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第二章 流転する物語とハッピーエンド
雨女とローストビーフ(後編)
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やっぱりというか当然というか、スカイツリーの展望デッキは雨天だった。
『どうです? お相手は来ましたか?』
「いや、まだだ、雨女さんひとりだ」
俺はこそこそと柱の陰に隠れるようにして、ハイテクな珠子ちゃんと会話している。
俺が封印から覚めた時、電話といえば黒いダイヤル式だったが、ここ30年で一気に発展した。
今や、スマホとイヤホンマイクでハンズフリーで会話できる。
「おっ、きたみたいたぞ」
エレベータから出てキョロキョロしていた男が雨女さんを見つけて近づく。
「待ちましたか?」
「いいえ、さっき来た所」
そんなありがちな会話の後、ふたりは天空レストランに入る。
事前に席も予約済、そしてさらに持ち込みの了承も済んでいる。
このお膳立てのために俺は女子店員を篭絡したり、黄貴兄さんがフロアマネージャーを金で買収したりしたのだ。
「今日も生憎の天気ですね」
「すみません、わたしが雨女なばかりに」
「また、その話ですか。あなたのせいじゃありませんよ。さっ、注文しましょう」
メニューを取り出した彼の手を彼女は制止する。
「今日はお弁当を持って来ました。一緒に食べたくって」
そう言って、雨女さんは大きなお重を取り出し、蓋を開く。
「うわっ、これは美味しそうだ」
俺はその中身を知っている。
中身はフレッシュサラダとミートローフ、そしてメインのローストビーフ。
デザートには桃のクラッシュゼリー寄せだ。
確かに美味しそうだった。
だけど……
「……」
「どうしました?」
「いえ、作った時はもっと美味しそうだったんですけど」
雨天のせいか、ちょっと色合いがくすんでいた。
「十分に美味しそうですよ。頂きましょう」
そしてふたりは食事を進める。
「いやー、どれも美味しいですね。しっとりした味わいで」
「ええ、友達に教えてもらって作ったのですけど。よかった」
ドレッシングを弾くほどの新鮮さがあるサラダ。
肉と層を成している野菜から出る旨みが感じられるミートローフ。
甘い果汁がゼリーと一体となって口でとろける桃のクラッシュゼリー寄せ。
そして、表面はカリッとウェルダン、中身はしっとりとレア、極上の出来になったローストビーフの味は試食した俺が一番よく知っている。
「すみません、ちょっと中座しますね」
そう言って男は立ち上がりトイレに入る。
ポケットに小さなリボン付きの小箱を入れて。
『赤好さん、今です。雨女さんに近づいて!』
そう、ここからが司令官たる珠子さんの作戦。
その詳細は俺は聞かされていない。
なんだか『おふたりに光をもたらしてみせます!』って言ってたけど、どうするのだろうか。
サーチライトでも当てるのだろうか。
俺は作戦通り、タブレットを持ってテーブルに近づく。
「あら、赤好さん。何かあったのですか?」
「こいつを見せてやってくれと珠子さんに頼まれてな」
俺はタブレットのアプリを起動し、TV電話を繋ぐ。
『珠子です! 見えてますか!? あたしの姿が!』
レインコートを着て、風雨にさらされ耐え忍ぶ珠子さんの姿が映っていた。
「はい、見えています!」
『こっちはタブレットの防水が限界だから、切り替えますね。スペシャル応援団に!』
彼女がそう言うと、画面が切り替わる。
そこにはニコニコ顔の坊主が映っていた。
『初めましてかの雨女さんや。儂は日和坊じゃよ』
その坊主は晴れをもたらす”あやかし”日和坊だった。
「あっ、気配は感じてましたが、お顔を見るのは初めてですわ」
ふたりは近づく事はあっても出会う事はない、ましてや会話なんて出来なかった。
だが、それが今や人間のハイテクの力で会話している。
『うむ、時間がないから手短に話すぞ! ありがとうな! いつも雨を降らしてくれて!』
「えっ、日和坊さんはわたしが苦手なのじゃなかったのですか?」
『そんな事はない、儂らは表裏一体、太陽と月じゃ。自然の恵みをもたらすにはどちらが欠けてもだめなのじゃ。じゃから、儂はいつも思っておったぞ。儂の立ち去った渇いた土地にお主が訪れてくれる事を』
「わたしも思ってました。水が満ちた大地に太陽の恵みが来て欲しいと」
『うむ、がんばれ! 雨女さん! おっっとと!?』
画面先の日和坊が押し出され、今度は獣耳の狩衣装束の男がフレームインしてくる。
『狐のコーンです! あなたと日和坊さんがいないと我ら狐族は嫁入りができませんでした! だから、この恩を今こそ返します! ちょ、まだ!?』
日が照っているのに雨が降る天気雨の現象は”狐の嫁入り”とも呼ばれる。
『橋姫です! あなたがいないとあたくしの立つ瀬がありませんわ。というか瀬がありませんわ! だから……負けるな!』
続いては橋姫さんだ。
確かに、雨がなければ川もなく、そして橋も無くなる。
『珠子さんを加えたあたしたち”売れ残り女子同盟”も応援していますわー』
『あたしはちがう、売れ残りじゃないー』
半年程前に結成された売れ残りの珠子さんと清姫さん紅葉さんの”売れ残り女子同盟”とやらも無理やりフレームに入ろうとしている。
「ありがとう! みなさん! あたしがんばります! 具体的には今日、プロポーズされなければ、逆にプロポーズします!!」
決意を固めた声で雨女さんが言う。
おっと、どうやら渦中の男が戻って来たようだぞ。
俺は気づかれないようにそそくさと席から立ち去る。
「すみません、お待たせしました。おや」
彼の視線が窓の外の一角に集まる。
「あらっ」
展望台の窓から見える空に光の柱が立っていた。
雲の切れ間から陽の光が地上に注いでいたのだ。
「あちらの方は晴れているみたいですね」
「ええ、きっとわたしの友達があそこにいらっしゃるのですわ」
雨女さんはとても嬉しそうな顔で微笑んだ。
『やったー、大成功ー! いって! もっとよ! 雨女さん、最大パワー! がぼぼ』
イヤホンの先からはハイテンションな珠子さんの声が聞こえて来る。
確かに光は射した。
だけど、これじゃあ駄目だよダメダメな珠子さん。
だって、晴れているのは遥か彼方、川を超えた先なんだから。
あれ、がぼぼ!?
その時だった、窓の外が真っ暗になったのは。
展望室が雨雲の中に入ったと気づくのに、俺は数秒の時間を要した。
そして、光が……広がった。
窓の外が一気に明るくなる。
まぶしさに目がくらむ人も出るくらいに。
そう、肥大した雨女さんの妖力は豪雨をもたらす。
そして強い雨雲の高度は低くなる。
そして今、地上350mのこの展望台は雨雲の高さを超えた。
『どうですか、赤好さん! 太陽は見えましたか! あー、傘折れたー!』
イヤホンからは地上で叫ぶ珠子さんの声が聞こえて来る。
「ああ! 見えた! 光が、太陽がばっちりさ!」
俺は興奮しながらその声に応えた。
こんな事がありえるだろうか、この素晴らしい珠子さんは初めて雨女さんと太陽を巡り合わせた!
『やりました! 人類の叡智、気象科学の勝利です! ぶべぼっ』
通信が切れた。
「まあっ! ほら、お料理が太陽の光を浴びて綺麗!」
雨女さんが料理を指差す。
そこには陽の光を浴びて、ドレッシングを光とともに弾くサラダと、野菜の彩が輝くミートローフ、光をキラキラと乱反射するクラッシュゼリー、そして、くすんだ色から鮮やかなピンク色に変わったローストビーフがあった。
遠目に見ても、美味しさが増しているように見える。
聞いた事がある、ピクニックの料理が美味しいのは、太陽の光で見た目が鮮やかになるからと。
だが、男はそんな料理なんて見ていなかった。
「ええ、綺麗です……あなたが」
女は変わる、光で変わる。
室内の電気の光の下の顔と、太陽の光を浴びた顔では全く違う。
そして、俺の想像力は知っていた。
雨女さんを太陽の光の下で見たならば、誰もが心を奪われるだろうと。
「あなたに、渡したいものがあります」
そう言って男はリボンのついた小箱を取り出した。
中身は見なくてもわかる。
「いいんですの、わたしは雨女ですよ」
「雨が降れば傘を差せばいい」
「傘が壊れたら?」
「その時はふたりで雨の中、唄いながら、ワルツを踊ろう」
男は彼女の手を取り、小箱を開くと、そこにあるリングをゆっくりと彼女の薬指に入れた。
彼女の指は優しくそれを受け入れた。
「なんて良い陽気! お祝いをしましょう! なんと偶然にもシャンパンを持って来ましたの!」
「おや、バレバレだったかな。僕がずっと君を好きだったって事が」
「ええ、ずっと前から知っていましたよ」
そして、幸せなふたりはグラスをカチンと鳴らす。
シャンパンの泡が太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
◇◇◇◇
俺はふたりを展望台に残し、エレベータを下りる。
もはや俺の助けは不要だろう。
エレベータの中で俺は思い出していた。
雨女さんの伝説を。
雨女さんの伝説には原典がある。
『朝雲暮雨』
男女の固い契りを表現した故事成語だ。
その出典は、山の女神が中国の楚の王様との逢瀬の別れの時に読んだ詩。
妾在巫山之陽(私は巫山の女神)
高丘之岨(そこは高く険しい山)
旦為朝雲(だから私は、朝には雲となりて)
暮為行雨(夕には雨となりて)
朝朝暮暮(毎朝毎晩、あなたに逢いに)
陽台之下(この陽のあたる窓辺で待ってます)
※超訳
雨女さんも、江戸時代の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』で、そんな巫山の女神に似た”あやかし”だと描かれてれていた。
知ってか知らずか、珠子さんの今日のコーディネートはそれに似た状況を作り出していた。
まったく、舌を巻くしかないね。
見事な珠子さん、ひょっとして、そこまで考えていたのかい。
いや、深く考えるのはよそう。
今日の主役はあのふたりなのだから。
きっと、あの男は雨女さんに光を与えてくれる運命の人だったのさ。
『地上に雨に降るごとく、彼女の心に光さす』
そんな具合かな。
そして俺はエレベータから出て、策士な珠子さんと再会する。
「水もしたたる珠子さん、ロマンチックな姿だね。首尾は上々だったよ」
「はい、あたしはずぶ濡れですけど」
濡れ鼠の珠子さんは服の中までビショビショだった。
長靴は歩く度にグッポグッポと音を立て、泥水を吹きだしている。
雨女さんはそうとうハッスルしているみたいだね。
「でも、これでハッピーエンドですね。あたしも嬉しくなっちゃう」
泥だらけの顔で、幸せそうな珠子さんが言う。
そうだね、今日は君がもたらした『そしてふたりは……』さ。
そんな事を思いながら、俺は雨雲に突き刺さった塔を見上げた。
太陽だけが、熱いふたりの口づけを見ていた。
『どうです? お相手は来ましたか?』
「いや、まだだ、雨女さんひとりだ」
俺はこそこそと柱の陰に隠れるようにして、ハイテクな珠子ちゃんと会話している。
俺が封印から覚めた時、電話といえば黒いダイヤル式だったが、ここ30年で一気に発展した。
今や、スマホとイヤホンマイクでハンズフリーで会話できる。
「おっ、きたみたいたぞ」
エレベータから出てキョロキョロしていた男が雨女さんを見つけて近づく。
「待ちましたか?」
「いいえ、さっき来た所」
そんなありがちな会話の後、ふたりは天空レストランに入る。
事前に席も予約済、そしてさらに持ち込みの了承も済んでいる。
このお膳立てのために俺は女子店員を篭絡したり、黄貴兄さんがフロアマネージャーを金で買収したりしたのだ。
「今日も生憎の天気ですね」
「すみません、わたしが雨女なばかりに」
「また、その話ですか。あなたのせいじゃありませんよ。さっ、注文しましょう」
メニューを取り出した彼の手を彼女は制止する。
「今日はお弁当を持って来ました。一緒に食べたくって」
そう言って、雨女さんは大きなお重を取り出し、蓋を開く。
「うわっ、これは美味しそうだ」
俺はその中身を知っている。
中身はフレッシュサラダとミートローフ、そしてメインのローストビーフ。
デザートには桃のクラッシュゼリー寄せだ。
確かに美味しそうだった。
だけど……
「……」
「どうしました?」
「いえ、作った時はもっと美味しそうだったんですけど」
雨天のせいか、ちょっと色合いがくすんでいた。
「十分に美味しそうですよ。頂きましょう」
そしてふたりは食事を進める。
「いやー、どれも美味しいですね。しっとりした味わいで」
「ええ、友達に教えてもらって作ったのですけど。よかった」
ドレッシングを弾くほどの新鮮さがあるサラダ。
肉と層を成している野菜から出る旨みが感じられるミートローフ。
甘い果汁がゼリーと一体となって口でとろける桃のクラッシュゼリー寄せ。
そして、表面はカリッとウェルダン、中身はしっとりとレア、極上の出来になったローストビーフの味は試食した俺が一番よく知っている。
「すみません、ちょっと中座しますね」
そう言って男は立ち上がりトイレに入る。
ポケットに小さなリボン付きの小箱を入れて。
『赤好さん、今です。雨女さんに近づいて!』
そう、ここからが司令官たる珠子さんの作戦。
その詳細は俺は聞かされていない。
なんだか『おふたりに光をもたらしてみせます!』って言ってたけど、どうするのだろうか。
サーチライトでも当てるのだろうか。
俺は作戦通り、タブレットを持ってテーブルに近づく。
「あら、赤好さん。何かあったのですか?」
「こいつを見せてやってくれと珠子さんに頼まれてな」
俺はタブレットのアプリを起動し、TV電話を繋ぐ。
『珠子です! 見えてますか!? あたしの姿が!』
レインコートを着て、風雨にさらされ耐え忍ぶ珠子さんの姿が映っていた。
「はい、見えています!」
『こっちはタブレットの防水が限界だから、切り替えますね。スペシャル応援団に!』
彼女がそう言うと、画面が切り替わる。
そこにはニコニコ顔の坊主が映っていた。
『初めましてかの雨女さんや。儂は日和坊じゃよ』
その坊主は晴れをもたらす”あやかし”日和坊だった。
「あっ、気配は感じてましたが、お顔を見るのは初めてですわ」
ふたりは近づく事はあっても出会う事はない、ましてや会話なんて出来なかった。
だが、それが今や人間のハイテクの力で会話している。
『うむ、時間がないから手短に話すぞ! ありがとうな! いつも雨を降らしてくれて!』
「えっ、日和坊さんはわたしが苦手なのじゃなかったのですか?」
『そんな事はない、儂らは表裏一体、太陽と月じゃ。自然の恵みをもたらすにはどちらが欠けてもだめなのじゃ。じゃから、儂はいつも思っておったぞ。儂の立ち去った渇いた土地にお主が訪れてくれる事を』
「わたしも思ってました。水が満ちた大地に太陽の恵みが来て欲しいと」
『うむ、がんばれ! 雨女さん! おっっとと!?』
画面先の日和坊が押し出され、今度は獣耳の狩衣装束の男がフレームインしてくる。
『狐のコーンです! あなたと日和坊さんがいないと我ら狐族は嫁入りができませんでした! だから、この恩を今こそ返します! ちょ、まだ!?』
日が照っているのに雨が降る天気雨の現象は”狐の嫁入り”とも呼ばれる。
『橋姫です! あなたがいないとあたくしの立つ瀬がありませんわ。というか瀬がありませんわ! だから……負けるな!』
続いては橋姫さんだ。
確かに、雨がなければ川もなく、そして橋も無くなる。
『珠子さんを加えたあたしたち”売れ残り女子同盟”も応援していますわー』
『あたしはちがう、売れ残りじゃないー』
半年程前に結成された売れ残りの珠子さんと清姫さん紅葉さんの”売れ残り女子同盟”とやらも無理やりフレームに入ろうとしている。
「ありがとう! みなさん! あたしがんばります! 具体的には今日、プロポーズされなければ、逆にプロポーズします!!」
決意を固めた声で雨女さんが言う。
おっと、どうやら渦中の男が戻って来たようだぞ。
俺は気づかれないようにそそくさと席から立ち去る。
「すみません、お待たせしました。おや」
彼の視線が窓の外の一角に集まる。
「あらっ」
展望台の窓から見える空に光の柱が立っていた。
雲の切れ間から陽の光が地上に注いでいたのだ。
「あちらの方は晴れているみたいですね」
「ええ、きっとわたしの友達があそこにいらっしゃるのですわ」
雨女さんはとても嬉しそうな顔で微笑んだ。
『やったー、大成功ー! いって! もっとよ! 雨女さん、最大パワー! がぼぼ』
イヤホンの先からはハイテンションな珠子さんの声が聞こえて来る。
確かに光は射した。
だけど、これじゃあ駄目だよダメダメな珠子さん。
だって、晴れているのは遥か彼方、川を超えた先なんだから。
あれ、がぼぼ!?
その時だった、窓の外が真っ暗になったのは。
展望室が雨雲の中に入ったと気づくのに、俺は数秒の時間を要した。
そして、光が……広がった。
窓の外が一気に明るくなる。
まぶしさに目がくらむ人も出るくらいに。
そう、肥大した雨女さんの妖力は豪雨をもたらす。
そして強い雨雲の高度は低くなる。
そして今、地上350mのこの展望台は雨雲の高さを超えた。
『どうですか、赤好さん! 太陽は見えましたか! あー、傘折れたー!』
イヤホンからは地上で叫ぶ珠子さんの声が聞こえて来る。
「ああ! 見えた! 光が、太陽がばっちりさ!」
俺は興奮しながらその声に応えた。
こんな事がありえるだろうか、この素晴らしい珠子さんは初めて雨女さんと太陽を巡り合わせた!
『やりました! 人類の叡智、気象科学の勝利です! ぶべぼっ』
通信が切れた。
「まあっ! ほら、お料理が太陽の光を浴びて綺麗!」
雨女さんが料理を指差す。
そこには陽の光を浴びて、ドレッシングを光とともに弾くサラダと、野菜の彩が輝くミートローフ、光をキラキラと乱反射するクラッシュゼリー、そして、くすんだ色から鮮やかなピンク色に変わったローストビーフがあった。
遠目に見ても、美味しさが増しているように見える。
聞いた事がある、ピクニックの料理が美味しいのは、太陽の光で見た目が鮮やかになるからと。
だが、男はそんな料理なんて見ていなかった。
「ええ、綺麗です……あなたが」
女は変わる、光で変わる。
室内の電気の光の下の顔と、太陽の光を浴びた顔では全く違う。
そして、俺の想像力は知っていた。
雨女さんを太陽の光の下で見たならば、誰もが心を奪われるだろうと。
「あなたに、渡したいものがあります」
そう言って男はリボンのついた小箱を取り出した。
中身は見なくてもわかる。
「いいんですの、わたしは雨女ですよ」
「雨が降れば傘を差せばいい」
「傘が壊れたら?」
「その時はふたりで雨の中、唄いながら、ワルツを踊ろう」
男は彼女の手を取り、小箱を開くと、そこにあるリングをゆっくりと彼女の薬指に入れた。
彼女の指は優しくそれを受け入れた。
「なんて良い陽気! お祝いをしましょう! なんと偶然にもシャンパンを持って来ましたの!」
「おや、バレバレだったかな。僕がずっと君を好きだったって事が」
「ええ、ずっと前から知っていましたよ」
そして、幸せなふたりはグラスをカチンと鳴らす。
シャンパンの泡が太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
◇◇◇◇
俺はふたりを展望台に残し、エレベータを下りる。
もはや俺の助けは不要だろう。
エレベータの中で俺は思い出していた。
雨女さんの伝説を。
雨女さんの伝説には原典がある。
『朝雲暮雨』
男女の固い契りを表現した故事成語だ。
その出典は、山の女神が中国の楚の王様との逢瀬の別れの時に読んだ詩。
妾在巫山之陽(私は巫山の女神)
高丘之岨(そこは高く険しい山)
旦為朝雲(だから私は、朝には雲となりて)
暮為行雨(夕には雨となりて)
朝朝暮暮(毎朝毎晩、あなたに逢いに)
陽台之下(この陽のあたる窓辺で待ってます)
※超訳
雨女さんも、江戸時代の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』で、そんな巫山の女神に似た”あやかし”だと描かれてれていた。
知ってか知らずか、珠子さんの今日のコーディネートはそれに似た状況を作り出していた。
まったく、舌を巻くしかないね。
見事な珠子さん、ひょっとして、そこまで考えていたのかい。
いや、深く考えるのはよそう。
今日の主役はあのふたりなのだから。
きっと、あの男は雨女さんに光を与えてくれる運命の人だったのさ。
『地上に雨に降るごとく、彼女の心に光さす』
そんな具合かな。
そして俺はエレベータから出て、策士な珠子さんと再会する。
「水もしたたる珠子さん、ロマンチックな姿だね。首尾は上々だったよ」
「はい、あたしはずぶ濡れですけど」
濡れ鼠の珠子さんは服の中までビショビショだった。
長靴は歩く度にグッポグッポと音を立て、泥水を吹きだしている。
雨女さんはそうとうハッスルしているみたいだね。
「でも、これでハッピーエンドですね。あたしも嬉しくなっちゃう」
泥だらけの顔で、幸せそうな珠子さんが言う。
そうだね、今日は君がもたらした『そしてふたりは……』さ。
そんな事を思いながら、俺は雨雲に突き刺さった塔を見上げた。
太陽だけが、熱いふたりの口づけを見ていた。
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