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苦しみの中
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俺は毛布の中で目を覚ました。
上がっていた呼吸を整えつつ、周囲を見渡す。
木の枠に囲われた蛍光灯。
薄汚れた壁。折りたたみ式のテーブル。
本が数冊仕舞われた棚に、小さい薄型テレビ。
おまけに言えば、布団が敷かれているのは畳の上だ。
「……夢か」
三年前の夢を見るのは、日本に帰ってきて何度目だろうか。軽く痛む頭を振り、枕元で充電していた携帯を手に取る。
画面のデジタル表示には『5:23』とある。額に滲む汗を拭いながら、俺は悪態を付く。
「クソッ……」
もう一度毛布を被り直し、寝直そうとするが上手く行かない。目を閉じると嫌な記憶が生々しく蘇ってくるのだ。
重機関銃の弾を喰らい、上半身と下半身が千切れた仲間。
ドロリとした生気の無い瞳。
目の前で瞬くマズルフラッシュ。
走馬灯の様に浮かんでは消えていく映像。極めつけとして、三年前のとろくさい奴の断末魔の叫びが何度もリフレインする。
「……………………」
目を開き、もう一度携帯で時間を確認する。『5:24』という無慈悲なデジタル表示が俺の目に映った。
「クソ……」
力無くまた悪態を付き、布団から這い出る。
米もまだ炊けていないし、テレビを見る用もない、本も読み切ってしまった。
「……顔洗うか」
冷たい水を顔にぶつければ気も紛れるかもしれない。重たい足取りで俺は洗面台に向かい、蛇口を捻る。
ふと鏡を見れば、この三年で一気に老けた顔がそこにいった。禿げたとか、シワが増えたとかそんな単純な話ではなく、生命力そのものが欠乏の兆しを見せてきた感じだ。
医者が俺を見たら、余命宣告をしだしてもおかしくはないだろう。
「ハハッ」
自嘲に満ちた乾いた笑みが、暗いユニットバスの中に響いた。
たまに何故自分が生きているのか、分からなくなる時がある。
いや、それは全人類の中で分かっている奴は少なく、それを意識しないで暮らしている奴が大半だろう。
だからこそ、不意に意識してしまって混乱し、生きている理由が分からず死にたくなるのだ。
その発作は帰国当初は、寝る直前とか一人でアパートにいる時とかだけしか起こらなかったのに、最近は周りに人がいたり仕事中に出たりする。
大抵は三秒もあれば終わるが、酷い時は一分近く視界がブラックアウトする時もある。
「――さん」
「石田さん!」
同僚の呼びかけで我に返る。目の前にあるのは、電源の点いたパソコン。ワープロソフトを立ち上げている途中に発作が出たらしく、真っ白の画面の隅でカーソルが点滅していた。
空白の脳に、意識を失う前までの記憶が再生される。ここは俺の職場、駅前の日本語学校。事務員として働いているが、外国語の能力を買われテキストを作る事もある。
俺は事務の仕事が一段落したので、頼まれていたテキストを作ろうとしていたのだ。
「……どうした?」
「いや、急にぼんやりしだしたから、どうしたのかなと」
二十代の中国語担当の講師が少し遠慮がちに言う。五十代が射程圏内に入ってきた俺だ。新卒でここに来た彼からしたら、自分の親父ほど年の離れた他人相手にどう接していいのか分からないのだろう。
俺はキーボードでテキストを入力しながら言い訳を考え、それを口にした。
「いや、来月のここの改装で、かなり長い間休みになるだろう? どうしようかなって考えててね」
「ああ、それで」
完全に納得した訳ではなさそうだが、誤魔化すことは出来た。発作について打ち明けた所で、彼の手には持て余す内容だ。それに、元傭兵だという経歴を隠している以上、向こうも反応に困るに違いない。
「……君は休み中、何をするつもりだい?」
この場を誤魔化し、矛先を逸らそうと俺は話を掘り下げた。
「僕ですか? 僕は、彼女と旅行に行きますね」
「旅行ねぇ……。国内? 海外?」
「北海道です」
一瞬、いいじゃないかと言いかけて、今の季節が春である事を思いだした。
「……雪まつりも、ラベンダーも季節と外れてないか?」
「いやいや。見に行くのは、チューリップですよ」
彼曰く、札幌に大きな公園があってチューリップが沢山植えられているらしい。
試しにその公園の写真を見せてもらうと、アホみたいな数のチューリップが割いていた。
「凄いな」
「SNSでも、凄く映えるとかで有名なんですよ。それで彼女が、行きたいってうるさくて」
矛先を逸らすことには成功したものの、今度は彼の惚気に付き合うハメになった。話を振ったのが俺である以上、「もういい」とは言いづらい。
今度はこれでどうしようかと悩んでいると、彼が見せてきた一枚の写真が目に入った。
彼はその写真を、ガールフレンドとそのの友達カップルと一緒に熱海に行った時に撮ったと説明している。
海をバックに、ビキニ姿の若い女性(同僚のガールフレンドだろう)が写っている。なんの変哲もない、夏の海水浴場での一枚。
けれど、俺の目はその写真に釘付けになっていた。
「……なに、人の彼女ジロジロ見てるんです?」
同僚が険のある声で俺に言う。
「いや、君の彼女じゃなくて……。海がさ……」
俺は女性の後ろにある広大な海に、心を揺さぶられていた。
「海?」
「そう、海。そういえば俺、ここんとこ海見てないなって……」
同僚は携帯の画面を見て、首を傾げた。
「海ですか?」
海はもう二十年近く見ていない。写真で見るのもかなり久しく、目にした途端思わず心奪われてしまったのだ。
見に行こうと思えばいつでも見に行ける距離にはあるものの、こうして意識するまで存在そのものを忘れていた。
しかもそれで意識してしまうと、その事しか考えられなくなってしまうのが人間の性だ。
「それじゃあ……。いい機会じゃないですか。綺麗な海なら沖縄とか、ハワイとか、ちょっと変わったところだと海南島とか、色々ありますよ」
ペラペラと喋り続ける同僚に生返事を返し、俺は脳内で海を見に行く算段を立てる。
なんとなくだが、自分の生命力に少しだけ弾みがついた気がした。
上がっていた呼吸を整えつつ、周囲を見渡す。
木の枠に囲われた蛍光灯。
薄汚れた壁。折りたたみ式のテーブル。
本が数冊仕舞われた棚に、小さい薄型テレビ。
おまけに言えば、布団が敷かれているのは畳の上だ。
「……夢か」
三年前の夢を見るのは、日本に帰ってきて何度目だろうか。軽く痛む頭を振り、枕元で充電していた携帯を手に取る。
画面のデジタル表示には『5:23』とある。額に滲む汗を拭いながら、俺は悪態を付く。
「クソッ……」
もう一度毛布を被り直し、寝直そうとするが上手く行かない。目を閉じると嫌な記憶が生々しく蘇ってくるのだ。
重機関銃の弾を喰らい、上半身と下半身が千切れた仲間。
ドロリとした生気の無い瞳。
目の前で瞬くマズルフラッシュ。
走馬灯の様に浮かんでは消えていく映像。極めつけとして、三年前のとろくさい奴の断末魔の叫びが何度もリフレインする。
「……………………」
目を開き、もう一度携帯で時間を確認する。『5:24』という無慈悲なデジタル表示が俺の目に映った。
「クソ……」
力無くまた悪態を付き、布団から這い出る。
米もまだ炊けていないし、テレビを見る用もない、本も読み切ってしまった。
「……顔洗うか」
冷たい水を顔にぶつければ気も紛れるかもしれない。重たい足取りで俺は洗面台に向かい、蛇口を捻る。
ふと鏡を見れば、この三年で一気に老けた顔がそこにいった。禿げたとか、シワが増えたとかそんな単純な話ではなく、生命力そのものが欠乏の兆しを見せてきた感じだ。
医者が俺を見たら、余命宣告をしだしてもおかしくはないだろう。
「ハハッ」
自嘲に満ちた乾いた笑みが、暗いユニットバスの中に響いた。
たまに何故自分が生きているのか、分からなくなる時がある。
いや、それは全人類の中で分かっている奴は少なく、それを意識しないで暮らしている奴が大半だろう。
だからこそ、不意に意識してしまって混乱し、生きている理由が分からず死にたくなるのだ。
その発作は帰国当初は、寝る直前とか一人でアパートにいる時とかだけしか起こらなかったのに、最近は周りに人がいたり仕事中に出たりする。
大抵は三秒もあれば終わるが、酷い時は一分近く視界がブラックアウトする時もある。
「――さん」
「石田さん!」
同僚の呼びかけで我に返る。目の前にあるのは、電源の点いたパソコン。ワープロソフトを立ち上げている途中に発作が出たらしく、真っ白の画面の隅でカーソルが点滅していた。
空白の脳に、意識を失う前までの記憶が再生される。ここは俺の職場、駅前の日本語学校。事務員として働いているが、外国語の能力を買われテキストを作る事もある。
俺は事務の仕事が一段落したので、頼まれていたテキストを作ろうとしていたのだ。
「……どうした?」
「いや、急にぼんやりしだしたから、どうしたのかなと」
二十代の中国語担当の講師が少し遠慮がちに言う。五十代が射程圏内に入ってきた俺だ。新卒でここに来た彼からしたら、自分の親父ほど年の離れた他人相手にどう接していいのか分からないのだろう。
俺はキーボードでテキストを入力しながら言い訳を考え、それを口にした。
「いや、来月のここの改装で、かなり長い間休みになるだろう? どうしようかなって考えててね」
「ああ、それで」
完全に納得した訳ではなさそうだが、誤魔化すことは出来た。発作について打ち明けた所で、彼の手には持て余す内容だ。それに、元傭兵だという経歴を隠している以上、向こうも反応に困るに違いない。
「……君は休み中、何をするつもりだい?」
この場を誤魔化し、矛先を逸らそうと俺は話を掘り下げた。
「僕ですか? 僕は、彼女と旅行に行きますね」
「旅行ねぇ……。国内? 海外?」
「北海道です」
一瞬、いいじゃないかと言いかけて、今の季節が春である事を思いだした。
「……雪まつりも、ラベンダーも季節と外れてないか?」
「いやいや。見に行くのは、チューリップですよ」
彼曰く、札幌に大きな公園があってチューリップが沢山植えられているらしい。
試しにその公園の写真を見せてもらうと、アホみたいな数のチューリップが割いていた。
「凄いな」
「SNSでも、凄く映えるとかで有名なんですよ。それで彼女が、行きたいってうるさくて」
矛先を逸らすことには成功したものの、今度は彼の惚気に付き合うハメになった。話を振ったのが俺である以上、「もういい」とは言いづらい。
今度はこれでどうしようかと悩んでいると、彼が見せてきた一枚の写真が目に入った。
彼はその写真を、ガールフレンドとそのの友達カップルと一緒に熱海に行った時に撮ったと説明している。
海をバックに、ビキニ姿の若い女性(同僚のガールフレンドだろう)が写っている。なんの変哲もない、夏の海水浴場での一枚。
けれど、俺の目はその写真に釘付けになっていた。
「……なに、人の彼女ジロジロ見てるんです?」
同僚が険のある声で俺に言う。
「いや、君の彼女じゃなくて……。海がさ……」
俺は女性の後ろにある広大な海に、心を揺さぶられていた。
「海?」
「そう、海。そういえば俺、ここんとこ海見てないなって……」
同僚は携帯の画面を見て、首を傾げた。
「海ですか?」
海はもう二十年近く見ていない。写真で見るのもかなり久しく、目にした途端思わず心奪われてしまったのだ。
見に行こうと思えばいつでも見に行ける距離にはあるものの、こうして意識するまで存在そのものを忘れていた。
しかもそれで意識してしまうと、その事しか考えられなくなってしまうのが人間の性だ。
「それじゃあ……。いい機会じゃないですか。綺麗な海なら沖縄とか、ハワイとか、ちょっと変わったところだと海南島とか、色々ありますよ」
ペラペラと喋り続ける同僚に生返事を返し、俺は脳内で海を見に行く算段を立てる。
なんとなくだが、自分の生命力に少しだけ弾みがついた気がした。
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