港西高校山岳部物語

小里 雪

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第2章 一本取ったり、武器を忘れたり、キジを撃ったり、デポされかけたり。

9. 最初の日と同じ横顔に、再会した。

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 ずっと眠れずにいた。今、何時なのかを知るためには、シュラフから手を出して腕時計のバックライトをつけなくてはならない。そのときに立てる物音や、テント内をぼんやり照らすバックライトで、ぼくが起きていることをりょう先輩に悟られてしまうのをなんとなく恐れていた。先輩も起きているということはほとんど確信していたが、それでもぼくがガサゴソと動いてはいけない気がしていた。

 そのとき、先輩は静かに起き上がると、シュラフから抜け出てヘッドランプをつかみ、テントの口を開けて外に出て行った。トイレに行くのだろうか。

 シュラフの外に腕を出し、腕時計の明かりをつけて時刻を確認すると、二十時二十分過ぎだった。シュラフに入って二時間近くが経っていた。

 しばらくしても、先輩は帰ってこない。トイレにしては長すぎる時間だった。

 気になったぼくは、シュラフから出て、ヘッドランプを額に付け、登山靴のひもを結ばずにガバガバのままで足につっかけてテントの外に出た。月のない夜だったから、先輩を見つけられるかどうか心配だったが、テン場から少し離れた林で、ヘッドランプの灯りがいったんともり、すぐに消えた。そちらに向かってみると、稜先輩がベンチに腰掛けて梢越しに空を見上げていた。

 先輩がまぶしくないように、ヘッドランプを消す。

「足元、注意してね。また足ひねるよ。」

 先輩は低く、静かな声で話す。

「はい。ありがとうございます。遅かったので、気になって来ちゃいました。」

「ここどうぞ。ごめんね。少し考え事をしたかったんだ。まあ、ちょっとね、いろいろあるんだよ、私にも。」

 先輩が横にずれてくれたので、ぼくは隣に座り、同じ方角の夜空を見上げる。空は雲が広がっていて、市街地の灯りをぼんやりと反射している。だんだん闇に目が慣れてくると、そのわずかな光で隣に座る先輩の輪郭が分かるようになってきた。



「母が再婚することになってね。私も春休みに相手の人と会ったんだけど、とてもいい人そうだった。母には幸せになってほしいし、その人と一緒にいる母はとても楽しそうに笑っていたから、私も応援したいんだけどね。ただ……」

 目が完全に暗闇に順応し、今では稜先輩の表情がぼんやりと分かる。

 最初に会った日の、桜の花びらが後ろで舞い散っていた、あの横顔がそこにはあった。今は桜ではなく、幹だけの木々がシルエットになって後ろにたたずんでいる。ぼくが一瞬で好きになってしまったときの稜先輩が、そこにいた。

「その人は、私が山に登るのに反対してる。危険なことをしてほしくないからって母には言っているみたいだけど、どうも本当は、そういう私を通して、父の姿が見えてしまうのが嫌らしいんだよね。」

 先輩はいったん言葉を切る。ポケットの中でカイロを握りなおす音が聞こえる。

「私は父のことが大好きだし、父と一緒に山で過ごした時間も大好きだった。私はこの先もずっと山に登り続けるつもりだし、きっとそのたびに父と一緒に山に登ったことを思い出す。でも、私にそうであってほしくない人がいるっていうことが、苦しくて悲しい。たまに、そのことがやりきれなくなることがある。私が大事に思っていることを、その人も大事に思ってくれなくてもいい。せめて、私に大事にさせ続けてほしいだけなのに。」

 離れた場所で、小動物が枯葉を踏むカサコソという音が聞こえていた。

「ぼくが最初に会ったときの稜先輩も、今日と同じような悲しそうな顔をしていて、そのとき、先輩のことを一瞬で好きになりました。」

 ぼくは口を開くと、いきなり告白した。今、言わなきゃいけないような気がした。理由なんかないけど、稜先輩に、今、この場所で伝えたかった。

 稜先輩はぼくの方を向き、少しびっくりした顔をしたようだった。

「そのあと、先輩は豪快だったり強かったり意地悪だったり、少し優しかったり、そして誰よりも自由だったりしました。最初に会ったときの先輩と、すごく久しぶりに、今、再会している気がします。」

 先輩の方を向くのが恥ずかしくて、夜空を見上げながら続ける。

「でも、豪快なのも意地悪なのも、先輩が、自分と同じような力がつけば、山がもっと楽しくなることを伝えたいからだと思うようになりました。それから、まっきーやぼくにも、きっと同じように、自信を持って先輩に接してほしいんだろうなって。そうしたら、豪快でも、意地悪でも、先輩のことがもっと好きになりました。」

 横目で先輩を見る。稜先輩の豪快さや意地悪さと、まっきーのおしゃべりとにぎやかさは、本質的に同じものなのかもしれない。そこにいる誰かが、本当のその人自身でいるための、彼女たちなりのサポートの形。

「ぼくには何もできません。ただ、ぼくに言えるのは、ぼくにとって、先輩の大切なものが同じくらい大切だっていうことだけです。まっきーもあさひ先輩も久住くじゅう先生も同じだと思います。」

 思い切って先輩の方を向く。

「その大切なものを、先輩がこれからも大事にできるように、一人ではできなくても、この山岳部にいることで実現できるようになるためになるために、ぼくができるのは、トレーニングをして、山の勉強をすることだけです。そうすれば、これからいろいろな山で、きっと稜先輩と大事な時間をたくさん過ごせるだろうなって思います。すいません、何言ってるんですかね。何の解決にもならないですね。」

「ありがとう、つるちゃん。山岳部、正直に言えば最初は一人で心細かった。でも、入ってよかった。そうだね。ここでは私の大切なものを、好きなだけ大事にできるんだよね。」

 先輩はいったん目を伏せ、ぼくの方に向き直る。

「あのさ、やっぱり『先輩』ってやめてほしいんだよね。つるちゃん、この一か月で見違えるくらい逞しくなった。知識の吸収量も半端じゃない。何より、山に行きたいっていう気持ちや、山にいて楽しい、もっと山に行くために練習したいっていう気持ちが伝わって来るのが嬉しい。だから、次に登る山について、遠慮しないでちゃんと意見を言い合いたい。」

「分かりました。でも、ちょっと照れますね。じゃあ、稜さん。稜さんには今まで話していませんでしたが、ぼくは実は、人の名前を呼ぶときに字が頭に浮かぶんです。まっきーはひらがなですが、稜さんは、漢字の、稜線の稜です。それがぼくの好きな人の名前です。」

「父がつけてくれた名前だね。私も、この漢字好きなんだよな。テストのたびに思う。さあ、体が冷えちゃったよ。テントに帰ろう。」

 下弦の月はまだ地上には現れていなかった。ぼんやりとした稜さんの姿が立ち上がり、ベンチの後ろを回る。

 そして、背中からぼくをぎゅっと、三秒だけ抱きしめた。ぼくが稜さんのことが好きなのと同じ意味で、稜さんはぼくのことを好きなわけではない。そういうハグだった。まわした腕をほどき、ぼくの肩に手を乗せ、彼女はぼくを待たずに先にテントに戻った。



 稜さんのシュラフが入口側だったので、ぼくは彼女をまたいでテントに入る。冷えた体をシュラフに押し込み、眠ろうとしたそのとき、稜さんがおならをした。きっとわざとだと思ってちょっと腹が立ったぼくは、力を入れれば復讐できることに気付く。

 下腹部に力を入れた。稜さんのものよりちょっとウェットな音が響いた。

「やべ。」

と、ぼくは思わず声に出してつぶやき、稜さんはこらえ切れなくなって声を出して笑い出した。

「うるさい。両神りょうかみ、早く寝ろ。」

と、隣のテントから先生の声が聞こえた。ぼくは念の為、再び稜さんをぎこちなくまたぎ、テントを出てトイレに向かった。その間ずっと後ろから、押し殺した笑い声が聞こえていた。

 トイレから帰ってシュラフに入るとすぐに眠りに陥ちた。その夜、最強に意地悪な稜さんの夢を見た。
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