港西高校山岳部物語

小里 雪

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第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。

8. 歩荷の洗礼。

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 翌週の水曜日、ぼくは登山靴を持って学校に行った。食訓しょっくんの手伝いをりょう先輩に申し出たが、朝は来なくていいと言われた。本来、朝は当番の人だけなのだ。

 昼休みになって、すぐに部室に向かう。先輩はもう米を炊く準備を始めていた。

「そこの玉ねぎとベーコンを切って、野菜を炒めて。今日はカレーだから。」

 まっきーの包丁さばきは分かっていたので、今日はぼくが包丁を握る。火が通りやすいように、薄めに、薄めに。まっきーほどじゃないけど、ぼくも料理は苦手じゃない。2番鍋に油を引いて、玉ねぎを炒める。次に、ベーコン。そして、先輩が用意した人参とジャガイモを加えようと、手に取ってみると、厚い。

「(まっきー 、これ、でかい。大丈夫かな)」

と、隣で野菜くずをまとめているまっきーに小声で囁く。

「(もうしょうがない。なるべく早く火を通そう。炒める時間を長めにして、その間にコンロをもう一台出して、4番鍋でお湯を沸かしておこう)」

 とにかく、野菜を炒める。強火にして、焦げないように一生懸命かき混ぜるが、そのうちにジャガイモの角が丸くなって来てしまう。ある程度のところでお湯を加え、煮込みに入る。先輩もお米を炊き始めていて、火力を調節していた。

 先輩が炊くお米の出来上がるタイミングを見計らい、カレールーを溶かし始める。蒸らしが終わったところで先輩は3番鍋のふたを開け、しゃもじでほんの少しすくってお米を口に入れる。

「ヤバい。ガンタだ。」

「(ガンタって何)」

と、まっきーにこっそり聞く。

「(芯があるお米のこと。朝、お米を漬けてなかったから、今水に入れて炊いたみたい。そういうときは初めに弱火で水を吸わせるんだけど……まあ、りょう先輩が当番のときは珍しいことじゃないから)」

「まあいいか、カレーだし。さあ、食べよう。」

 稜先輩はあまり気にしている様子もない。

 というわけで、その日の昼食は芯のあるごはんに芯のある野菜、ジャガイモの角が溶け出してとろみの強いカレーというメニューになったのだった。

「多少失敗したものでも食べるのも訓練。山では疲れすぎて食欲がないこともしょっちゅうだしね。カレーならそうひどいことにはならないし。」

と、稜先輩はカラカラと笑う。なんだか、こういう先輩の方がもう普通になってきた気がする。確かに、何とか食べられるものに仕上がっていて、カレーの偉大さを再認識したのだった。



 放課後、ぼくは初めての階段歩荷をすることになった。今度の土曜日に初めての山に行く前に、階段歩荷で靴を慣らした方がいいという久住くじゅう先生の判断だった。背負子は一つしかないため、ぼくだけが歩荷で、先輩とまっきーはランニングに出る。ぼくはこれから地下のある一号棟に行き、地下から四階の上の屋上の踊り場までを、一時間のあいだ延々往復するのだ。荷重は今日も二十㎏だった。

「まずは一往復三分、二十往復を目安にしてみて。あとで、何往復できたか教えて。」

と稜先輩は言い、まっきーと二人で部室を出て、ランニングに出かけた。

 部室に残ったぼくは、まず、土曜日に店員さんに教えてもらった通りに靴紐を結ぶ。それから、前に先輩がやっていたように、背負子を膝に乗せて背負う方法を試してみたが、背負子をひっくり返してコンクリートブロックや水のボトルをぶちまけそうになってあきらめ、前と同じように椅子に乗せてから背負った。いったん持ち上がってしまえば、重いのは確かだが、何とかなりそうに思えた。そのまま一号館まで歩き、腕時計のストップウォッチをスタートさせて、ゆっくり登り始めた。

 一番上まで、ちょうど一分半。残り半分は下りだということを考えると、予定よりちょっと速いが、特に問題はないようだ。ただ、下りは楽だろうと想像していたが、前につんのめりそうになるのをこらえるのに力が要る。また、着地の衝撃を受け止める膝に、かなり負担がかかる。下りは決して休みではなく、一時間ずっと動き続ける前提でペースを作らなければならない。

 五往復ほどすると、だんだん重さにも慣れてきた。余計なことを考えずに淡々と登るために、足の運びにあった速さの音楽を頭の中で鳴らす。もしかしたら口に出して歌っていたかもしれない。肩紐に圧迫されて苦しいので、手で中央に寄せるようして歩いたら、少し楽になった。下りも何となくコツがつかめてきて、だいたい一往復二分半のペースを維持できていた。たまにすれ違う生徒や先生は、「あー山岳部か」というような顔をして、ニヤニヤしている。不審そうな顔をしているのは新入生だろうか。

 しかし、猛烈に暑い。上はTシャツ一枚で登るように先輩に言われていたが、それでも汗があとからあとから滴り落ちてくる。メガネに汗が落ちて前がぼやけるので、レンズが汚れるのも構わず指で拭き取る。メガネに汗が落ちるのは、ぼくが前屈みだからだ。登っている最中は自分の足しか見ていない。そういえば、若干ペースが落ちて、一往復三分くらいになっている。

 快調だったのはそこまでで、十往復を過ぎたあたりで、脚に急に力が入らなくなった。体を階段の上に押し上げるのに、かなりの労力を要するようになり、頭の中で音楽を鳴らす余裕もなくなってくる。下りにはだんだん慣れてきて、そこで少し回復できるのだが、次の登りは前よりもずっと苦しい。時計を見ると、登りだけで二分半以上、一往復に四分もかかっていた。月曜のランニングは余裕綽々で、十kmなら止まらずに走れるようになったが、階段歩荷で使う筋肉は、ランニングとは違うのだった。

 十五往復目。脚の力だけでは、体が持ち上がらなくなる。膝に手を置いて押し上げないと上の段に登れない。手を膝に置いて肩紐を握れなくなったので、呼吸も苦しい。滝のように汗が流れ、メガネを拭う余裕もない。昼食の最後に飲んだカレーの溶けたお茶も、もう汗で出てきてしまっているだろう。登りだけで三分を超える。膝がガクガクで、下りもゆっくり、階段の手すりを握りながらじゃないと転げ落ちそうで怖い。

 十八往復目の下りの途中で、ついに一時間になった。地階まで下りるともう上がってこられそうになかったので、一階で止まる。部室までは持ちそうになかったので、その場で荷物を降ろそうとするが、力が入らず盛大に背負子をひっくり返し、コンクリートブロックとペットボトルが床に転がる。もう歩荷なんてやりたくない。絶対にやりたくない。

 余裕がなくて気づかなかったが、そこで久住先生が待ってくれていた。ペットボトルを拾いながらぼくに近づき、何往復できたか聞く。

「十八往復弱です。」

 ぼくは、息も絶え絶えに答える。

「地階から屋上までで二十二mだから、上市は一時間でだいたい四〇〇m登ったことになる。実は、二十㎏以上の荷物を背負って登るときのペースは、ほとんどずっと登りっぱなしのときでも、一時間にせいぜい三〇〇mくらいなんだ。ということは、実際に山に登るペースは、今日のペースのだいたい半分というところかな。」

「それなのにこんな練習をするんですか……」

「建物の階段っていうのは、ゆっくり登るのにあんまり向いてないんだよね。この練習の一番の目的は、重荷に慣れることと、脚がいっぱいで動かなくなる前に、どんなふうになるのかを感じること、それから、いっぱいになった脚で、ペースが落ちても、それでも登り続ける力を身に着けることだと俺は思ってる。階段歩荷の後は両神りょうかみでも、さらにもっと強かった六年生でも、それはもうヘロヘロになるんだよ。もちろん荷重はもっと重いし、ペースも速いんだけど。」

 これがぼくにとって歩荷の『最初の』洗礼だった。階段歩荷でなく、歩荷山行がこんなものではないことは後になって思い知ることになる。

「そういえば、靴擦れは起こってないか?」

「それは大丈夫そうです。足はだいぶ痛いですが。」

「今日の歩荷で靴にもだいぶ強い力がかかったはずだから、結構足に馴染んだはずだよ。次に履くときはもうちょっと楽になるはず。」

 やっとのことでぼくは立ち上がる。衝撃的に体が軽い。

「大丈夫。最初はみんなこんな感じだよ。最初に調子に乗りすぎて、一時間続けられない者も多いしね。」

 背負子は先生が担いでくれたので、ぼくはペットボトルだけを持って、ふわふわと歩いて部室に帰った。



 部室には、ランニングを終えた稜先輩とまっきーもちょうど戻ったところだった。

「十八往復でした。」

 目標が達成できなかった報告を先輩にしなければならないのが辛い。

「上出来上出来。途中で止まらなかったのが偉いよ。」

と、先輩はなぐさめてくれた。

「まっきーはこれ何回もやってるの?」

「うん。わたしは最初から二十往復クリアしたよ。十五㎏だったけど。ちゃんとペースを守ったのがよかったんだと思う。冬にだいぶやったから、今では二十㎏で二十五往復行けるようになった。」

 まっきーは平然と言ってのけた。ちょっと待て。二十㎏ってまっきーの場合体重の半分に近いだろ。

「私は最近、三十㎏でやるよ。」

と、稜先輩が言う。いくら長身とは言え、これは完全に体重の半分だ。

 ただ、初めてのランニングで歩いてしまったときにはかなり落ち込んだが、今では、練習を続ければ、ぼくにも絶対にできるようになるという感覚が、ぼくの中に生まれていた。次の階段歩荷では、最初のペースを上げすぎないようにしよう。それだけで、後半に残る脚が全然変わってくるはずだ。

 そのときはあまり意識していなかったが、確かにぼくは変わり始めていた。さっき「絶対にやりたくない」と言ったばかりの歩荷だったが、次の歩荷のときのペース配分のことを考え始めている。トレーニングを積めば必ず強くなるという確信めいたものが、ぼくの中に生まれていたのだ。
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