目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――昭和六十一年

7

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 待ち合わせの路地には退屈そうに保が一人待っていた。

「遅い」

 保は開口一番そう言って口をへの字に曲げた。

 今日はサッカーボールも縄跳びも持っていない。
 そのかわり半ズボンから覗いた膝小僧が赤く擦り切れて血が滲んでいる。

「どないしたんその足。痛そう」

 映子が問うと保はばつが悪そうにうつむいた。

「映子がなかなか来おへんから暇やって、その坂下りたり上がったりして遊んどったんや。そしたらみどりばあさんが通りかかってびっくりして転んでしまったんや」

「よお食べられんかったね」

 映子は冗談のつもりだったのだが、保はまだみどりばあさんを人食い妖怪だと思い込んでいるようで、

「そうやで。危なかったんやで。ちょうど人が通りかかって、それでみどりばあさん俺のこと睨んだけど、そのまま家に入って行ってん」
と真面目に答える。

「てことはみどりばあさん今日は家にいてるんやね。どうする? ピンポンして縄跳び取らしてもらう?」

 保はとんでもないと首を激しく左右に振った。

「そんなん真正面から食べられに行くようなもんやん。映子、おまえなかなか度胸あるな」

「だってみどりばあさんは普通のおばあさんやもん」

「映子はあほや。だまされてるだけや。人食い妖怪が妖怪やってわかるような姿してるわけないやん。普通の人間のふりして相手にわからんようにして近づくもんなんやで。妖怪人間知らんのか。うまいこと普通の人間のふりして人間に近づくんやで」

「そやけどあれはいい妖怪やん」

「みんながみんないい妖怪なわけないやん。みどりばあさんは絶対怖い妖怪やで」

 映子はこれ以上言い合うのが馬鹿らしくなってやめた。
 とりあえず縄跳びを確かめにいこうと言って坂を下った。
 
 銀杏の木には縄跳びはひっかかっていなかった。
 大方みどりばあさんが処分したのだろう。

「どうする? やっぱりみどりばあさんに聞いてみるのが一番やと思うで」
 
 映子が言っても保はそれだけは承服しかねるようで、

「俺またお母さんに怒られることにするわ」
と言い出した。

「みどりばあさんに食われるくらいやったらお母さんに怒られるほうがまだましや。縄跳びはきっぱり諦める」

 映子はそれを聞いて、保を一人置いてすたすた歩き出した。
 水路にかかる橋を渡り、水路脇に下りる階段を駆け下りる。

「おい、映子」

 保が後から追ってきた。
 一人でいるのは怖いようだ。
 映子を屈強な盾だとばかりに、その陰に隠れながらついて来る。

 映子はお構いなしに普通に歩いていって、みどりばあさんの家の玄関前で立ち止まった。
 呼び鈴を鳴らそうと思ったがベルがどこにも見当たらない。
 仕方なく声を張り上げた。

「ごめんください」

 保はもう映子を止めることを諦めて何も言おうとはしない。
 映子の後ろから恐る恐る首を伸ばして中の様子を窺っている。

「はいよ」
 
 中から声がして戸口が薄く開き、細い指がかけられた。
 しばらくがたがたやっていたがいきなりスパンと小気味いい音を立てて扉が全開した。

「ひっ」

 後ろで保が小さく悲鳴を上げた。
 中からみどりばあさんが現れた。
 今日はグレーのTシャツに茶色のズボンをはいている。
 玄関先に立つ映子と保の姿に目を細めた。

「何や、昨日の悪ガキどもやないか。何しに来たんや」

「昨日は勝手に入ってごめんなさい。保くんが縄跳び忘れて帰ったのを取りに来ました」

 映子は臆することなく堂々と胸を張った。
 恐れるでもなく、見下すでもなく、普通に接する映子の態度にみどりばあさんは何か思うところがあったのか。
 少し口調が和らいだ。

「ああ、昨日のあれな。取ってあるで」

 みどりばあさんは一旦奥へ引っ込んで手に縄跳びを持って戻ってきた。

「ほれ、井上保」

「ひい」

 保が背後で変な声を上げる。

「な、なんで俺の名前知ってんねん」

「ふん、けつの穴の小さいガキんちょが」
 
 みどりばあさんは完全に保を見下して縄跳びを放って寄越した。
 地面にのたくって転がった縄飛びの持ち手には、黒のマジックで大きく井上保と大書してある。

「ありがとう、みどりばあさん」
 
 保が一向に礼を言わないので映子は代わりに頭を下げた。

 みどりばあさんと呼ばれた老婆は特にそれを否定することもなくふんと一瞥して家の中に消えていった。
 立て付けの悪い扉が閉まるとその家は世界のすべてを拒否しているように映子には見えた。

 
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