目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――平成三年

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 土曜日、祥子と家の近くで待ち合わせして駅前に行くと、宮井はすでに来ていた。

「やあ」

 軽く片手を上げて合図する。
 白い清潔感のあるシャツにジーンズを履いたラフな格好で見た目は爽やかだ。

「行こうか」

 宮井はすぐに歩き出して改札に向かった。
 辺りに落ち着かなく視線を飛ばす。地元では誰の目があるとも限らない。中学生と会っていることを知られるのはまずいのだろう。
 それは祥子にとっても同じことだ。宮井とはわざと距離をとって歩いた。

「あとで面倒だから」
と宮井は祥子に耳打ちして電車の車内でも離れて座った。
 二駅先で快速に乗り換え、三宮に着いたところでようやく宮井はこちらに寄ってきた。

「お茶でもしようか。おいしいケーキのお店があるんだ」

 映子は宮井が標準語を話すことにようやく気がついた。
 祥子の横にぴったりとくっついて歩き出す。

 映子はあえて横には並ばず、その後ろをついていくことに徹した。

 祥子はとても楽しそうだった。
 シフォン生地のふんわりしたスカートを履いている。
 すらりと伸びた足首が白いサンダルとよく似合っている。
 終始笑顔を絶やさない宮井の横顔を、映子は見るともなしに見ていた。

 ちらりと宮井が振り返った。ジーンズにTシャツのラフな格好の映子の全身を、下から上まで見て映子の顔を一瞥する。何も言わずにまた祥子に向き直った。

 宮井の連れて行った店は、大通りから外れた細い路地にあった。
 こじんまりとした小さな店で、入ってすぐのショーケースに小ぶりなケーキがいくつも並んでいる。
 祥子は宮井のお勧めだと言うショートケーキを選び、映子はモンブランを選んだ。
 宮井は甘いものは苦手だと言って紅茶だけを頼んだ。
 甘いものが苦手なくせにどうしておいしいケーキのお店を知っているのか。
 矛盾を感じたが口は挟まない。
 祥子は何も気がつかずうれしそうにしている。

 二人がけの丸いテーブルに無理矢理三人で座ったので窮屈だった。
 ケーキを食べようとフォークに手を伸ばすと、横の宮井の手に当たった。
 空調は効いているとはいえ、ぞくりとするほど冷たい手だった。

「ごめんなさい」
 
 映子は慌てて手を引っ込めた。

「なに? 映子ちゃん緊張してる?」

 慌てた様子の映子に祥子が笑う。
 期せずして異性に触れてしまったことに映子が焦っていると思ったようだ。
 映子はあまりに冷たい手に驚いただけなのに。

「ケーキはおいしい?」

「はい。すっごくおいしい。ね、映子ちゃん」

「う、うん」

 映子はまだ一口も食べていなかった。急いで口にケーキを放り込んだ。
 甘いだけで味なんか全然わからなかった。

 祥子はフォークを運ぶ手を止めて宮井の顔を見上げた。

「宮井さんって休みの日は何してるんですか」

「そうだな、本屋ぶらぶらしたり買い物行ったりとかかな。祥子ちゃんは?」

「わたしは土日はほとんど部活やから。たまの休みは勉強」

「そうか、もう三年生だからもうすぐ受験だよね。どこを受けるつもり?」

「神戸の方にある女子高にしようと思ってる。制服がめっちゃかわいいから」

「はは」

 宮井は朗らかに笑った。

「それは大事な要素だ。映子ちゃんは?」

 映子は食べていたケーキを紅茶で無理矢理喉に流し込んだ。

「わたしは高校は行かないかも」

「え、そうなん?」

 祥子が驚いた顔をした。

「うん、働くかもしれん」
 
 父は家を出て行ってからも、毎月必ず生活費を送ると約束した。
 それでもそのお金だけで高校の授業料はまかなえない。
 家を出て行った父が映子のために、高校のお金を出してくれるとも思えない。

「なんで? 映子ちゃん頭良いのにもったいないやん」

「頭いいんだ」

 宮井は不思議そうに映子の顔を眺める。

「余計なお世話だろうけど高校は出といた方がいいよ。仕事探すのに苦労する。俺の知り合いに、そういうやついたけど、大変そうだった」

「ほらほらそうなんだって。映子ちゃん大人の言うことは聞いたほうがいいよ」

 祥子の話し方はだんだん宮井に似てきている。宮井と話していると言葉がうつるようだ。

「とは言ってもいろいろ事情もあるだろうから、一意見として参考にしてみてよ」

 宮井はさして自分の意見を押し通すこともなかった。
 言葉が上滑りで本心の見えない話し方だなと映子は思った。
 宮井の考えていることはよくわからない。
 中学生の祥子を本当に恋愛対象として見ているのか。このにこやかな笑顔の下にどんな本性を隠しているのか。何も隠してなどいないのか。
  
 映子はみどりばあさんのことを思い描いた。
 みどりばあさんは子供に向かって悪ガキと暴言を吐き捨て、気に入らなければ睨んで威嚇する。
 かと思えばこちらが普通に接すればちゃんと縄飛びを返してくれる。
 自分の心のままに行動しているみどりばあさんの方が宮井よりよっぽど人間らしい。

 ケーキを食べ終えると宮井は散歩しようと海の方へと祥子と映子を連れて行った。
 大きな旅客船が港に停泊し、潮のにおいがした。
 赤い神戸ポートタワーに祥子は歓声をあげ、宮井にそっと寄り添った。
 宮井はその腰に手をまわすこともなく、あくまでにこやかに祥子と話している。
 映子は行きと同じように二人の後をついて行った。
 
 四時半には神戸から再び新快速に乗り帰路についた。
 電車ではまた別々に座り、駅に着いてもさよならも言わずに宮井と別れた。祥子は楽しかったと満足そうで、映子に何度も礼を言った。

 不自然に人目ばかり気にして、本当に楽しかったのだろうか。

 祥子と別れて一人になると、映子は急に思い立って、みどりばあさんの家に向かった。

 宮井の終始にこやかな態度も、祥子にあくまで紳士的に振舞う様子もうそ臭く、もやもやした心地がした。

 祥子は本当に恵一より宮井がいいのだろうか。
 信用ならない気がすると祥子に教えてやらなければいけないと思う一方で、映子にとってはどうでもいいことのようにも思われた。
 
 表面を取り繕っている宮井に接していたら、久しぶりにみどりばあさんに会いたくなった。
 宮井より、真っ直ぐなみどりばあさんに会いたい。
 宮井は信用できない。今日一日接していて出した映子の結論だ。

 映子は、何度かこんにちはとみどりばあさんの家の前で呼びかけた。
 この間移動図書館で会ったのでいるかもしれないと期待してしばらく待ったが返事はない。

 映子は勝手に玄関の板戸に手をかけた。
 少し開いた隙間に指を指し込み、何度かがたがた揺らす。
 十回ほどそうしただろうか。
 いきなりスパンと小気味いい音を立てて全開した。
 
 みどりばあさんはいなかった。

 映子は中に入ると再び同じ手順で玄関を閉めた。
 閉めきると中は暗く、外の一切のものが自分から切り離される感覚に陥った。
 硬い板の間に仰向けに寝転んで、三角屋根そのままの形の天井を見上げた。

 周りの音は聞こえない。

 時折風に揺れる銀杏の葉の音が耳をかすめる。

 ここには何もない。
 世界でたった一人の自分を感じる。
 怖いとは思わなかった。むしろ安心した。

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