目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――昭和六十一年

3

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 約束の路地に行くとすでに保と恵一が待機していた。

 保は言った通りサッカーボールを手にしており、恵一はバットを持ってなぜか野球のヘルメットまでかぶっている。これが野球少年である恵一の完全武装の姿らしい。

「祥子ちゃんは?」

 映子が聞くと、路地の向こうからちょうど祥子が駆けてきた。

「ごめん、カメラお母さんが貸してくれなくて。こないだ買ったばっかりやったから、古いの貨してもらおうと思ってたら、フィルムが入ってないって言うねん。新しいのは絶対あかんて言うし。その代わりこれ持ってきた」

 祥子は手提げかばんから鉛筆と画用紙を取り出した。

「恵一くんが、サインもらおうって言ってたの思い出して、それやったら書くもんいるかなと思って」
「お、いいやん。絶対もらおうぜ」

 恵一は肩に担いだバットをトントンと軽く叩き、にっと笑った。

 が、細い路地なので子供が四人も立ち止まっていると他の人が通行できない。
 案の定、坂道を登ってきた自転車にチリンチリンとベルを鳴らされた。
 恵一、保、祥子は反射的に壁にトカゲのように張り付いた。

 映子も慌てて端に寄る。
 学ランを来た男の子が四人の傍らを走り抜けた。
 その後ろ姿を見送った祥子が言った。

「さっきの人もみどりばあさん見たかな」

 坂道を登ってきたということは、その先のみどりばあさんの家の横を通ってきたということだ。

「一人でこの道通れるなんてやっぱ大人やな。俺は無理やわ」

 保が弱気なことを言い出す。

「大丈夫やって。こっちは四人もおるんやで。行こうぜ」
 
 野球スタイルで完全武装した恵一はやけに強気だ。
 バットを構えた恵一が「ついてこい」と先頭になって、その後ろを祥子、映子、しんがりを保がつとめた。

 細い坂道に四人の鼓動と呼気が充満した。

 足取りは慎重だった。

 みどりばあさんの家は坂道を下りきったところにある。
 こんなところから慎重に進む必要はないのだが、音を立ててはいけないとなぜか思い込んでいるふしで、そろりそろりと足を運ぶ。

 そんなとき映子の足裏が石を踏んでしまい、じゃりっと音を立てた。
 とたんにみんな肩をびくつかせ、足を止めた。

「おい、気をつけろよ」

 先頭の恵一がひそめた声で注意する。
 みんなの緊張が伝わってきて、本来なら怖くないはずの映子までどきどきしてきた。

 いよいよ坂を下りきり、水路をまたぐ橋を渡ったところで列が再び停止した。

 水路の向こう側に板を打ち付けただけの簡素な建物が見えた。
 どうやらあれがみどりばあさんの家らしい。
 小学校のウサギ小屋ほどの大きさだ。
 板は日に焼けて、こげ茶色している。
 家の前には誰もいなかった。何の音もしてこない。しんと静まり返っている。
 家のそばに大きな木が一本植わっている。青々とした葉を空に広げ、陽光をたっぷりと取り込んでいる。

「おい、あの家どっから行くんや?」

 保が後ろから身を乗り出した。

 みどりばあさんの家は橋のたもと、水路の向こう側で橋を渡ったこちらには通じる道がない。
 水田は今はひたひたに水が張られている。
 午後の日差しを浴びて伸びだした稲が風に時折揺れる。
 泥んこになるのを覚悟で水田を突っ切り、水路を渡るしか行く方法はないのか。
 しばらくどうしたものかと見ていた。

 祥子が最初に気がついた。

「あそこやない?」

 橋を渡る手前を指差す。
 通ったときは気がつかなかったが、坂を下って壁の途切れたすぐ横に水路の淵に下りていく階段がある。
 そのまま水路の淵を歩いていくとみどりばあさんの家に辿り着きそうだ。

「どうする? あっちからまわってみる?」

 保がサッカーボールを抱きしめた。

「でも逃げ場がなくない?」

 祥子が不安そうに道を確かめる。
 祥子の言うとおり、一旦階段を下りてしまえば、後は不安定な水路脇を行くしかない。恵一がいくら足が速くたってあんな走りにくい道を駆けられるはずもない。

「じゃあどうする? 今日はやめて作戦考え直す?」

 保がそろりそろりと後ずさり始める。
 映子の腕をつかんだまま退散しようとするので、自然映子も逃げを打った形になる。

「おい待てや。誰もやめるなんか言ってないで」

 それを見た恵一が再びしっかりとバットを構える。
 
 祥子は引こうとする保と、まだ強気の恵一とを見比べて困惑して映子を見た。

 その目がどうする?と問いかけている。

 映子にもいい案は思い浮かばなかった。
 四人ともどうすべきか決めかねて引くも進むもできない。

 とそのときがたりと何の前触れもなくみどりばあさんの家の戸口が開いた。
 
 薄く開いた戸口にほっそりとした指がかけられ、たてつけが悪いのか、しばらくがたがたやっていたが、いきなりたががはずれたようにすぱんと小気味いい音を立てて全開した。

 その時の皆の驚愕の表情といったら―――。

 中から現れたのは白髪まじりの老婆だった。
 意外に腰はぴんとしていて、一見普通のおばあさんのように見えた。
 その手に光る刃物。
 それが鎌だということを映子は後になって知ったのだが、鎌を手にしているのに四人はほぼ同時に気がついた。

「みどりばあさんや!」

 保が指差して叫んだ。

 手にした鎌と、子供を食べてしまうという保の話を、結びつけたのは映子だけではなかったはずだ。

 頭から食べてしまうという話だったが、本当のところはあの鎌で切り刻んで食するのかもしれない。

 予期せずしていきなり姿を現したみどりばあさんに映子、保、祥子、恵一の四人とも固まって動けなかった。

 そんな子供たちを、みどりばあさんは鎌を斜に構えて、濁った鋭い目で睨んだ、ように映子には思えた。

「キャー!!!」

 誰かが叫んだ。
 腹の底から湧き出て、初夏の空気を震わせ、空に突き抜けるほどの大きな声だった。

 叫んだのは映子だった。

 今の声が自分のものだと認識できるまでに映子はしばらくかかった。
 どうしてあんなに大きな声で叫んでしまったのか。あとになって考えてみてもわからなかったほど、今までにないくらいの叫び声をあげていた。

 その声に触発されて祥子が更に「キャー!」と叫び、声に驚いた恵一が尻餅をついた。

 保はというと、そのまま後ろも見ずに一人で走り出した。
 足が速いからみんなを引っ張って逃げたると息まいていたあの威勢はどこへいったのか。

 今度ははっきりと自覚して映子は「キャー」と再び叫んでみた。

 腹の底から思い切り声を出すのは気持ちがよかった。

 意味もなく映子は何度も叫んだ。
 叫びながら転んだ恵一を助け起こし、叫びながら祥子の手を引っ張り、叫びながら田んぼの中の畦道をひた走って逃げた。
 

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