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第1章:『再会の残火、目覚める虚刃』
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しおりを挟むネオ・カマクラの空は、今日も分厚い雲と巨大なホログラム広告に覆われ、本物の星空を隠し続けている。
降り続く雨は、高層ビル群の排熱を孕んで生温かく、地面に叩きつけられるたびに、オイルと化学薬品が混ざり合った独特の悪臭を路地裏に撒き散らしていた。
第十三区、鉄の墓場に建つ神凪蓮の工房では、古びた換気扇が喘ぐような音を立てて回り、停滞した空気をかき回している。
天ノ原家の秘書、佐伯が去った後も、神凪蓮は作業机の前に座り込んだまま、一歩も動けずにいた。その視線の先には、鈍い銀光を放つ特区への通行証と、金色の蝶が刻印された招待状が置かれている。
「……三年前の、真相だと」
蓮は、己の左腕を無意識に強く掴んだ。作業着越しに伝わる古傷の感触が、忌まわしい記憶を呼び覚ます。あの日、プラズマの暴走によって引き裂かれた相棒、柊の悲鳴。焼け焦げた機材の匂い。そして、すべてを失った自分に浴びせられた才能なしという嘲笑。
もし、あの惨劇が仕組まれたものであったなら。もし、誰かの悪意によって自分たちの未来が踏みにじられたのだとしたら。
「俺は……まだ、終わらせるわけにはいかないのか」
震える指先で通行証に触れる。それは、平穏という名の逃避行を終わらせ、再び血と火花が舞う戦場へと戻るための、片道切符だった。
深夜二時を告げる電子音が響き、街の喧騒が湿り気を帯びた深い静寂へと沈んでいく頃。
工房の錆びついたシャッターが、耳障りな金属音を立てて乱暴にこじ開けられた。
予告もなく現れたのは、夜の闇を切り裂くような銀紫の長い髪をなびかせた少女、天ノ原紫苑だった。
「……返事を聞きに来たわ、神凪蓮。私の秘書が、相応の餌を蒔いたはずだけれど。それとも、まだ自分の殻に閉じこもって、オイルの匂いに浸っていたいのかしら?」
紫苑は、まるで最高級の劇場の舞台に立つかのような優雅な足取りで、埃と油にまみれた工房の中へと土足で踏み込んできた。
彼女が纏う高貴な空気は、この掃き溜めのような空間においては暴力的なまでの異物感として機能し、蓮の鼻腔を突くオイルの臭いさえも、一瞬で彼女の洗練された香水の残り香へと上書きしていく。
「餌っていう言い方は気に入らないな。……だが、あの資料が本物だっていう保証はどこにある。天ノ原の名前を出せば、俺が尻尾を振って喜ぶとでも思ったか?」
「天ノ原家は嘘をつかないわ。少なくとも、利用価値のある相手に対してはね。あなたの『虚刃』には、それだけの価値がある。……私が直感で選んだ相手だもの。私の目が節穴だと言いたいの?」
紫苑は蓮の作業机に歩み寄り、そこに置かれた漆黒のD-SABRE『零刻』に、透き通るような指先を伸ばした。だが、蓮はその手を遮るように、自分の大きな手で柄を覆い隠した。
「安易に触るなと言ったはずだ。あんたの綺麗な指が、この『無』に呑み込まれて、一生剣を振れなくなっても知らないぞ。これはあんたの知る光の武器とは根本的に作りが違うんだ」
「あら……。じゃあ、その恐ろしい『無』で私を守ってくれるかしら? それが、私の求めているパートナーの唯一無二の役割なのだけれど。私を壊させない、私の光を御せるのは、あなたしかいないわ」
二人の視線が、火花を散らすような至近距離でぶつかり合う。
紫苑の瞳は、挑戦的でありながら、その奥底には深い孤独と、自分を理解してくれる存在を切望するような飢えが宿っていた。彼女もまた、天ノ原という巨大な家系の重圧と、誰も到達できない孤独な頂点という名の監獄の中で、出口のない戦いを続けている一人の少女なのだと、蓮は直感した。
「……条件がある。俺はあんたの所有物になるつもりはない。目的を果たし、真相を掴んだら、俺はまたこのゴミ溜めに戻る。あんたとの関係も、そこまでだ。それが守れるなら、あんたの剣になってやる」
「契約成立ね。……では、最初のお仕事よ、相棒。プロの世界を蝕む毒を、あなたのやり方で掃除してちょうだい。それができるのは、光を持たないあなただけよ」
紫苑は、持参した薄型の情報端末を起動し、ホログラムの立体地図を空中に投影した。
「現在、プロリーグの裏側で『強化剤』と呼ばれる違法チップが蔓延しているわ。これを使った剣士は、一時的に精神エネルギーが倍増するけれど、代償として神経系を焼き切られる。いわば、魂の切り売りね。私の調査では、その供給源は第十三区の奥地、通称『カミソリ横丁』にあるわ」
「……あそこか。まともに陽の光を浴びてる人間が近づく場所じゃない。あんたのようなお嬢様が足を踏み入れれば、一分持たずに剥製にされて闇市場に流されるぞ」
「だからこそ、あなたの案内が必要なの。私が天ノ原として歩けば、鼠たちは警戒して深く潜るだけ。……神凪蓮。あなたがこの街で学んだ、その汚れ方を、私に教えてちょうだい。私を、この夜に染めて」
蓮は、彼女の覚悟を測るようにじっと見つめた。
高貴な箱入り娘が、その白い肌に泥を浴びる覚悟があるのか。だが、紫苑の瞳に迷いはなかった。そこにあるのは、真実を掴むためなら己の身すらも薪にする、剣士特有の苛烈なまでの執着心だった。
「……分かった。だが、後悔しても知らないぞ。お嬢様のドレスを汚しても責任は持たない。……いや、その格好じゃ無理だ」
蓮は、紫苑の華美な装い――光沢のある絹のブラウスと、繊細な刺繍が施されたスカート――を見やり、自身の古びた衣装箱を漁った。かつて自分がトレーニングや現場仕事で使い倒していた、黒の厚手のライダースジャケットと、深いフードのついたロングコートを引っ張り出す。
「……これを着ろ。少しはマシに見えるはずだ」
「あら、これを私に? ……少し大きいけれど、悪くないわね。……ふふ、あなたの匂いがするわ。古いオイルと、少しだけ焦げたような、不思議な匂い。私の周りにはいなかった、男の人の匂いね」
「……余計なことを言うな。ほら、その髪も隠せ。その銀紫は夜の闇じゃ灯台と同じだ。狙ってくださいと言ってるようなもんだ」
蓮は不器用な手つきで、紫苑の腰まで届く長い髪をまとめ、コートの襟の中へと押し込もうとした。その際、彼の節くれだった指先が、彼女の白く柔らかな項に触れる。
紫苑の体が、わずかに、しかし明確に跳ねるように震えた。
「……どうした、お嬢様。もう怖気づいたか? 嫌なら今すぐ止めてもいいんだぞ」
「……いいえ。ただ、誰かにこんな風に無防備に触られるなんて、久しぶりだったから。……天ノ原では、私はただの完成された最高傑作の剣。触れる者は皆、畏怖するか、私の価値を計算する者ばかり。……あなたの指は、ただ、少しだけ不器用で、温かいだけね」
彼女の呟きは、工房を流れる重い空気に溶けて消えた。
蓮は、彼女が背負っている孤独の深さを改めて突きつけられた気がした。彼女は最強の剣士であるがゆえに、誰とも体温を分け合うことを許されない隔絶された存在だったのだ。自分もかつて、同じような疎外感の中にいたことを思い出し、蓮の胸の奥がわずかに疼いた。
蓮自身も、トランクから慣れ親しんだ重みを持つ『零刻』を取り出し、腰の特殊ホルスターに固定した。
「行くぞ。……ここから先は、プロの常識も、騎士道も通用しない。信じられるのは、俺の指示と、あんたの剣だけだ。いいな?」
「ええ。頼りにしているわ、蓮。あなたの示す道なら、私はどこへでも行くわ」
彼女が初めて、形式的な呼び名ではなく、親愛の情を込めて名前で呼んだ。
蓮は照れ隠しのように鼻を鳴らすと、錆びついたシャッターを蹴り上げるようにして開け、ネオンの光が毒々しく乱反射する雨の街へと歩み出した。
深夜のネオ・カマクラ、第十三区の深部。
二人は、酸性雨によって腐食した鉄骨が肋骨のように剥き出しになった『カミソリ横丁』へと足を踏み入れた。
周囲の廃ビルからは、劇薬に酔った中毒者や、故障したD-SABREを抱えてうずくまる敗北者たちが、獲物を探す獣のようなギラついた目で二人を追っている。
「……気配を殺せ。視線を合わせるな。歩幅は俺に合わせろ。何かあっても、俺が合図するまで抜剣を入れるな。ここでは先に手を出した方が負けだ」
蓮の小声の指示に、紫苑は完璧に応えた。彼女の身体能力は、服の上からでも分かるほどに研ぎ澄まされており、水溜まりを避ける足音一つ立てずに、泥濘の中を蓮の影に重なるようにして歩む。
二人が目指すのは、情報屋が集う地下バー『Rusty Soul』。
そこは、今回の黒幕とされる鴉羽の部下たちが、違法チップの適合者を探すために根城にし、実験を繰り返している地獄の入り口だった。
重厚な鉄の扉を押し開けると、安酒の鼻を突く臭いと、焦げたプラズマの不快な匂いが混じり合った、淀んだ熱気が津波のように押し寄せてきた。
カウンターに座る蓮は、バーテンダーに特定の刻印が入った古い銀貨を差し出した。
「……親父。最近、この辺りで『紫の欠片』が出回ってるって聞いたんだが、在庫はあるか? 少しばかり興味があるんだ」
バーテンダーは蓮の顔をじっと見つめると、眉間の皺を深く刻み、奥の部屋を顎で指差した。
「……蓮か。お前、まだそんな死神の落とし物を追ってるのか。懲りない奴だ。……奥で『鴉羽』の部下たちが、新しい検体を探しているぜ。死にたくなければ、その連れの女を置いてさっさと帰るんだな。あいつらは、飢えている。理性なんてものはとっくに薬で焼き切られてるぞ」
「……忠告だけ受け取っておくよ。俺も、あいつらには少しばかり、返しきれない借りがあってな。今日、その利息くらいは払いに来たんだ」
蓮は紫苑の手を、手袋越しに強く引き、奥の密談室へと向かった。
扉の向こう側には、異様な精神エネルギーの昂ぶりと、リミッターを外されたD-SABREの不規則で耳障りな放電音が満ちていた。
そこにいたのは、鴉羽の配下と思われる、全身を歪な機械で強化し、理性を失った男たちだった。
「へぇ……。案内人付きの上玉が迷い込んできたか。……ちょうどいい、新しいチップの適合試験を始めようと思っていたところだ。その女、いい波長をしてやがる。俺たちのチップが、その綺麗な魂をどう焼き尽くすか見てみたいもんだ」
男たちが、赤黒い、脈動するように不気味な振動を繰り返すプラズマ刃を起動させる。
紫苑が、フードを静かに脱ぎ捨て、月光を宿したような鋭く美しい瞳で敵を見据えた。
「天ノ原の名の元に、その卑劣な実験、ここで終わらせてあげるわ。……私の相棒が、あなたの壊れた回路を根本から直してくれるそうよ」
「……お嬢様。天ノ原の名前は出すなって、あれほど釘を刺しただろ。……まぁいい、どのみち全員、ここで黙らせるつもりだった。証人は一人も残さない」
蓮が苦笑しながら、漆黒の刃――『零刻』を抜き放つ。
「やるぞ、紫苑! これが俺たちの、最初の共同作業だ。瞬きする暇も与えるな、一瞬で終わらせるぞ!」
「ええ……っ! 月華、起動! 極光の導きを、今ここに!」
銀紫の閃光と、漆黒の虚無が、地下の静寂を無惨に切り裂いた。
二つの魂が初めて戦いの中で噛み合った、運命という名の儀式が今、残酷なまでに美しく幕を開ける。
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