港西高校山岳部物語

小里 雪

文字の大きさ
25 / 36
第3章 ザイルは伸び、無駄に荷物を背負い、二人は歩き、一人は助ける。

1. ぼくたちは、流動し、分散する。

しおりを挟む
 「フォール!!」

 りょうさんの大きな声とともに、二階の渡り廊下から五十kgの土嚢どのうが詰まったネットが落とされ、ぼくは腰のハーネスに付けられた確保器ビレイデバイスの下側から出たザイルを引っ張る。程なくして確保器をつけたザイルによってぼくの体はぐっと引き上げられ、その横で落ちた土嚢が宙吊りになっていた。ぼくは慎重に確保器の下側のザイルを握る手を緩め、土嚢とぼく自身をゆっくり地面に下ろした。



 残雪期山行の翌日も休日だったが、ぼくたちは朝から学校に集まり、シュラフを洗濯し、校庭の隅にテントを張って干した。シュラフとテントが乾くまでの間に、岩に乗って丸まったアイゼンをヤスリで研ぎ、先端に黒マジックを塗って錆止めにした。

 テントはすぐに乾いたが、シュラフが乾くのは夕方になりそうだったので、午後は別の訓練をすることになった。ぼくは昼食の係を志願して、部室にある無洗米とブロックベーコンの端切れと人参と玉ねぎでチャーハンを作った。

 いったんタンクに入れた燃料を使い切らなければならないため、今日の調理には『ブス』を使う。初めて使ったときはちょっと怖かったが、ポンピングやプレヒートという火をつけるまでの一手間がかえって楽しく思えてきた。

 そして昼食後、ぼくたちはみんなヘルメットをかぶり、ハーネスを装着して確保ビレイとザイルワークの訓練をすることになったのだ。



「最終支点から落下位置までが一mだから、土嚢は二m墜落したことになる。上市かみいちから土嚢までのザイルの長さが四mちょっとだから、二を四で割って、今ののは落下係数が〇・五弱の墜落というやつだ。」

と、渡り廊下の上の稜さんの横から顔を出した久住くじゅう先生が説明してくれた。墜落時の衝撃は、ほぼこの落下係数で決まるのだという。

「落下距離が長い方がザイルにテンションがかかる瞬間の速度が大きくて、衝撃が大きくなると思うんですが、全体のザイルの長さで割るのはどうしてですか?」

「墜落の衝撃が緩和されるのは、ザイルが伸びるからなんだ。そういう墜落の衝撃を伸びて吸収してくれるザイルを『ダイナミックロープ』というんだけれど、繰り出しているダイナミックロープが長ければ、墜落時の伸びが大きくなってそれだけ衝撃を吸収してくれる。物理でバネ定数のあたりを勉強したら、自分で計算してみるといいよ。」

 確かに墜落を受け止める衝撃は、ザイルが伸びてくれたおかげで予想よりもずっと小さかった。ただ、ザイルの伸びを計算しないと墜落者が地面に落ちてしまう『グラウンドフォール』を起こしてしまう危険もある。

「さあ、次は巻機まきはたの番だ。巻機は体重何kg?」

 渡り廊下の上から大きい声で、いきなり女子に何を聞いてるんだ先生は。

「四十九kgです。」

 躊躇なくまっきーは答える。いいのかよ。

「軽いなあ。じゃあ、とりあえず四十kgを落としてみようか。」

 ぼくとまっきーはネットから土嚢を取り出してえっちらおっちら階段を登り、上にいる稜さんと先生に届ける。ザイルに付けたネットが引き上げられ、ぼくのときより一袋少ない土嚢をネットに詰め、カラビナを掛ける。



 まっきーの確保もきれいに決まった。次は稜さんの番だ。しかし、毎回土嚢を運び上げるのが大変だ。

「上市、いいよ、もう、土嚢は。」

 稜さんはもう何回もやってるから、確保の訓練はこれで終わりなのかな。

「上市、体重何kg?」

「六十二kgです。」

両神りょうかみは?」
「六十一kgです。つるちゃん、だいぶ体重増えたんじゃない? 私より重かったんだ。」

 まっきーと言い稜さんと言い、みんな体重をあっけらかんと口にするのでちょっとびっくりする。

「この一月で四kg増えました。」

「いいことだね。体ができてきた証拠だよ。いつの間にか、私は追い越されちゃったんだな。まあ、身長が私よりもあるから、もうちょっと体重があってもいいかな。」

「いま、一七七cmです。もう少し伸びそうな気がします。」

「私は一七二cmだけど、もう三年前から止まっちゃったからな。」

「わたしも一五二cmで止まっちゃった。りょうさんみたいに大きくなりたかったなあ。まあ、あの親じゃ無理か。」

「じゃあ、体重もほとんど変わらないし、上市、落ちて。巻機、部室からクラッシュパッド持ってきて。」

 へ。

「ぼぼぼくが落ちるんですか土嚢じゃなく。」

「大丈夫、両神のビレイ、ものすごくうまいから。嫌なら俺が落ちるが。」

 もう、覚悟を決めよう。落ちたときの感覚を知るのも訓練だ。

「やります。ぼくが落ちます。」

 稜さんはまっきーから受け取ったビレイグローブをはめ、ビレイデバイスを通したザイルを、ハーネスの安全環付きカラビナに取り付ける。ぼくは渡り廊下に登り、先生にザイルの末端をハーネスのビレイループに八の字結びエイトノットで結んでもらう。柱にセルフビレイをセットすると、ぼくは手すりを乗り越えて後ろ向きに立った。まっきーが持って来たクラッシュパッドが、ぼくの真下にセットされる 。

「ビレイよーし。」

 稜さんから声がかかり、ぼくはセルフビレイを解除して、

「フォール!!」

と叫んで後ろに軽く飛ぶ。

 大きな衝撃は全くなく、気付いたらぼくは空中に浮いていた。横には稜さんも浮いている。ゆっくりとロープが緩み、ぼくたちは地上に立つ。

「大丈夫だったろ。止めてくれるっていう信頼を持つことも、訓練の一つだからな。」

と、先生は言い、「ビレイ成功のあいさつ。」と、稜さんは片手を上げた。ぼくと稜さんはハイタッチを交わす。

「次回からは、巻機と上市にも人が落ちたときの確保を練習してもらうからな。じゃあ、次は俺が見本を見せるから、両神、落ちて。」



「こんなに垂直に落ちる状況は、うちの山岳部の山行ではまずないんだけどね。夏の剱では、雪渓で滑り落ちないように確保が必要になるので、そこで慌てないで済む練習だな、これは。」

と、先生は言った。剱岳の一般ルートを登るだけなら、ザイルは特に必要はない。ただ、ぼくたちが登るのはそうではないということは、もう『独標どっぴょう』を読んでぼくは知っていた。

 先生と稜さんが確保をして、ぼくも、まっきーも、何回も落ちた。ザイルと、きちんとした支点があり、手順を守れば、落ちてもちゃんと止めてくれる。そのことが分かると落ちるのも少し楽しくなってきた。と、ザイルを眺めていた稜さんがそこで言った。

「先生、この練習用ザイル、毛羽立ってますよ。そろそろヤバくないですか?」

 ちょっと待て……



「じゃあ、ザイルのしまい方。二人とも見てて。」

 稜さんはザイルの端を首に掛けて、両手で交互にリーチの分だけザイルを計り、首の後ろに次々にかけていく。

「こうすると、ザイルが捩れない。何も考えずに巻き取ると、ザイルが捩れちゃうから、こうやって束ねるんだ。で、最後はこう。」

 稜さんは終わり近くまでザイルを束ねると、一方の端でループを作り、ザイルの束をそのループごともう一方の端でぐるぐる巻いて行った。最後に、巻いた端をループに通し、ループ側の端を巻きつけたザイルの反対側から引っ張ると、ループが閉じてきれいな束が出来上がる。これなら多少手荒に扱っても、ザイルが解ける心配もない。

「次は、支点の作り方を教えるよ。さっきの渡り廊下の支点もそうだったけど、基本的に支点は二点以上で作る。片方が壊れてももう一方で支えられるようにね。この、岩などに固定する点をアンカーポイント、メインザイルを通したり、場合によってはビレイデバイスをつけたりするここのカラビナを、マスターポイントという。マスターポイントが二点以上のアンカーポイントで支えられているわけだな。アンカーは、よく登られている岩場だとボルトが打ってあることも多いし、割れ目クラックがある場合は器具を使って作ることもできる。丈夫な立木たちきから取ることもある。」

と、先生は渡り廊下から外してきたスリングとカラビナを使って説明する。

「スリングを輪にして、二つのアンカーとマスターポイントにかけただけでは、荷重を一重だけのスリングで支えることになるのでちょっと弱い。でも、ただ二重にしてかけると、一方のアンカーが破断したときにマスターポイントのカラビナが抜け落ちる。そこで、二重にして掛けたスリングの一方を、一回ひねってからマスターのカラビナをつける。こうすると、片方が破断してももう一方のアンカーでマスターを支えることができる。」

 稜さんの両手の人差し指をアンカーに見立てて、先生は説明した。稜さんの片側の指からスリングが外れても、もう一方の指にマスターがぶら下がる。

「この方法だと力の方向が変わっても、マスターが動いて、アンカーにかかる力が常に均等になる。これを流動分散りゅうどうぶんさんという。それに対して、スリングをマスターの手前でまとめて結んだり、カラビナに掛けるときにこんな、クローブヒッチという掛け方をすると、マスターがスリングに固定される。こちらが固定分散こていぶんさんだ。さあ、巻機、上市。流動分散と固定分散のそれぞれの短所は何だと思う?」

「固定分散は、荷重の方向によってはほとんど一方だけのアンカーでマスターを支えることになりますね。」

 ぼくは答えた。

「そうだ。そうなると『分散』と言いつつほとんど分散ではなくなる。じゃあ、流動分散の短所は?」

 ぼくはすぐには思いつかなかったが、まっきーが答えた。

「片方のアンカーが破断したときに『落ちる』ことですか?」

「その通りだ。固定分散の場合、片方のアンカーがロストしても、もう片方のアンカーをかなめにして、マスターは振り子の動きをするだけだが、流動分散の場合はスリングが長くなるから、そのときに『落ち』て、再びスリングの張力が回復したときに大きな衝撃が発生する。スリングのアンカー側に結び目を作れば、『落ちる』距離を減らすことはできるが、今度はマスターの移動量が制限されてしまう。」

 先生は、スリングに結び目を作って説明した。

「まあ、基本的には信頼できるアンカーが取れる場合は流動分散でいいが、アンカーが信頼できない場合で、力の方向があまり動かない場合は固定分散を選ぶ。アンカーが信頼できず、力の方向が動くようなときは、非常に難しい。一つだけでも信頼できるアンカーがあれば、制限をつけた流動分散を選ぶし、全部信頼できない場合はなるべく多くのアンカーで固定分散を選ぶかな。」

 まっきーは目を輝かせて聞いている。ぼくも、そういう確保技術を駆使しながら登る、いわゆる『アルパイングライミング』に興味がないわけではないが、なぜかそのときは、『流動分散』ということばの手触りがなんだかとても心地よく思えて、頭の中でその字の形を思い浮かべていた。

 流動し、分散するぼくたち。ひとりひとりの流れが、港西こうせい高校の山岳部という場所で重なっている。いつかその流れが再び離れて行ってしまうとしても。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

女子ばっかりの中で孤軍奮闘のユウトくん

菊宮える
恋愛
高校生ユウトが始めたバイト、そこは女子ばかりの一見ハーレム?な店だったが、その中身は男子の思い描くモノとはぜ~んぜん違っていた?? その違いは読んで頂ければ、だんだん判ってきちゃうかもですよ~(*^-^*)

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

百合短編集

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

クラスで1番の美少女のことが好きなのに、なぜかクラスで3番目に可愛い子に絡まれる

グミ食べたい
青春
高校一年生の高居宙は、クラスで一番の美少女・一ノ瀬雫に一目惚れし、片想い中。 彼女と仲良くなりたい一心で高校生活を送っていた……はずだった。 だが、なぜか隣の席の女子、三間坂雪が頻繁に絡んでくる。 容姿は良いが、距離感が近く、からかってくる厄介な存在――のはずだった。 「一ノ瀬さんのこと、好きなんでしょ? 手伝ってあげる」 そう言って始まったのは、恋の応援か、それとも別の何かか。 これは、一ノ瀬雫への恋をきっかけに始まる、 高居宙と三間坂雪の、少し騒がしくて少し甘い学園ラブコメディ。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...