目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――昭和六十一年

6

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「今日も行かへんか」

 また次の日の放課後。
 今日は恵一ではなく保が言い出した。

 今朝、登校してきたとき、恵一は保が真っ先に逃げ出したことをまた責めるかと映子は思っていたが、恵一は責めなかった。

 あれはびびったよなと逃げ出した保の気持ちを斟酌した。

 昨日で懲りたのか、みどりばあさんと話したことで武勇伝として一定の成果をあげたことを満足したのか、恵一は返事を渋った。

 祥子は「わたしは今日は何も用事はないけど」と言いながらも昨日の話を聞いたあとだったので行くのをためらった。

「映子は?」
 
 二人の反応が鈍いので保は映子に聞いてくる。

「行ってもいいで」

 祥子のようにピアノのお稽古もないし、恵一のように兄弟に自慢する話が欲しいために、みどりばあさんのところへ行ったわけでもない。

 映子の色よい返事を聞いて保はほっとした顔をした。

「助かったぁ。実はさ。昨日縄跳び木にくくりつけたまま置いてきたやん。忘れてきたって言うたらお母さんがめちゃくちゃ怒って、明日取りに行ってきなさい言うて怒られてん」

「なんや、そんなことか」

 みどりばあさんのところへ行きたいというより、縄跳びのためだったか。
 
 口実はどうあれ今日もまた映子はみどりばあさんの家に行くことになった。

 家に帰ると玄関先にかかとの磨り減っていないきれいな靴がきちんと揃えて置いてあった。

「ただいま」

 映子が言うと台所から映子の祖母が顔を出した。

「おかえり、映ちゃん」

 祖母は真っ白な染み一つない前掛けをつけて手には菜箸を持っていた。
 奥からは煮物のいいにおいがしてくる。

「おばあちゃん来てたんやね。またごはん作ってくれてるん?」

 ちらりと玄関横の和室を覗くと母が横になっているのが見えた。
 掛け布団がぴくりとも動いていない。
 たぶん母は起きている。
 本当に眠っているときは掛け布団が規則正しく上下している。
 母は息をつめて眠ったふりをしている。祖母が来ているから。
 眠ったふり、聞かないふり、できないふり。
 そんなに上手にふりを使い分けるのに知らないふりだけはできない不器用な母。
 誰かのせいにして知らないふりをしてしまえるなら、たぶん母はこんなにも苦しまないで済む。

「クッキー焼いたからお食べ」

 祖母は電子レンジから天板を取り出した。
 小麦粉の焼けた香ばしい香りがする。
 映子はお行儀よく手を洗い、いつもはしないうがいまでして椅子に座った。
 祖母はそれを満足そうに確認して映子の前に焼きあがったばかりのクッキーを並べた。

「いただきます」

 手を合わせるのも忘れない。

 祖母は何でもきちんとしていて、行儀のよいことにこだわる。
 祖母の髪はいつもきちんと整えられているし、ボタンのとれかけたパジャマや糸のほつれた服や毛玉だらけのセーターなんか絶対に着ない。
 靴もいつも汚れ一つついていない。
 祖母が来ると台所もぴかぴかになる。
 祖母の周りはいつもきちんと整えられた秩序で覆われている。

「直美は最近ご飯作ってる? ちゃんとしたご飯食べた?」

 直美は映子の母の名前だ。
 祖母のこの質問に、うっかり本当のことを答えると、母が窮地に立たされる。
 もう何度となく失敗を繰り返して映子は学習していた。

「ハンバーグ」

 映子は急いで答えた。

「ハンバーグ食べた。お母さんが作ってくれて。味噌汁も飲んだし大丈夫。ちゃんと食べてる」

 祖母は三日と空けずにやって来る。
 その頻度でやって来て最近食べているかとの聞き方もおかしいのだが、祖母は来る度にこの質問を繰り返す。
 祖母は祖母なりにこの状況を憂え、できる限り手助けをしようとしてくれている。
 母がご飯を作ったり作らなかったりするので祖母はこうしてやって来ては何品かまとめておかずを作り、タッパーにつめてストックしてくれる。

「そう、ハンバーグ食べたんか。お祖母ちゃんも今作ってしまったわ」

「大丈夫」

 映子はまた急いで答えた。

「おばあちゃんのハンバーグとお母さんのハンバーグは味が違うから。どっちもおいしい」

「それやったらいいんやけど」

 祖母はコーヒーを淹れたマグカップを両手で包み込んで持ってきた。
 映子の前の席に座ると持ってきたコーヒーをすすって大きなため息をつく。

 ここから祖母の言い出すことは映子にはわかっている。
 わかっているけれどいつも黙って聞くことにしている。

「直美もほんまはちゃんとしたいっていつも思ってるはずなんやで。堪忍したってな。あの子もかわいそうな子なんよ。映ちゃんは覚えてないかもしれんけど、京介が亡くなるまではほんまにいいお母さんやったんやで。家はいっつもきれいに片付いてたし、掃除も完璧やったし、ご飯も手ぇ抜かんときちんと作っとった。手作りの洋服も作って映ちゃんに着せてたし、クッキーもよく焼いてた。ほんまになんでこんなことになってしまったんやろうね」

 そしてまた大きなため息をひとつ。

 弟の京介が死んだのは映子が五歳のときだった。
 だから祖母の言うまめな母の姿を映子はあまり覚えていない。
 その頃の記憶は断片で普段の母の姿は朧にかすんでいる。
 映子にとっての母は京介を亡くして心の安定を失った姿であり、いつも気だるそうに横になり、線香を絶やさず、京介の写真をいつまでも見ている姿だ。
 そして水路から発見された京介の小さな身体を抱きしめて悲鳴をあげている姿だ。

 祖母は映子が何か言葉を返してくれるのを期待して話をしているわけではない。
 うつむいて、時折顔を上げて祖母の話を聞いていることをアピールする。それだけで充分だ。

「でもね、直美には映ちゃんもいるんやからいつまでもこんなことじゃあかんと思うねん。いつまでも下を向いてんとちゃんと前も見なあかんやんね」
 
 映子はそこで思わず口を挟んだ。

「大丈夫。わたしは大丈夫。もう四年生やしわたしもちゃんとお料理手伝ったりするから。掃除だって時々やけどやってるんやで」

「えらいね、映ちゃんは」

 祖母は飲み終わったコーヒーのマグカップを流しですすいだ。

「でも小学生はちゃんと勉強するのがお仕事なんやで」

 祖母はタオルできちんと手をぬぐうと口の端をきゅっと引き結んだ。

「やっぱり黙ってられへんわ。ちょっと直美起こしてくる」

 言うや、しっかりとした足取りで台所を出て行く。
 映子は慌てて後を追った。
 どこで何を間違ったのだろう。
 母の不利になることを言わないつもりが、知らぬ間に余計なことを言ってしまったようだ。

 いましも母の寝ている和室の襖に手をかけようとしている祖母の腕を映子はつかんだ。

「おばあちゃん、わたしは大丈夫。お母さん起こさんといてあげて」

「そやけどおばあちゃんは直美のお母さんやから。子供がちゃんとしてないのを放ってはおかれへんやん。この子がこんな弱いんは私の育て方が悪かったせいなんやから」

「違うでおばあちゃん。そんなん誰のせいでもない。誰も悪くなんかないんやで」

「そんなふうに思えるんやったらいいんやけどね」

 祖母は映子の制止を聞かずに襖を引き開けた。
 母は布団の中で丸くなって固まっている。
 部屋中に立ち込める線香のにおいに映子は部屋に入るのをためらい、祖母は何のためらいもなく入って行って布団を引き剥がした。
 母は膝を抱えて震えていた。

 映子はこれから始まるであろう祖母の小言と、母の小さな姿を想像して耳を塞いだ。
 
ーーーそうだ。みどりばあさんだ。
 
 閉じたまぶたの裏に唐突に浮かんだ老婆の姿に映子は家を飛び出した。

 祖母の言うことはいつも正しい。
 それに京介を亡くして心を壊した母も悪くはない。
 どちらも悪くないのに悪くない同士やりあってもどうにもならない。
 世界中でたぶん、映子しかそのことに気がついていない。

 玄関先にきちんと揃えて置かれた祖母の靴を、出かけに気づかれない程度にわざと少しずらした。

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