目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――平成三年

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 学校から帰ってすぐに近所のスーパーへ食材を買いに行って帰ってくると家の電話が鳴っていた。

 母は、父とのことは何もなかったかのように、以前と変わりなく、寝たり起きたりの生活を繰り返している。
 当然電話に出ることはない。

「はい、鷹取です」

 映子が電話に出るとすぐに向こうから声が返ってきた。

「映子ちゃん?」

「はい」

「お久しぶり、遠藤祥子の母です」

 おっとりとした口調で相手が名乗る。

「お久しぶりです」

 映子はそう返した。
 小学生の頃、何度か祥子の家に遊びに行ったことがある。
 祥子の家にはいつも花の植えられた広い庭があり、モップみたいな大きな犬がいて、グランドピアノがあり、母親は全力で祥子の習い事を支えていた。

 行ったら必ず手作りのお菓子とジュースが出てきて、今日の学校での出来事を尋ねてくる。

 初めて祥子の家に行ったときうっかり自分のことをしゃべってしまった。

 祥子の母の反応は薄く、次に遊びに行ったときにはちゃんと祥子の話をした。

 祥子が国語の音読でしっかり読めたことを先生に褒められていたと言うと満面の笑みで「そう」とうなづき、その日に出されたお菓子は前回のものより量が多かった気がする。

「最近映子ちゃんはしっかり勉強はしてるの?」

 祥子の母は少し間を置いてから切り出した。
 質問の意図がわからず映子は曖昧に答えた。

「はあ、普通です」

「映子ちゃんは頭いいんやもんね。祥子から聞いてるよ。もうすぐ受験やし、受験生はしっかり勉強しないとね」

「そうですね」

 受験しないかもとは言わなかった。
 言ったら余計に話がややこしくなりそうな予感がした。

「あのね、ちょっと言いにくいんやけど」

 慎重に言葉を選んでいる気配が伝わってくる。
 ためらう様子から、映子には祥子の母が話したいことが何なのか見当がついた。
 またしばらく沈黙し、意を決したように祥子の母は言った。

「ここ一ヶ月くらい毎週土日になったら出かけてるでしょ」

 映子の思った通りのことを切り出した。

「そうですね」

 出かけているのは事実なので肯定する。

「あの子、バレー部の部活も休んで映子ちゃんと遊びに行ってるんよ。もうすぐ引退試合があるっていうのに、クラブさぼって毎週遊んで。映子ちゃんはあの子がクラブ休んでること知ってた?」

「いえ、知りませんでした」

「たまにね、出かけるのはいいと思うんよ。受験生でも息抜きは必要やし、遊びたい年頃やもんね。それはわかるんよ。でも毎週っていうのはちょっと度を越してるし、この間の土曜日なんか七時に帰ってきたやんね。もう今の時期七時って言ったら真っ暗やし、危ないと思うねんよ」

「そうですね」

 そんな遅くまで宮井と会っていたとは思わなかった。
 いつもは五時には家に着くように帰っていたのに。

「何も映子ちゃんだけを責めてるわけ違うんよ。誤解せんといてね。祥子にもきつく怒って、クラブさぼってることとか、毎週土日出かけてることとか怒ったんよ。ただね、祥子にだけ言っても仕方ないと思って。迷ったんやけど、やっぱり映子ちゃんも一緒に行ってるわけでしょ。私の言いたいことは分かってくれるやんね」

 要するに、映子はとばっちりを受けているということだ。
 口調は穏やかだが祥子の母の苛立ちが伝わってくる。

「祥子のこの間の塾の模試の成績ががくんと落ちたのよ。勉強にも身が入らない感じやし、映子ちゃんと出かけるための新しい服を欲しがって。それ自体は別にいいのよ。おしゃれもしたいだろうし。でもねやっぱりまだ中学生なんやから勉強をおろそかにするようやったらあかんと思うのよ。映子ちゃんもそう思うでしょ?」

「…そうですね」

 映子は答えながらも話の内容のくだらなさに嫌悪感を抱いた。

 祥子の母の話はくだらない。

 娘の本当の姿がまるで見えていない。

 映子にこんな話をするなんて見当違いもいいところだ。
 いっそ洗いざらいぶちまけたらすっきりするだろうなと思った。
 想像したら胸が透くようだった。

「それとも映子ちゃんはもしかして受験は考えてないの? 祥子がそんなことを映子ちゃんが言ってたって」

「そうかもしれません」

 そんなことまで祥子は母に話しているのかと驚いた。
 それならいっそ宮井のことも打ち明けてしまえばいいのに。そうすれば話は簡単だ。

「だからなの?」

 祥子の母の不審そうな声。
 気持ちを抑えることができなくなったようだ。
 幾分荒い口調になった。

「だから祥子のこと休みの度に連れ回してるん? 映子ちゃん自分が受験しないからってうちの子も道連れにしようとしてるん?」

 たくましい想像力だ。
 違いますと答えるのは簡単だけれどそれを祥子の母が鵜呑みにするとは思えなかった。

 どう答えるべきか考えていると、沈黙を肯定と受け取った祥子の母は更にまくしたてた。

「映子ちゃんのご家庭のことは悪いけど知ってるんよ。小さいときに弟さんが亡くなって、お母さんもあんなことになって、気の毒やと思うよ。映子ちゃんもいろいろ苦労してるはずやわ。それはわかるんよ。でもね、うちの祥子を巻き込むのはやめといてちょうだいね。祥子は必死に映子ちゃんは悪くない、映子ちゃんはいい子だ、誘ってるのは自分だって言ってたけど、かばってるとしか思えなくて。あの子やさしいから、友達のこと悪く言うことできひん子やから。本当のことは私には言えんかったんやと思うんよ。映子ちゃんが高校行かないのは、ご家庭の事情で仕方ないと思うけど、お願いだから祥子を巻き込むのだけはやめてちょうだい」

 映子は言いようのない感情が身の内から湧き出すのを感じた。

 理不尽にこぶしが震える。

 宮井のことをよっぽど言ってやろうと何度も言葉が出かかった。
 家のことまで持ち出して責められる理由は一切ない。

 映子はこれでも懸命にやっているし、他の子よりも何倍忙しくても家のこともこなし、母が皿をぶちまけたって文句も言わずに片付けた。
 父が出て行っても泣き言一つ言わなかった。
 その全部を否定されているようで悔しくて奥歯をかんだ。

 それでも映子は何も言い返さなかった。

 祥子が映子のことを悪く言わなかったなら、映子も口を噤もうと耐えた。

 祥子のことを友達だとはっきり自覚したことは今までなかったけれど、相手が自分のことを思ってくれるならその気持ちに応えたかった。

「すみませんでした」

 映子は押し殺した声でやっとそう言った。
 それだけ言うのが精一杯だった。

 それを反省と受け取った祥子の母は満足したように

「わかってくれたらそれでいいんよ」
と電話を切った。

 映子は耐え切れず家を飛び出した。

 みどりばあさんの家が無性に恋しかった。
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