港西高校山岳部物語

小里 雪

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第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。

7. ヨコハマ買い出し紀行。

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 今日の練習も学校外周を八周、十kmのランニングだ。一昨日のランニングの筋肉痛がまだ残っているので、また途中で止まってしまうかもしれないと思うと、なんだか情けなくなる。

 今日は久住くじゅう先生も一緒に走り、走りながら明日の買い物についていろいろと話をしてくれた。

「明日の買い物の中で一番大切なのは、なんといっても靴だからね。いろんなタイプの靴があるけれど、うちで使えるタイプは限られている。」

 先生が挙げた、山岳部での活動に必要な靴の条件は、以下の二つだった。

 ・アイゼン用のコバがかかとについていること。
 ・靴底に固いシャンクが入っていること。

「これで各メーカーだいたい一つか二つに絞られる。あとは、メーカーやデザインや色や値段には一切こだわらず、ひたすら履き倒して一番足に合ったものを見つける。合わない靴で行く山は、楽しさが半減してしまうからね。」

 用語はよく分からないけれど、明日は先生も来てくれるということだったので、その時にまたいろいろ聞けばいい。

「そう言えば、ウェブを見ていると、雨具の値段にものすごく差があるんですが、どんな違いがあるんですか?」

「そうだなあ。基本的に、すごく軽いものと、冬山向けのものは高い。あと、いくつか異様に値が張るブランドがあるけど、それは何が違うのか俺にも分からん。まあ、今の雨具はみんな防水透湿素材だから、最初は安いもので十分だよ。どうせすぐに別のものが欲しくなるしね。雨具やザックをお揃いで買う学校もあるけど、うちはそういうことしないから、色の好み、動きやすさ、フードのフィット感で買えばいいよ。あー、上着の黒はやめてくれな。どこにいるかわからなくなっちゃうし、スズメバチが寄って来るから。」

「わたしも明日、薄手のフリース買おう。秋に着てたのはジャージだったからなあ。」

と、横を走っているまっきーも会話に参加する。

「それはよかった、買うものもないのに付き合わせたら悪いと思ってた。りょう先輩も何か買うものがあるんですか?」

「私は……まあ行けばだいたい何か買っちゃうな。あそこは魔窟だからね……アプローチシューズとか欲しいんだよな……だめだめ、あんまりお金持って行かないようにしないと。」

 おしゃべりをしながらだと、ゆっくり走っていてもいつの間にか距離が稼げる。一昨日も、四kmしか走ったことがない上に、一年間ほとんど運動していなかったぼくが六km走れたのは、三人で話しながらだったからだろう。

 筋肉痛があるにもかかわらず、今日は一昨日よりずっと余裕があった。前を走る稜先輩の、髪を後ろで縛った、その首筋に目が行く。そして、川筋の葉桜に目をやるときの横顔に、初めて会った日の印象をまた探している。

「先輩の髪ほんとにきれいだなー。わたしも伸ばそうかなー。」

 まっきーは、後頭部からちょっとだけ、ぴょこっと飛び出した自分の髪を触る。からかいたくなったぼくは、

「そういう筆みたいなのもいいよ。」

と言った。まっきーは走りながら、ぼくの尻に蹴りを入れる。



 今日は途中で歩かずに、十kmを最後まで走り切ることができた。

「横浜駅の東口の地上に出ると、郵便局があるから、その前に一時集合だからな。俺もうちょっと走って来るわ。」

 そう言うと、先生はペースを上げて川沿いの道に行ってしまった。なんて元気なオッサンだ。



 翌日はあいにく雨だったが、横浜駅に向かう電車の中で、稜先輩と一緒になった。電車に乗っていたぼくを見つけて、わざわざ同じ車両に乗ってくれたのだ。ひときわ目立つ長身。初めて会った日と同じ深い青のウィンドブレーカー。湿った灰色の車内で、彼女の周りだけ空気の色までが違うようだ。

 ぼくの隣に立ってつり革を握る。ぼくたちは、周りからどう見えるんだろうか。それにしても、何を話していいのか分からない……

「つるちゃん。」

 恥ずかしくて返事ができない。

「傘をポケットに吊るして、両手でつり革を持つ。」

 えっ。

「懸垂。私もやるから。よーいスタート。」

 まじか。でもやるしかない。

「完全に浮いたらブラブラして迷惑。浮く直前でストップして、その体勢で次の駅まで。」

 一駅ごとに懸垂と休息を繰り返し、四回目の懸垂が終わったところで横浜駅に着いた。

「つるちゃんは細くて筋肉がないから、練習のほかに筋トレをした方がいいかもね。」

と稜先輩はくすくす笑う。

「岩や鎖をつかんで体を引き上げることも多いから、上半身の筋力も大切。ザック担ぐのも楽になる気がするしね。私も家でやってるよ。」

 今日の懸垂の一番の効果は、二人で乗った電車の中で、場を持たせてくれたことだったかもしれない。

 久住くじゅう先生とまっきーはもう郵便局の前にいた。さすがにまっきーも今日はジャージではなく、スキニーなパンツにパーカーといういでたちだ。

「いいなーみーち。先輩と一緒だったんだ。」

「さあ、これで揃ったね。それじゃあ行こうか。」

 広い国道に沿ってしばらく歩くと、目的の『レイヨウスポーツ』だった。広い店内にはありとあらゆる種類の登山・クライミング・アウトドア用品が所狭しと並んでいる。店頭にはクライミングウォールまであった。

「俺は修理に出したテントを受け取るから、一番奥の靴売り場で見ておいで。高校の山岳部で使うことと、十二本爪のアイゼンがつけられることを言えば、昨日の条件に合った靴を出してくれるはずだよ。」

 稜先輩とまっきーは連れだってウェアを見ているようだ。ぼくは一人で奥の靴売り場に行き、さっき先生に言われたように店員さんに話してみる。

「高校でちゃんと十二本爪の使い方を勉強できるのはすごくいいね。夏はどこに行くの?」

「剱とか、あと、結構長く縦走をするみたいです。」

「それはすごい。じゃあ、ちょっといくつか見繕ってみるね。そこのソックスを履いて待ってて。一番厚手のやつね。」

 そうか、山では厚手のソックスを履くから、ちゃんとソックスを履いて合わせなければいけないんだ。なるほど。

 店員さんが、たくさんの箱を抱えて戻ってきた。

「最初はこれから試してみよう。足を入れて、踵を合わせたときにつま先に余裕があって、なおかつ足が中で動かないことが大切。サイズはこれでよさそうなので、紐を結んでみるね。」

 紐くらい自分で結べるのに、とも思ったが、どうも、普通の結び方とは違う結び方をするようだった。

「こうして、蝶々結びのループを通すときに、二回まわすようにすると、解けにくくなるんだ。ループを作る前に紐を縛るときにも二回まわす人もいる。登山靴は紐に強い力がかかるし、状況が悪いときに紐が解けると、致命的なことになる可能性があるからね。じゃあ、少し店内を歩き回ってみて。そこのスロープも使っていいから。」

 山で歩くときの状態に少しでも近づけるために、店内には小さなスロープがあった。

「登りで踵が浮かないかどうかと、下りで足が前に動いてつま先が当たらないかどうかを重点的に調べてね。」

 まず感じたのは、その重さだった。そして、足を踏み出したときのゴトリという音と、固く、厚い靴底を隔てた床の感触。正直に言えば、何時間も歩き続けるのにふさわしい靴だとは思えなかった。斜面を下ってみると、やや足が前に動く感覚があったため、店員さんにそれを告げると、

「きみは足の幅が狭いのかもね。じゃあ、こっちに履き替えてみよう。」

と言われ、別の靴にを試すことになった。

 靴を履き替えながらふと隣を見ると、稜先輩も靴を試していた。

「これね。昨日言ってたアプローチシューズ。登山靴よりずっと軽いけど、荷物が少なければ岩場でもどんどん行けちゃう。ローカットだから普段も履けるしね。ちょっと見てたら辛抱できなくなっちゃったよ。」

と、はにかむように笑う。

「すいません、クライミングウォール借ります。下のほうだけ。つるちゃんも来て!」

 店の入り口付近にはクライミングウォールがあり、さっそく先輩は登り始めた。ぼくもその横で恐る恐るホールドに足を乗せて登り始める。

「もっと体を壁から離して。そうすると、足には壁を押す方向の力がかかるでしょ。」

 確かに、その方がずっと安定している。それに、足元がよく見えるため、次に足を置く場所が探しやすい。そして、この靴底の硬さの意味が、そのときはっきりわかった。この硬さのおかげで、小さなホールドの上でも体重を支えることができるのだ。

「私の靴みたいに柔らかい靴だと、小さな足場に立ち込むのは難しいから、さらに体を離してソールと壁面との摩擦を稼ぐようにする。その分、腕でホールドをしっかりつかんで、引き寄せる力が要るけど。」

 電車での懸垂は、こういう場所を登るための訓練だったのか。稜先輩は毎日の生活の中にも登山が入り込んでいる。よく着ているウィンドブレーカーやフリースも山で使うものだし、たぶん明日からはきっと、足元もアプローチシューズになる。

 ある種の人々にとって、山登りは、普段の生活の中にもこうして軽々と侵入してしまうくらい魅力的なのだ。ぼくの祖父も、稜先輩も、久住先生も、まっきーも、そしてこの店内にいる大勢の人たちも、そういう種類の人なのだろう。

 ぼくはまだ、ちゃんと山に登ったことがない。この人たちと同じ気持ちを山に対して持つことができるだろうかという不安もあったが、それよりも、人をそこまで変える力のある山を、この目で見たいという期待の方がずっと大きくなった。足元の登山靴の、ずしりとした重さと安心感がそうさせているのかもしれなかった。



 五足の登山靴を試し、結局二番目に履いた靴を選んだ。ぼくの周りにはうず高く登山靴の段ボールが積まれ、付き合ってくれた店員さんにはなんだか申し訳なくなってしまったが、店員さんは「これが当然」とでも言うように平然と笑っていた。

 「単四電池を使うもの」という指定しかなかったが、ヘッドランプを選ぶのは難しくなかった。ただ、ウェア類が難しい。アンダーウェアと、ズボンと、雨具。

「迷ったらモンデル。山のウニクロ。モンデルで登れない山はない。ここは取り扱いがないから、別の店に行ってみようか。みなとみらいにモンデルのショップがあるから。」

という久住先生の提案で、ぼくたちはもう一件、店を回ることになった。雨が上がっていたので、傘を抱えて歩くことにした。ぼくと稜先輩は靴の入った手提げも持っている。久住先生も修理の出来上がったテントを持っていたが、みんな歩くことに全く躊躇はないらしい。

 大きな道路を歩道橋で渡り、十五分ほどで次の店に着いた。今度の店は、店頭に自転車が置いてあったりして、そこだけ見ると何の店だかよく分からなかったが、前に聳えるクライミング用の岩山が異彩を放っていた。中に入って二階に上がると、前の店と同じくらいたくさんの登山用具が並んでいた。

「ここは、モンデルと関連メーカーの製品が中心なので、靴やザックみたいにいろんなメーカーの製品を試したい場合はあんまり向かないんだけど、特にウェア類はここで買えばほとんど間違いないよ。値段も手頃だしね。俺はここで荷物を見ててあげるから、いろいろ見ておいで。」

 先生と別れて店内を見て回る。まっきーは気になるフリースがあるようで、まっすぐ売り場に向かった。ぼくも何となくついて行ってみる。

「やっぱりフリースっていいの?」

「秋はジャージで登ってたんだけどね。汗をかいたときでも保温性があったり、乾きが早かったり、やっぱりフリースが一番いいみたい。みーちももし買うなら、薄手のやつがいいよ。山の運動量はバカにならないしね。」

 まっきーは淡いグリーンのフード付きのフリースを肩に当て、

「わたしキッズでも行けちゃう。」

と笑う。

「やっぱり緑なんだ。ジャージも緑だしね。」

とぼくも笑うと、

「言われてみたらそうかも。雨具のジャケットも黄緑色だよ。わたしのテーマカラーかも。りょう先輩は青だね。先輩が青を着ると、それだけで周りの世界が違って見える。」

 やっぱりまっきーも、同じように思っていたんだ。

「青空の広がる稜線で、あの青いウィンドブレーカーを着た先輩を見たら、惚れるよ、みーち。」

 もう惚れてるかも、と、心の中で呟き、まだ行ったことのない山を稜先輩と一緒に歩くところを想像する。



 雨具は、部活で使うなら、使い方が荒くなるから、多少重くても丈夫な方がいいという店員さんの勧めで、廉価版のものに決めた。レインパンツはグレーで、ジャケットは迷った挙句、オレンジがかった黄色のものにした。

 今まであまり着たことのなかった色にしてみたいということもあったが、まっきーの言っていたテーマカラーの話が耳に残っていて、先生からもらった『港西山岳部』のTシャツが黄色だったことを思い出したのだ。

 雨具もアンダーウェアもズボンも予想より安く買えたため、ぼくもフリースを買うことにした。まっきーと同じフードの付いたモデルで、レモンイエロー。青の隣に並ぶ黄色を、頭の中に思い描く。



 稜先輩はピッケルを欲しそうに眺めていたが、さすがに今度は買わなかった。先生と合流して、帰途に就く。

「わたしのフリースはザックに入っちゃうから、みんなの傘を持ちますね。」

と、まっきーが言う。リュックではなく、ザックと言う。彼女の日常にも、山が入って来ている。

 春の日はどんどん長くなっていて、六時近くになっていたが、まだ外は明るかった。そして、雨上がりの虹が空に掛かっていた。虹を眺めていた稜先輩が呟く。

「山で見る虹は、もっとずっときれい。たいていは降られてひどい目に遭った後だからかもしれないけど。」

「そうだな。でも、この『街の世界』があるから、俺たちは山に行く道具が買える。山と街は切り離されているわけじゃなくて、連続した一つの世界の中にあることを忘れちゃいかん気がする。」

 先生は、なんだか分かるような分からないようなことを言った。

 横浜駅までまた歩き、今度はみんなで電車に乗った。降りる駅はみんな違うけれど、今度はみんなで懸垂をした。先生もやった。
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