紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

文字の大きさ
10 / 110
一章 春風とともに

第十話 礼節のざわめき

しおりを挟む
季節はだんだんと深まり、あれほど美しく着飾っていた紅葉もその色を失い始めた頃。

伽耶の書房では、いつも通り伽耶と誠が穏やかな朝を過ごしていた。

そのときだった。

「きゃっ……! ご、ごめんなさいっ……!」

伽耶の手元から茶器が転がる。
床に落ちたそれは、ぱりん、と気の抜けた音で砕け散った。

「ああ!……姫様、動かないでくださいませ。お怪我をされます!」

芳蘭が慌てて駆け寄り、袂を押さえて破片を拾い始めた、その時。

トントン。

書房の扉を軽く叩く音が響いた。

「姫様に、軍部より書状をお届けに参りました!」

芳蘭が顔を上げるも、手はまだ離せない様子だった。

「……私が受け取ります」

誠が立ち上がり、すっと扉へと向かう。
音もなく扉を開けると、

「よう、誠坊!」

にっこり笑って立っていたのは、誰であろう、蒼煌辰だった。

誠は一瞬目を見開き、間髪入れずに

バタンッ!

勢いよく扉を閉めた。

「おいおい、そんな照れんなって、誠坊~!」

くぐもった声が、扉の向こうから響く。

「……なぜ貴方が、ここに」

誠は扉の前にぴしっと立ち、ぐっと眉を寄せる。
だが、その背中は明らかに“焦っていた”。

「書状を届けにきたんだってば。ほら、烈翔様の印、ちゃんとあるだろ?」

ほんの少しだけ扉が開き、煌辰が巻物の先をぴらりと見せる。

(……また烈翔様に取り入って、こんな真似を……)

誠が小さく息を呑み、顔をしかめたそのとき、

「蒼煌辰?」

伽耶の声が奥から届いた。

「あら、どうしたの?入ってちょうだい」

ぱっと扉が開かれ、煌辰がにっこにこと笑みを浮かべ登場した。

「いや~伽耶姫ちゃん、今日もお美しい!それに、怖~い方もいないようで……今日は幸運ですね?」

誠にニヤッと目配せしながら言った時。

「…………」

音もなく背後に立っていた芳蘭と、ばっちり目が合った。

「ひっ……芳蘭殿!お変わりなく!」

見事な角度でぺこりと頭を下げる煌辰。

「……わたくしは、少しの間だけ席を外しますが……」

芳蘭はゆっくりと煌辰に目を向けると、
いつもよりも、何オクターブも低い声音で続けた。

「くれぐれも。姫様に無礼な真似をなさらぬように。……陸誠様、頼みますよ」

頭を下げたまま固まる煌辰を見下ろすように一瞥し、芳蘭は砕けた茶器のかけらを持って、静かに部屋を後にした。


扉が閉まる音が、妙に重く響く。


「……あれはたぶん、師匠よりこえぇな。あの人、いつもあんな感じなの? 伽耶姫ちゃん……」

ぞくぞくと両腕をさすりながら、煌辰はおどけた様子で部屋へと入り、机のそばの椅子に勝手に腰を下ろした。

「芳蘭は……ああ見えて、優しいところもあるのよ」

伽耶はふふっと優しく微笑んだ。

「それより、わたし、“伽耶姫ちゃん”って初めて呼ばれたわ。お友達みたいで、なんだか素敵ね」

伽耶はそう言って、嬉しそうにふわっと微笑み、

誠の手が、ピクリと止まった。

「そうなんですか? じゃあいつもは、なんて呼ばれてるんです?」

煌辰が不思議そうに尋ねると、伽耶は顎に指を当て、少し考え込んだ。

「うーん……“姫様”が多いかしら。仕方がないのかもしれないけど、名前で呼んでもらえることって、あまりないのよね」

そう言って、どこか寂しそうに微笑む。

その表情を見た煌辰は、いたずらっぽく笑いながら、わざとらしく誠の方へ顔を向けた。

「へぇ~……じゃあ、誠坊は伽耶姫ちゃんのこと、なんて呼んでるんだ?」

その問いに、誠は明らかにぎくりと固まる。

「ひ、姫様と……当然でしょう! 貴方は礼を習わなかったのですか!? 王族の姫様方のお名前は、気軽に呼んではならないのです!」

「でもさー、本人は名前で呼んでほしそうじゃん? 怖い人いないときくらい、呼んであげたらいいのに」

煌辰はどこ吹く風でそう言いながら、楽しそうに肩をすくめた。

誠は顔を真っ赤に染めながら、机に手をついて反論する。

「そういう問題ではありません!! 貴方が異常なのです、先ほどから姫様のお名前を調子に乗って何度も……っ!」

そこへ、ぱたん、と静かな音を立てて、書房の扉が開いた。

「お待たせいたしました。……蒼煌辰様、なにもなさっておられないでしょうね?」

芳蘭の声に、誠はピシッと背筋を伸ばし、煌辰は一瞬ビクリと肩をすくめた。

「怖い人ももどってきたし、そろそろ帰りまーす……」

小声で煌辰は呟くと、椅子から立ち上がったが、おもむろに伽耶の方をむいて

「じゃ、またね、伽耶姫ちゃん!」

ウインクし、軽やかに手を振りながら煌辰は去って行った。
伽耶はふふっと笑いながら首を傾げる。

「なんだか彼って……嵐みたいな人ね。急に来て、急に行ってしまうんだもの」

誠が溜め息まじりに肩を落とすのを見て、伽耶はくすくすと笑った。

けれど、
笑顔のまま、ふとその横顔を見つめて、伽耶は言った。

「そういえば、誠。あなたって……一度も、わたしの名前を呼んでくれたこと、ないわよね?」

その言葉に、誠の手が、また、ピクリと止まった。

「そ、それは…その…先ほども申し上げたとおり…王族の姫様への礼を尽くした結果として…」

固まったまま、言い訳のようにぼそぼそと話す誠。
伽耶はその様子を見つめて、ふふっと、悪戯っぽく笑った。

「あら。本人がいいと言ってるのよ?」

くすくすと微笑む伽耶。
その背後から、呆れたような、でもどこか諦めたような声が飛んでくる。

「……姫様。陸誠様をからかうのはそのくらいにして、お勉学の続きを」

「はぁい……」

つまらなさそうに頬をふくらませながら、伽耶はしぶしぶ筆を取った。

その背中を見ながら、誠は小さく息を吐く。
けれどその胸の内は、さっきから妙に落ち着かなかった。






その夜。

誠はひとり、自室の窓辺に佇んでいた。
開け放たれた窓からは、夜の静けさと、澄んだ空気、そして遠くで虫の声が聞こえるだけ。

月の光が障子越しに射し込むなか、誠は小さく呟いた。

「……なぜ、私は……呼べなかったのだろう」

伽耶の名前を口にしようとした、あの瞬間。
胸の奥にふわりと広がったざわつき。
それは決して“礼節”の二文字で片づけられるものではなくて。

「……姫様、あれほど嬉しそうに、笑っていたのに」

思い出すのは、あの無邪気な声と、心からの笑顔。
だが、自分の喉はどうしても、その名を呼ばなかった。

誠はふぅ、とひとつ息を吐くと、夜空を見上げた。

その胸に芽生えた想いの名前を、まだ知らぬままに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね

江崎美彩
恋愛
 王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。  幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。 「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」  ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう…… 〜登場人物〜 ミンディ・ハーミング 元気が取り柄の伯爵令嬢。 幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。 ブライアン・ケイリー ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。 天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。 ベリンダ・ケイリー ブライアンの年子の妹。 ミンディとブライアンの良き理解者。 王太子殿下 婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。 『小説家になろう』にも投稿しています

置き去りにされた聖女様

青の雀
恋愛
置き去り作品第5弾 孤児のミカエルは、教会に下男として雇われているうちに、子供のいない公爵夫妻に引き取られてしまう 公爵がミカエルの美しい姿に心を奪われ、ミカエルなら良き婿殿を迎えることができるかもしれないという一縷の望みを託したからだ ある日、お屋敷見物をしているとき、公爵夫人と庭師が乳くりあっているところに偶然、通りがかってしまう ミカエルは、二人に気づかなかったが、二人は違う!見られたと勘違いしてしまい、ミカエルを連れ去り、どこかの廃屋に置き去りにする 最近、体調が悪くて、インフルの予防注射もまだ予約だけで…… それで昔、書いた作品を手直しして、短編を書いています。

【完結】離縁されたので実家には戻らずに自由にさせて貰います!

山葵
恋愛
「キリア、俺と離縁してくれ。ライラの御腹には俺の子が居る。産まれてくる子を庶子としたくない。お前に子供が授からなかったのも悪いのだ。慰謝料は払うから、離婚届にサインをして出て行ってくれ!」 夫のカイロは、自分の横にライラさんを座らせ、向かいに座る私に離婚届を差し出した。

華夏の煌き~麗しき男装の乙女軍師~

はぎわら歓
恋愛
 国家占い師である胡晶鈴は、この中華・曹王朝の王となる曹隆明と結ばれる。子を宿した晶鈴は占術の能力を失い都を去ることになった。  国境付近の町で異民族の若い陶工夫婦と知り合う。同じく母になる朱京湖とは、気が合い親友となった。  友人になった夫婦と穏やかな生活を送るはずだったが、事情のある朱京湖と間違えられ、晶鈴は異国へと連れ去られてしまった。京湖と家族の身を案じ、晶鈴はそのまま身代わりとなる。  朱彰浩と京湖は、晶鈴の友人である、陸慶明に助けを求めるべく都へ行く。晶鈴の行方はずっと掴めないままではあるが、朱家は穏やかな生活を営むことができた。  12年たち、晶鈴の娘、星羅は才覚を現し始める。それと同時に、双子のように育った兄・朱京樹、胡晶鈴との恋に破れた医局長・陸慶明とその息子・陸明樹、そして実の娘と知らない王・曹隆明が星羅に魅了されていく。

二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました

小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」 二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。 第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。 それから二十年。 第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。 なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。 不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。 これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。 ※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。

【完結】どくはく

春風由実
恋愛
捨てたつもりが捨てられてしまった家族たちは語る。 あなたのためだったの。 そんなつもりはなかった。 だってみんながそう言うから。 言ってくれたら良かったのに。 話せば分かる。 あなたも覚えているでしょう? 好き勝手なことを言うのね。 それなら私も語るわ。 私も語っていいだろうか? 君が大好きだ。 ※2025.09.22完結 ※小説家になろうにも掲載中です。

【完結】僻地の修道院に入りたいので、断罪の場にしれーっと混ざってみました。

櫻野くるみ
恋愛
王太子による独裁で、貴族が息を潜めながら生きているある日。 夜会で王太子が勝手な言いがかりだけで3人の令嬢達に断罪を始めた。 ひっそりと空気になっていたテレサだったが、ふと気付く。 あれ?これって修道院に入れるチャンスなんじゃ? 子爵令嬢のテレサは、神父をしている初恋の相手の元へ行ける絶好の機会だととっさに考え、しれーっと断罪の列に加わり叫んだ。 「わたくしが代表して修道院へ参ります!」 野次馬から急に現れたテレサに、その場の全員が思った。 この娘、誰!? 王太子による恐怖政治の中、地味に生きてきた子爵令嬢のテレサが、初恋の元伯爵令息に会いたい一心で断罪劇に飛び込むお話。 主人公は猫を被っているだけでお転婆です。 完結しました。 小説家になろう様にも投稿しています。

処理中です...