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―――平成三年
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家に帰ると珍しく父の革靴が玄関にあった。
ただいまと言おうとするより先に台所の方から皿の割れる大きな音が響いてきた。
それは一度ではなくその後も二度、三度と続いて聞こえてくる。
映子は急いで靴を脱ぎ捨て、台所に駆け込んだ。
「危ないっ」
父の声に映子は足を止めた。
すぐ足元に、割れた皿の破片が散らばっている。
台所はめちゃくちゃだった。
食器棚の扉が無造作に開かれ、中に収められていた皿のあらかたが床に散らばり、シンク下にあるはずの鍋は全て床に転がっている。
包丁、ナイフ、スプーン、フォーク、箸、ありとあらゆる物が床に散乱している。
爆発した芸術みたいだ。
父はその中心に一歩も動けずに立ち尽くし、母はなおも残った皿を床に叩きつけ、それでは足りず冷蔵庫まで開いて中の食品を床にぶちまけ始めた。
その中には、映子が夕方走って買いに行った食材も含まれていた。
明日のお弁当に入れようと買ってきたコロッケが無残にひしゃげ、床にへばりついた。
母は映子が帰ってきたことにも気づかずに泣き叫んでいる。
「なんでこんなことになってんの」
父がなんとか移動してこちらにやって来た。
靴下がケチャップで赤く染まっている。
「悪い、映子」
父は映子を促して台所を出ると、いつも母の寝ている和室に入った。
母はまだ半狂乱で物を投げ続けている。
投げつけるべき相手がいなくなったことにも気がついていない。
父は部屋に入る前に汚れた靴下を脱いでゴミ箱に無造作に捨てた。
「お父さんな、この家を出て行くことにした」
汚れた靴下のように、不要なものを捨てるのに父はためらわない。
映子はひどいとも寂しいとも思わなかった。
父の決断はもうずっと前からわかっていた。
「そう」
他に言うべきことは見つからなかった。
「お父さんと一緒に来るか?」
父は京介の仏壇に線香をたてて、背広のポケットからライターを取り出すと火をつけた。
「行かへんよ」
映子がそう答えると父はほっとした顔をした。
「お金はちゃんとするから心配せんでいい。映子の困るようなことはせんから。何かあったらいつでも連絡してきたらいい」
父は手帳を取り出すとボールペンで走り書きし、ちぎって映子に渡した。
父の新しい住所と電話番号が書いてあった。映子の知らない町の名前だった。
映子はそれを制服のポケットにねじ込んだ。
今しも母が飛び込んできて、メモを取って行ってしまうのではないかと思った。
母は映子の心配を他所にまだ台所で騒いでいる。
「京ちゃんは、」
映子はこのときまで弟の京介のことを自分がそう呼んでいたことを忘れていた。
唐突に思い出して口に出したら懐かしさがこみ上げた。
「京ちゃんは、誰のせいで死んだん?」
「なんで今更そんなこと聞くんや」
「だって京ちゃんが今も生きてたら、お父さんは出て行かんですんだんやろ」
「あるいは」
父は「そうかもしれんしそうじゃないかもしれん」と続けた。
「そんなもしもの話しても仕方ないやろ。現実に京介は死んでるんやし」
「そうやねんけど、わたし小さかったし、なんで京ちゃんが死んだんか、よお知らんねん。お母さんには聞かれへんし、おばあちゃんは教えてくれへんし。田んぼの水路で死んでたんは知ってるけど、なんで京ちゃんは水路になんか落ちたん?」
「それはお父さんもわからん。京介が落ちたとこは誰も見てなかったし、なんで京介がそんなとこに一人で行ったんかもわからん。あの頃まだ引越してきたばかりで三歳の京介がなんであんなところに行ったんか。お母さんが引越の片づけで忙しくて、目を離した隙に、一人で行ってしまったみたいやけど、怖がりやった京介が、お母さんの側勝手に離れて遠くに行ったのが、未だに信じられへん」
「お母さんは何て言ってたん?」
「お母さんは、目を離した自分が悪い言うて、自分のこと責めた。そんなん誰のせいでもないのに、お母さんは自分のせいにして、おかしくなったんや」
「それは知ってる」
そんな母を父は捨てて行くのか。
よっぽど言いたかったが口には出さなかった。
色白の細面ですらりとした体形の祥子みたいになりたいと望んでもどうしようもないように、いくら父を責めても何の解決にもならない。
あきらめてありのままを受け入れるのには慣れている。
物はたくさんあふれ、近所のスーパーに行っただけでもカラフルでかわいいお菓子に目が留まり映子を誘惑する。
手を伸ばせば簡単に手に入りそうでも、実際には映子はそれを手に取ることはない。
欲しい物はたくさんあるけれどそんなにお金もない。
大半は手に入らない物だ。
父のことも祥子のこともスーパーやショッピングセンターに大量に並んでいる商品と変わらない。
手に入れられないものが世界にはたくさんありすぎる。
映子は父の出て行った部屋をぼんやり眺めた。
住む人のいない部屋は無意味でむなしい。
母は台所を散らかすことに飽きたのか、いつの間にかまた和室の布団で寝息をたてていた。
細く上がる線香の煙の行く先を追いながら映子は台所の片付けの段取りを考えた。
ただいまと言おうとするより先に台所の方から皿の割れる大きな音が響いてきた。
それは一度ではなくその後も二度、三度と続いて聞こえてくる。
映子は急いで靴を脱ぎ捨て、台所に駆け込んだ。
「危ないっ」
父の声に映子は足を止めた。
すぐ足元に、割れた皿の破片が散らばっている。
台所はめちゃくちゃだった。
食器棚の扉が無造作に開かれ、中に収められていた皿のあらかたが床に散らばり、シンク下にあるはずの鍋は全て床に転がっている。
包丁、ナイフ、スプーン、フォーク、箸、ありとあらゆる物が床に散乱している。
爆発した芸術みたいだ。
父はその中心に一歩も動けずに立ち尽くし、母はなおも残った皿を床に叩きつけ、それでは足りず冷蔵庫まで開いて中の食品を床にぶちまけ始めた。
その中には、映子が夕方走って買いに行った食材も含まれていた。
明日のお弁当に入れようと買ってきたコロッケが無残にひしゃげ、床にへばりついた。
母は映子が帰ってきたことにも気づかずに泣き叫んでいる。
「なんでこんなことになってんの」
父がなんとか移動してこちらにやって来た。
靴下がケチャップで赤く染まっている。
「悪い、映子」
父は映子を促して台所を出ると、いつも母の寝ている和室に入った。
母はまだ半狂乱で物を投げ続けている。
投げつけるべき相手がいなくなったことにも気がついていない。
父は部屋に入る前に汚れた靴下を脱いでゴミ箱に無造作に捨てた。
「お父さんな、この家を出て行くことにした」
汚れた靴下のように、不要なものを捨てるのに父はためらわない。
映子はひどいとも寂しいとも思わなかった。
父の決断はもうずっと前からわかっていた。
「そう」
他に言うべきことは見つからなかった。
「お父さんと一緒に来るか?」
父は京介の仏壇に線香をたてて、背広のポケットからライターを取り出すと火をつけた。
「行かへんよ」
映子がそう答えると父はほっとした顔をした。
「お金はちゃんとするから心配せんでいい。映子の困るようなことはせんから。何かあったらいつでも連絡してきたらいい」
父は手帳を取り出すとボールペンで走り書きし、ちぎって映子に渡した。
父の新しい住所と電話番号が書いてあった。映子の知らない町の名前だった。
映子はそれを制服のポケットにねじ込んだ。
今しも母が飛び込んできて、メモを取って行ってしまうのではないかと思った。
母は映子の心配を他所にまだ台所で騒いでいる。
「京ちゃんは、」
映子はこのときまで弟の京介のことを自分がそう呼んでいたことを忘れていた。
唐突に思い出して口に出したら懐かしさがこみ上げた。
「京ちゃんは、誰のせいで死んだん?」
「なんで今更そんなこと聞くんや」
「だって京ちゃんが今も生きてたら、お父さんは出て行かんですんだんやろ」
「あるいは」
父は「そうかもしれんしそうじゃないかもしれん」と続けた。
「そんなもしもの話しても仕方ないやろ。現実に京介は死んでるんやし」
「そうやねんけど、わたし小さかったし、なんで京ちゃんが死んだんか、よお知らんねん。お母さんには聞かれへんし、おばあちゃんは教えてくれへんし。田んぼの水路で死んでたんは知ってるけど、なんで京ちゃんは水路になんか落ちたん?」
「それはお父さんもわからん。京介が落ちたとこは誰も見てなかったし、なんで京介がそんなとこに一人で行ったんかもわからん。あの頃まだ引越してきたばかりで三歳の京介がなんであんなところに行ったんか。お母さんが引越の片づけで忙しくて、目を離した隙に、一人で行ってしまったみたいやけど、怖がりやった京介が、お母さんの側勝手に離れて遠くに行ったのが、未だに信じられへん」
「お母さんは何て言ってたん?」
「お母さんは、目を離した自分が悪い言うて、自分のこと責めた。そんなん誰のせいでもないのに、お母さんは自分のせいにして、おかしくなったんや」
「それは知ってる」
そんな母を父は捨てて行くのか。
よっぽど言いたかったが口には出さなかった。
色白の細面ですらりとした体形の祥子みたいになりたいと望んでもどうしようもないように、いくら父を責めても何の解決にもならない。
あきらめてありのままを受け入れるのには慣れている。
物はたくさんあふれ、近所のスーパーに行っただけでもカラフルでかわいいお菓子に目が留まり映子を誘惑する。
手を伸ばせば簡単に手に入りそうでも、実際には映子はそれを手に取ることはない。
欲しい物はたくさんあるけれどそんなにお金もない。
大半は手に入らない物だ。
父のことも祥子のこともスーパーやショッピングセンターに大量に並んでいる商品と変わらない。
手に入れられないものが世界にはたくさんありすぎる。
映子は父の出て行った部屋をぼんやり眺めた。
住む人のいない部屋は無意味でむなしい。
母は台所を散らかすことに飽きたのか、いつの間にかまた和室の布団で寝息をたてていた。
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