目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――昭和六十一年

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「ただいま」

 いつものように玄関入ってすぐ横、和室の六畳間に声をかけた。
 襖を開くとそこに母の姿はなかった。
 いつもは横になってテレビを見ていることが多い。身体がきついんよと母はよく愚痴をこぼす。一日の大半を寝て過ごしている。

「おかえり」

 母の声が奥の台所から聞こえてくる。珍しく母が台所に立っている。

 映子は嬉しくなってランドセルを玄関先に放り投げると、急いで駆けていった。
 扉を開くとエプロンをつけた母が鍋をかき混ぜている。

「おかえり映ちゃん」

 母はちょっと顔をこちらに向けて、映子の姿を認めると、またお玉をぐるぐるとまわして鍋の中身を混ぜた。

「何作ってるん?」
 
 鍋を覗き込むと味噌のいいにおいがふわっと香った。

「やった。お味噌汁。お母さんのお味噌汁おいしいんよね。すごいうれしい」
「そお?」
 
 母はふふっと笑う。まな板にはみじん切りにした玉ねぎが載っている。

「こっちは? 何作るん?」
「ああ、それはハンバーグしよかと思って。映ちゃんちょっと手伝ってくれる?」
「いいよ。手洗ってくるね」

 映子はスキップしながら洗面所へ向かった。

 母のちゃんとした料理が食べられるなんて今日はついている。
 みどりばあさんはやっぱり妖怪ではなく、話題にするだけで幸運をもたらすラッキーパーソンなのかもしれない。

 映子は母の言うとおりにフライパンにバターを溶かすと玉ねぎを炒めた。
 弱火で焦がさぬようしゃもじで混ぜながら慎重に炒める。
 自分の失敗で、せっかくの母の料理を台無しにするわけにはいかない。

 母はボールにレタスをちぎって入れ、勢いよく水を出して洗った。母の白い指先が薄い緑のレタスの葉を優しく揺するのを映子はうっとりとして眺めた。母の手は滅多に御馳走を生み出さないが、ひとたび食材を扱い始めるととたんに美味しい料理に変える。

「映ちゃん、焦げてる」
 
 母の手元にばかり集中していて、すっかり玉ねぎのことを忘れていた。
 慌てて火を消したが、丸い円を描くようにフライパンのふちに茶色に変色した玉ねぎがへばりつき、焦げ臭いにおいを発している。

 映子は泣きそうになった。せっかくの母の手料理をだめにしてしまった。
 それにこれを機に一気に母の気分が傾き、料理の手を止めてしまうかもしれない。

 けれど水を止めてフライパンを覗き込んだ母は「大丈夫大丈夫」と助け舟を出した。

「これくらいならむしろ香ばしくておいしいかもしれんわ。ありがと映ちゃん。後はお母さんがするね。おやつでも食べておいで」

 母はそう言うと再び水を勢いよく出した。
 よかった―――。
 まだご機嫌なままだ。
 
 映子は母に言われた通り、お菓子ボックスからクッキーを出してきて麦茶を注いだ。
 お菓子ボックスには、母が体調のいいときにスーパーで買いだめしているお菓子が入っている。
 映子はここから好きなものを出してきていつも一人で食べる。
 クッキーをかじりながら台所の母をそっと盗み見た。
 今日は顔色もいいし、手も足もてきぱき動いている。
 横になってテレビを見ている母よりやっぱりこっちの方が断然いい。
 映子は袋からクッキーを一枚取り出して、それを持って母の傍に行った。

「あーんしてお母さん」

 せっかく一緒にいるのだから一緒にお菓子を食べたい。
 映子は母の口元にクッキーを差し出した。
 母は口元のクッキーを確認すると口を開けて久子の指ごとぱくっと食べた。

「ひゃっ」
 映子はくすぐったくて声を上げた。母はまたふふっと笑った。
 今日は本当に機嫌がいい。

「もう一枚食べる?」
「もういいわ。ありがと。あとは映ちゃんが食べて」

 母の歯がクッキーを噛み砕く。
 映子も急いでもう一枚口に放り込んだ。
 母と今同じ味を味わっているということがとてつもなく嬉しかった。母の喉が上下してクッキーを飲み込んでしまうと、とたんにがっかりした。
 母はもういらないと言った。同じことをして、同じ時を過ごせるのは、ほんの一瞬だったなと映子はつまらなく感じた。

 でも気することはない。今日の晩御飯はご馳走だ。
 ハンバーグに味噌汁にレタスまでついてくる。それも全部母の手作り。そう考えたらまた元気が湧いてきた。

 壁掛け時計を見るともうすぐ三時になろうとしていた。
 映子は約束を思い出し、「みどりばあさんを見に行ってくる」とだけ母に告げて、急いで残りのお菓子を口に放り込んで台所を飛び出した。

「みどりばあさんってだれ?」

 母の声が聞こえたけれど、説明している時間はない。

「帰ったらまた言うね」

 映子はスニーカーをつっかけて走り出した。
 お玉を持つ優しい母の手が、ぐるぐるお鍋の中身をかき回す姿を再び思い浮かべながら―――。


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