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第五章 後宮からの逃走
30.高御座を守るには
しおりを挟む鷹峯院もお辛かっただろうな、と思う。
殆ど、訳もわからないうちに最愛の女御様を失って、ご自分の実子である鬼の君に切腹をお命じになったのだろうから。
「懐仁は、おそらく、自分が死んだことにしてでも、生き延びてくれるとは思っていたけれど……。
ねぇ最愛の息子に、死を命じたアタシの、つらさがお前に解る? 早良っ!」
鷹峯院の眦から真珠のような涙が飛び散った。
「アンタのしたことは、正しいのでしょう。高紀子が死を選んだのも、正しかったのでしょう。アタシが、真相を知っても、そうしたかも知れないし、実敦親王をアタシが手ずから葬ったかも知れないし、それは、解らないわよ。
でもね! アタシは、あんたを許さないから!
……嵯峨野の太閤。アタシは鷹峯に戻るわ」
嵯峨野の太閤が、恭しく礼をした。
「金輪際、アタシは、二条関白家に力を貸さない。早良は、アンタの娘よ。アンタが、責任を取りなさい。アタシは……いえ」
鷹峯院は、顔を上げて、一度息を吸った。
「余は、二条関白家と義絶する。二度と、そなたらの顔、余の前に見せるでない」
早良さまは、「お、お待ち下さい、院の御所様っ!」と叫ぶが、鷹峯院は、冷ややか見下すだけだった。
「どうぞ、この責は、わたくし一人のもので……」
「嵯峨野の太閤。……余の寵妃が死に追いやられ、時の帝まで、死に追いやられたのだ。それが、端女ひとりの命で償えるか?」
別人のように、鷹峯院は、冷たかった。
私は、その時、思い出した。
いまの帝も、私の前ではともかく、冷たく誰にも関心を持たないと聞いている。おそらく、鷹峯院も、帝と同じような気質をお持ちなのだろう。
そうでなければ、高御座は守れない。
「女御の名誉を守った……といえば聞こえは良いな。早良、そなたは、身を挺してでも、実敦親王から、女御を守るべきであった。余は、そなたを生涯許さぬ。それは、心しておけ」
鷹峯院は、す、と立ち上がり、玄関へと向かって歩き出す。私は、慌てて、その後をついた。
心得の良い中将は、「御前、失礼を」と申し上げてから、鷹峯院の前を歩き、そのまま車寄へ先触れとして向かったようだった。
鷹峯院の女房装束が、シュッ、シュッと苛立たしげな喘鳴のように衣擦れの音を残す。
お付きの女房としては……、お声を掛けることも出来ずに、従うだけだった。
牛車の仕度は中将が調えてくれたので、私たちは乗り込んで帰るだけだ。いつの間に、追いついてきたのか解らなかったけれど、牛車の窓からみやったお邸の前で、嵯峨野の太閤が、裸足のまま、地面に平伏しているのが見えた。
高貴な方が……、気の毒になるが、鷹峯院に言えば、ご不興を買うだろうし、やめておいた。
牛車の中は、無言だった。一言も、発することは出来なかった。仕方がない。あんな話があったあとだもの。
このまま、鷹峯まで戻るのは辛いなあと思っていると、鷹峯院が沈黙を破った。
「取り乱して、見苦しいところを見せたわね」
「いいえ……」
ショックだったのだから、仕方がないと思う。愛する女御様の御身に降りかかった、あまりにもむごい出来事を聞いたら、誰だって、激昂するのは仕方がない。
「あーと、アタシ、男言葉なんか使ったの、三十年ぶりかもね~。全く、恥ずかしいわ!」
鷹峯院がご無理をなさって明るく振る舞っているのは解ったので、私も、それに乗っかることにした。
私たちに、気遣って下さっているのだ。優しい方だ。
「……全く、実敦親王が、あんなにブッ飛んでるなんて、アタシ知らなかったわ。高紀子のことで、アタシを恨んでるのは知って居たけど……、まさか、そんな思い詰めてるなんて、アタシは解らなかったのよ。
でも、そうなると、高紀子の香を身につけてるアンタは、危ないわね。おそらく、実敦親王は、アンタを高紀子だと思ってるわよ? 顔かたち、ぜんっぜん似てないけど!」
な、何ですって!
でも、ちょっと待って。
私は、確かに、呪われている……のよね?
でも、お聞きした性格の主上ならば、私を手込めにすることはあっても、呪うことはないのでは?
だとしたら、私は、誰に呪われてるのよ?
あの小袖は、主上しか、持ち出せなかったはずだわ!
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