匂いがする」
渋いような匂いがした。娃琳は聞き覚えがなかったが、鴻には、あったらしい。
「硫黄の匂いだな。……雑琉にもある。卵が腐ったような匂いがするんだ」
鴻は教えてくれたが、娃琳は、『腐った卵』と言われても、ピンと来ない。雑琉の王子である鴻が『腐った卵』を知って居る方が、面妖だ。
絶えず湯は湧き出ているらしく、浴槽から溢れた湯が、床の壁沿いに作られた溝を通って、湯殿の外へと排水されているようだった。
「これだけ綺麗にしていると言うことは、あのばあさん、ちゃんと、仕事はしているんだな。……この辺は、先帝びいきの人間が多そうだ」
鴻の言葉を聞いて、娃琳は、「そうか」と小さく呟く。先帝、槐花帝は、堋国の血を引く皇帝だった。全く、面識のない皇帝だが、娃琳にとっては、いとこに当たる。その皇帝が褒められるのは、娃琳には、悪い気はしなかった。
「女帝は、嫌われているのか?」
娃琳は聞く。初恋の人だった遊嗄の妃だった女帝は、娃琳にとって、いくらかの引っかかりを覚える存在であった。遊嗄は、娃琳にひとかけらも気持ちを持っていなかったことは承知して居るが、それでも、遊嗄が選んだ女性という意味で、女帝が気になる。
だが、女帝が不幸になれば良いとも思わないし……早くに、夫を亡くして、困難な道を歩んだ彼女には、同情はしている。もし、遊嗄が生きていれば、彼女はその皇后として、治世を支えただろう。そうなったら、娃琳も、影ながら、遊嗄の治世の為に、尽力するはずだ。
「まず、女が帝位に就いたと言うだけで、反発は大きかったよ」
鴻は言いながら、娃琳を浴槽へと誘った。
一緒に、浴槽へと入っていく。深く掘られた浴槽に入るには、階段があってそこを降りれば良かった。湯は、やや、ぬるい。浴槽の中央まで進んで、娃琳は、湯を肌に撫で付けた。すると、独特の、ぬめるような感触がする。
「ぬるぬるする」
「肌を美しくすると言うし……温めて、気の巡りを良くするというよ」
鴻は、湯に浸した手巾を固く絞って、娃琳の頬を拭った。そこに、血が付いていたのだった。
「ありがとう。あなたも、顔に沢山付いてる……私が拭くから、手巾を貸してくれ」
娃琳の申し出に、鴻は、微苦笑しながら「じゃあ」と言って、手巾を貸してくれた。鴻の顔は、娃琳より高いところにある。すこし背伸びする必要があって、鴻の腕に掴まりながら、丁寧に顔を拭っていくと、鴻が戸惑ったように、視線を泳がせたのが解った。
「もう……いいよ」
娃琳から離れようとする鴻の腕を引っ張って、「まだ取れていない。……随分、乾いてしまったようで、手強いんだ」と顔を拭う。額が一番手強くて、めいっぱい背伸びして、拭い終えたときには、妙な達成感があった。
「これで取れたよ。ほかは、どこかないかな」
首すじに血の跡を発見した娃琳は、そこも、手巾で拭う。鴻が、吐息を尖らせたのが解って、顔を見上げると、湯あたりでも起こしたように、真っ赤な顔をして居た。
「鴻……のぼせたのか?」
娃琳が問い掛けると、鴻は溜息交じりに、娃琳から離れた。
「……その格好で、密着されたら、流石に俺だって……いろいろ、障りがあるよ」
障り……。何のことだろうかと思って我が身を振り返った娃琳は「あっ! ……っこ、これは、そのっ」と胸元を覆い隠した。そこには、まろやかな曲線を描く胸が、透けて見えて居た。白い湯着である。温泉に入ると、たちどころに肌の色を透かせる。
「これは……その……」
「だから、あなたは、もう少し、配慮をしろというんだ!」
鴻に怒られて、娃琳は「はい……」とうなだれたが、多少反論したくなった。
「そ、そういう鴻だって……さっきは、牀褥で、後ろから抱きしめてきたじゃないか!」
「っ! あ、あれは……」
娃琳は、真っ赤になっているのが自分でも解っていた。ぬるい湯なので、のぼせたという言い訳は利かない。
(二人で赤くなりながら、口げんかなんて……一体、どういうことなんだか)
恥ずかしくなりながら、娃琳は鴻に背を向けた。
「娃琳……その……、俺は」
たどたどしく、鴻が何かを言おうとしている。きっと、胸を見たのは不可抗力だとか、そういう類いの言い訳だろうと思った娃琳は、ふと、脳裏を過ぎった疑問を、口に出して問うていた。
「なあ、鴻。……障りとはなんだ?」
一瞬。世界に静寂が降りた。
「だから、あなたは、もう少し、配慮をしろと言うんだよっ!」
窓にはめ込まれた玻璃が、ビリビリと震えるほどの大音声で怒鳴られて、娃琳は驚いて振り返る。
鴻は、怒っていた。怒っているのが、よく解った。そのまま、ずんずんと、娃琳に近づいて来る。水の中だと、大抵、動きは鈍くなる。ところが、鴻は、そんなことはなかった。とにかく、猛然と娃琳に近づいてきて、彼女の手を取った。
ぐい、と手を引っ張られる。
「鴻っ?」
前のめりになったので、つんのめりそうになった。鴻は、娃琳の手の上に、自分の手を添えて、それを握らせた。
最初、娃琳はなんだかよく解らなかった。ただ、存在感のある、棒のようなもの……しかも、剣のように金属で出来たものではなく、肉感のあるものだ、と単純に形状について考えて、なんだか解らなかったので、さわさわ、とそれを撫でる。
「っ……」と小さく、鴻が呻いたのに気がついてから、それが、なんであるのか、気がついた。
「こ、鴻っ!」
慌てて手を引く。
「……俺は、先に出る。出たところで待っているから」
衣を脱いだあの衝立のある部屋で待っているというのだろう。そしてもはた、と娃琳は、気がついた。そこで待ちながら、一人一人は居れば良かったことに。
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