元救急医クラリスの異世界診療録 ―今度こそ、自分本位に生き抜きます―

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第一章

第11話 顕現せよ、ミミズちゃん

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どこをどう歩いたのか、記憶はまるで残っていなかった。
気がつけば、クラリスは重厚な扉の前に立っていた。

――あの王子との邂逅のあと、魂が抜けたようにただ呆然と歩き続けていたのだ。

「おーいクラリス。いい加減戻ってこい」

ぺし、とミュラーがその頭を軽く叩く。
クラリスははっと我に返り、瞬きした。

「いけない、あのマントのお方を推す方法ばかり考えてました」

「……なんか思いついたのか?」

「納税ですね…やはり高額納税者になれば名を覚えてもらえるかと…」

ミュラーは大きなため息をつく。

「目的を忘れるな。ルスカ王子に力を貸してもらうんだろ」

その言葉に、クラリスははっと目を見開いた。

「……完全に忘れてたでしょ」

じとりとした目でヴィルが睨む。
クラリスは扉に向き直り、ぴしっと背筋を伸ばした。

「そんなわけないでしょ!さあ、行くわよ!」

そう言って、扉の前に立つ兵にぺこりと頭を下げた。

「よろしくお願いしまーす!」










兵士が扉の中に消えて、しばしの沈黙。
やがて――

ぎぎ、と重たげな音を立てて、扉がゆっくりと開いた。

「入れ」

中から聞こえた低い声に、クラリスたちは顔を見合わせ、一歩を踏み出した。

「王子の部屋」と聞いて、クラリスはてっきり、
金色の家具に巨大なシャンデリア、ずらりと並ぶメイドたち……
そんな華美な光景を想像していた。

だが、実際に足を踏み入れたその部屋は、意外なほど静謐だった。

深い緑のカーテンが窓を飾り、木製のベッドと、隅にはシンプルなテーブルとソファ。
そして何より――壁一面の本棚には、背表紙の擦り切れた本たちがぎっしりと詰まっている。

その部屋の中心、窓際に据えられた大きなデスク。
その向こうに、彼はいた。

黒髪に、深く澄んだ碧眼の少年。
肘をついたまま、やや退屈そうに、それでいて警戒を隠さぬ眼差しでこちらを見ていた。

「……端的に、用件を言え」

その瞬間、クラリスの中で何かがぴくりと反応した。

(――これは、あのときの気持ちに似てる)

それはその昔、高梨だった頃。

救急で患者が運ばれて、なんとか診断つけて、専門医に電話をかけたときのこと。

『救急科の高梨と申します。患者さんのコンサルトを…』

『あーもう、いま外来で忙しいんだよ!端的に言って!』

『はいっ80歳女性肺炎入院です!!』

『オーダー入れといて!』

ブチッ……

(既往歴とか、家族背景とか、検査結果とか、伝えたいこと、あったのに…)

あの、なんとも言えない気持ち…



それが、いま、久しぶりに呼び起こされた。



「はいっ!今から井戸で能力発動してください!なんの細菌かわかればあとやっとくので!」


クラリスは声を張った。
腹からまっすぐに、躊躇も飾りもなく。

沈黙が場を支配する。
クラリスの背後のヴィルが、ごく、と唾を飲む音が響いた。

「…端的すぎなんだよ」

ようやくルスカが返したその言葉には、呆れ、怒り、そして――どこか驚きと、興味の気配が混じっていた。

彼はぱたんと読みかけの本を閉じる。

「城下で疫病が流行っているのは知っている。だが、医官の報告によれば、臭気による感染だと……そう聞いたが?」

ぴり、と空気が張り詰める。
ヴィルは思わずびくりと肩を揺らした。

だがクラリスは、むしろ目を輝かせ――ニヤリと笑った。

(この人…疫病に興味があって、ちゃんと調べてたんだ……だけど)

ぎゅっと拳を握りしめ、クラリスは一歩前へ出た。

「…それは、違います王子殿下。疫病の原因は水です。見張り不在の井戸に投げ込まれたゴミを起源に発生した細菌、もしくはウイルスと思われます」

「……ほう」

「ごみは、すでに消しました。あとは投棄を止め、水が浄化されれば、疫病は収束するはずです。
――ですが、私の能力では、水の中の菌は消せません。発動には、“名前”か“形状”が必要なのです」

「……それで、俺の能力、"顕現"が必要というわけか。……確実なのか」

「わかりません。ですが、原因の一つと推測されます。これで患者数が減ればそれが原因だったと後からわかるでしょう」

「…なるほどな…」

ルスカは目を伏せると顎に手を当て、しばらく考え込んでいた。
が、なにか決心したように視線を上げた。

「……いいだろう。では、明日――」

その瞬間、クラリスがつかつかとデスクへ歩み寄り、バン、と手をついた。

ヴィルの「ひぃっ」という悲鳴が後方から聞こえる。

「お言葉ですが、それでは遅すぎます。あの井戸は、あの地区の唯一の水源です。みな、今夜も、明日も、下痢を抱えてあの水を飲み続けます」

じっと、クラリスはルスカを見つめた。

そしてルスカも、しばしその瞳を見返して――ふ、と口元に笑みを浮かべる。

「いいだろう」

そして、静かに立ち上がった。

「……もし間違っていた場合、不敬罪で…お前は明日には悲しい姿になっているだろう」

「悲しい……姿……?」

クラリスがぽかんと口を開けたままの横で、ルスカはマントを翻し、扉へと向かう。

「ル、ルスカ王子?!今からですか?!護衛の手配を……!」

「いらん。俺とて剣は持ち合わせている。……信用ならんか?」

「そ、そういうわけではっ!」

慌てふためく兵士たちをよそに、ルスカは颯爽と歩み去っていく。

クラリスたちは顔を見合わせ――

「……どんな種類の悲しい姿だろうね…?社会的…?それとも、肉体的……?」

そう呟いて、クラリスはその背中を追って駆け出した。








月明かりが静かに石畳を照らしていた。
その光に導かれるように、一行は城を出て、例の地区へと歩みを進める。

到着した小舟から降り、目指すのは、あの井戸。

ルスカは揺れるマントを翻しながら、クラリスの背中を追っていた。
その視線は刺すように鋭く、けれどどこか、興味を含んでいるようにも思えた。

クラリスはそれを背で受け止めながら、歩を早める。

「おい。……お前、どうしてその井戸が原因だとわかったんだ」

沈黙を破った声は、静かに響いた。
けれど、それは夜の空気を震わせるように、確かな圧を孕んでいる。

「原因とは……まだ言えません。ただ、可能性は高いと見ています。きっかけは、診療所ごとの患者数です」

「ほう?」

ルスカは次を促すように相槌を打つ。
クラリスがこれまでの経過を全て話す。

急に爆発的に増えた患者数のこと、診療所ごとの患者数を調べ上げ、地区を特定したこと、井戸や役所でのできごと。

ルスカは静かに耳を傾け、しばらく目を伏せていた。
そして、ぽつりと問う。

「お前の意見は、この国の最高峰の医官たちとは異なるものだ。なぜそう自信を持って言える?」

コツコツ、とブーツの音が響く。

(わたしは、前世で医学を、公衆衛生を、統計学を学んだ。だから推測がついた。だけど今のわたしは11歳のパン屋のクラリス…)

クラリスは一瞬目を伏せたが、ぴたりと足を止める。

そして、くるりと振り返った。

「前世の知識です。死ぬ前に、ここじゃないとこで医者やってましたから」

沈黙。
信じがたい言葉に、風すら止まったようだった。

ルスカも、ミュラーも、呆然と目を瞬く。
ヴィルは手にしていた鞄を取り落とし、ノートがちらばった。

クラリスは、そんな彼らの反応に小さく笑みをこぼす。

「嘘みたいですよね。わたしも死んで、ここに生まれた時思いましたよ」

クラリスの言葉にようやく頭が追いついたのか、ヴィルは静かに散らばったノートを拾い始め、ぼそりとつぶやく。

「だから……色々知ってたんだ…」

その言葉に、ルスカはちらりとヴィルが落としたノートの開いたページを見る。

(……臓器…か?人間の……)

そこにはびっしりと書き込まれた臓器の図解と細かなメモ。――あまりにも緻密で、子供のものとは思えぬ内容だった。

「……なるほど。本物ならば……おもしろい」

ぽつりと小さく呟いたルスカは顔を上げた。

「では、見せてもらおう。その推測とやらが、本当かどうか。早く井戸まで案内しろ」

ルスカが顎で促すと、クラリスはくるりと背中を向け再び歩き出した。

「もうそこですよ…。…チッ、これだから偉い奴は…」

ブツブツと唱えるクラリスの呪詛は、幸いなことに、足音に紛れ誰の耳にも届かなかった。







井戸は、相変わらず見張りもおらず、月明かりの下にただぽつんとそこにあった。

「これか」

ルスカは迷いなく井戸の縁へと歩き、片手を井戸に、もう片手を空に掲げる。

(こいつめちゃくちゃせっかちだな…?!)

クラリスが内心で思わずツッコんだ瞬間、空気が震え、光が満ちる。

次の瞬間、ルスカの空に向けた掌の上に、棍棒のような形をした――かつて顕微鏡で見たことのあるような――細菌の幻影が浮かび上がった。

「これでいいか?」

ルスカの視線がクラリスを刺す。

(うーむ、正直名前がわからないな…いや、形状さえわかれば名前は勝手に…なんかミミズっぽいし)

クラリスは小さく頷くと、手を翳した。

「井戸の中のミミズちゃん、消えろ」

「……今名前つけた?」

ヴィルのぼやきが空気に紛れる。

再びルスカが能力を発動すると、光が瞬いて消え、もうそこには何も残っていなかった。

「呆気なく終わりましたね。あとは見張りの手配だけお願いします、王子。では!」

クラリスはくるりと踵を返しルスカに背を向けた、その時。

襟首を、がしりと掴まれる。

「ぐぇっ…!」

クラリスが情け無い悲鳴をあげた、その時。

「俺にも教えろ。お前の"知識"とやらを。明日からお前の診療所にいくからな」

「えっ」
「えええええ?!」

クラリスとヴィルの叫びが夜に響いた。

その背後で、静かに呟かれる声。

「……おれの、診療所なんだけどな……」

ミュラーの、かすかに悲哀を帯びたその一言は、誰にも届かないまま、秋の夜風にさらわれていった。



こうして、腸炎パンデミックは数日をかけ、徐々に患者数を減らしていった。
とうとう患者の報告が途絶えた日、王は高らかに終息を宣言するに至った。

……だが。
ミュラーの診療所には、“新しい仲間”の気配とともに、嵐のような日常が近づいているのであった。
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