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―――平成四年
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映子と弟の話をした直後から母の病状は劇的に改善していった。
映子のお弁当を作ってくれる日が多くなり、中学を卒業する頃には仕事にもついた。
母はもともと結婚するまで看護師として働いており、恵一の病院が母を雇い入れてくれた。
始めは週に二三回、午前中のみの勤務だったが、日を追うごとにシフトに入る回数が増えていき、映子が高校一年の夏休みに入る頃には毎日午前、午後ともに働くようになった。
何が母をそんなに変えたのか。
母を突き動かしたものが何だったのか。
あの日母が語ったことが母を変えるきっかけとなったのは確かだ。
あの時の母の語る一つ一つには力があって、言葉を選びながらしっかりと応えていた母の姿はずっと映子の中に焼きついている。
出口を自ら導き出して立ち上がった母の力を思うとき、映子は言い知れない奮えが身の内に湧き上がるのを感じる。
奥底に眠っていた根源的な力が母を立ち直らせ、回復させていく様子を目の当たりにして、映子は人の持つ底知れない力を思った。
高校は恵一、祥子と同じ公立高校だ。
制服にこだわった祥子が公立高校を選んだのは意外だった。
神戸の女子高にも合格していたので祥子は当然そちらに行くと映子は思っていたら、同じ公立高校を受けると聞いて思わず「なんで?」と聞き返した。
「恵一に誘われた」
祥子がそう答えたので映子はもっと驚いた。
「恵一って私立の男子校行くって言ってたやん。合格もしてるやんね」
「変えたみたい。上手くいけばまた高校も同じやね」
そう言って受験に臨み、恵一、祥子、映子は同じ高校に合格した。
保だけ別の商業高校に通っている。卒業式では散々そのことで保は愚痴っていた。
「あーあ。俺だけ仲間はずれやん。いいよな。頭いいやつらは。うらやまし」
「でも高校隣同士にあるって知ってるやろ?」
恵一が慰めると保はにっと笑った。
「もちろん。知ってますがな」
高校に入ってすぐに恵一と祥子は付き合いだした。
保にも彼女ができた。ショートカットがかわいい小柄なテニス部の女の子だ。
そして映子には好きな人ができた。
「あとこれ片付けといてくれる?」
新館三階の一番北の部屋は図書室だ。
一日日の当たらない図書室は、夏でもひんやりと涼しい。
中央に横長の机が二つずつくっつけて置かれ、それが三列。
その三列の机を挟むように書棚が設けられている。
図書委員になった映子は週に三日、昼休みと放課後、図書室に通っている。
はいと手渡された本を両手で抱えて書棚の間を進む。
どこに何があるかは大体把握してしまった。
高い書棚に阻まれて姿は見えないが指示を出す声だけが聞こえてくる。
「あと糸井さんは貸し出しリストのチェックよろしく」
指示を出しているのは三年生の図書委員長、安藤行彦だ。
メガネの似合う背の高い先輩だ。てきぱきと下級生に指示を出し、自分も手早く仕事をこなす。
言われた本を片付け終わって、カウンターに戻ると、安藤は目を通していた本のリストから顔を上げて映子を見た。
「お疲れ。今日はこれで終わっていいよ」
安藤は見ていたリストを片付けて、他の図書委員にも声をかける。
「今日はこれで終わり。みんな帰っていいよ」
安藤の声掛けで図書室内に散らばっていた他の生徒が戻ってきて、三々五々帰っていく。
安藤はカバンから分厚い問題集を取り出した。
映子は帰り支度をするふりをしてその様子をそっと盗み見た。
「ユキ、もう終わった?」
三年生の小林あけみは涼やかな声で安藤を親しげにユキと呼ぶ。安藤の彼女だ。
いつも安藤の図書委員の仕事が終わるのを見計らって図書室にやって来る。
甘い香水の香りをさせて、あけみは当然のように安藤の隣りに密着して腰を下ろした。
「またその問題でつっかかってるの?」
あけみは安藤の手からシャープペンシルを奪い取ると広げたノートにペン先を走らせた。
「ここはこうなって、で、この答えから次の答えが導き出せる」
あけみの説明に安藤は首をひねった。
「それはわかるけどこの数式をあてはめるっていうのがまず出てこん」
「それはユキの勉強不足やわ」
あけみは安藤の髪に触れた。少しくせのある安藤の髪があけみの細く繊細な指先にからめとられる。
「あの、お疲れ様でした」
映子は見ていられなくなって図書室を飛び出した。
「ああ、また金曜日に」
安藤はそれに軽く答え、あけみは映子の姿は目に入らないのか視線を向けもしなかった。
数歩廊下を進んでから図書室の扉を閉め忘れたことに気がついた。
小走りで戻って図書室の扉に手をかけようとして、向けた視線の先、安藤とあけみが目に飛び込んだ。
あけみは安藤の膝の上に座り、キスをしていた。
映子は扉をそのままにしてそっと後ずさった。
足音を忍ばせて息を殺して廊下を走った。
図書室からずいぶん離れた場所まで来て猛然と駆けた。
「何してんねん、映子」
下駄箱に勢いよく駆け込んだところで、恵一と祥子に出くわした。
猛ダッシュで走ってきた映子に、恵一と祥子は揃って怪訝な顔をしている。
映子は息を大きく吸って吐いて、呼吸を整えた。
荒い息はすぐに収まったが、心臓の脈打つ速度だけは元に戻らない。
「帰ろうと思って」
「それで猛ダッシュ? 変な映子ちゃん」
祥子はきょとんとして映子を見た。
「俺らも帰るとこやから一緒に帰ろ」
お邪魔ではないのかと聞こうとして映子はやめた。
前にも一度こうして下駄箱で偶然会ったときに祥子が一緒に帰ろうと言い出した。
邪魔しては悪いし遠慮しておくと言って断ったら、恵一も祥子も思い切り嫌な顔をした。
保も誘って、たまには四人で道草して帰ろうと思ったのに、変な気を回すのは映子らしくないと言われた。
祥子と恵一が付き合いだして、保にも彼女ができて、この三人との距離の取り方が映子にはわからなくなっていた。
けれどそんなことを気にしているのは映子だけのようで、三人とも前とは何も変わっていない。
結局祥子と恵一と三人で帰ることにした。
下駄箱から正門までの小道の左手には新館がある。
三階を見上げると見えもしない二人の影が見えるようで、映子はまた一人心臓の鼓動を早めた。
映子のお弁当を作ってくれる日が多くなり、中学を卒業する頃には仕事にもついた。
母はもともと結婚するまで看護師として働いており、恵一の病院が母を雇い入れてくれた。
始めは週に二三回、午前中のみの勤務だったが、日を追うごとにシフトに入る回数が増えていき、映子が高校一年の夏休みに入る頃には毎日午前、午後ともに働くようになった。
何が母をそんなに変えたのか。
母を突き動かしたものが何だったのか。
あの日母が語ったことが母を変えるきっかけとなったのは確かだ。
あの時の母の語る一つ一つには力があって、言葉を選びながらしっかりと応えていた母の姿はずっと映子の中に焼きついている。
出口を自ら導き出して立ち上がった母の力を思うとき、映子は言い知れない奮えが身の内に湧き上がるのを感じる。
奥底に眠っていた根源的な力が母を立ち直らせ、回復させていく様子を目の当たりにして、映子は人の持つ底知れない力を思った。
高校は恵一、祥子と同じ公立高校だ。
制服にこだわった祥子が公立高校を選んだのは意外だった。
神戸の女子高にも合格していたので祥子は当然そちらに行くと映子は思っていたら、同じ公立高校を受けると聞いて思わず「なんで?」と聞き返した。
「恵一に誘われた」
祥子がそう答えたので映子はもっと驚いた。
「恵一って私立の男子校行くって言ってたやん。合格もしてるやんね」
「変えたみたい。上手くいけばまた高校も同じやね」
そう言って受験に臨み、恵一、祥子、映子は同じ高校に合格した。
保だけ別の商業高校に通っている。卒業式では散々そのことで保は愚痴っていた。
「あーあ。俺だけ仲間はずれやん。いいよな。頭いいやつらは。うらやまし」
「でも高校隣同士にあるって知ってるやろ?」
恵一が慰めると保はにっと笑った。
「もちろん。知ってますがな」
高校に入ってすぐに恵一と祥子は付き合いだした。
保にも彼女ができた。ショートカットがかわいい小柄なテニス部の女の子だ。
そして映子には好きな人ができた。
「あとこれ片付けといてくれる?」
新館三階の一番北の部屋は図書室だ。
一日日の当たらない図書室は、夏でもひんやりと涼しい。
中央に横長の机が二つずつくっつけて置かれ、それが三列。
その三列の机を挟むように書棚が設けられている。
図書委員になった映子は週に三日、昼休みと放課後、図書室に通っている。
はいと手渡された本を両手で抱えて書棚の間を進む。
どこに何があるかは大体把握してしまった。
高い書棚に阻まれて姿は見えないが指示を出す声だけが聞こえてくる。
「あと糸井さんは貸し出しリストのチェックよろしく」
指示を出しているのは三年生の図書委員長、安藤行彦だ。
メガネの似合う背の高い先輩だ。てきぱきと下級生に指示を出し、自分も手早く仕事をこなす。
言われた本を片付け終わって、カウンターに戻ると、安藤は目を通していた本のリストから顔を上げて映子を見た。
「お疲れ。今日はこれで終わっていいよ」
安藤は見ていたリストを片付けて、他の図書委員にも声をかける。
「今日はこれで終わり。みんな帰っていいよ」
安藤の声掛けで図書室内に散らばっていた他の生徒が戻ってきて、三々五々帰っていく。
安藤はカバンから分厚い問題集を取り出した。
映子は帰り支度をするふりをしてその様子をそっと盗み見た。
「ユキ、もう終わった?」
三年生の小林あけみは涼やかな声で安藤を親しげにユキと呼ぶ。安藤の彼女だ。
いつも安藤の図書委員の仕事が終わるのを見計らって図書室にやって来る。
甘い香水の香りをさせて、あけみは当然のように安藤の隣りに密着して腰を下ろした。
「またその問題でつっかかってるの?」
あけみは安藤の手からシャープペンシルを奪い取ると広げたノートにペン先を走らせた。
「ここはこうなって、で、この答えから次の答えが導き出せる」
あけみの説明に安藤は首をひねった。
「それはわかるけどこの数式をあてはめるっていうのがまず出てこん」
「それはユキの勉強不足やわ」
あけみは安藤の髪に触れた。少しくせのある安藤の髪があけみの細く繊細な指先にからめとられる。
「あの、お疲れ様でした」
映子は見ていられなくなって図書室を飛び出した。
「ああ、また金曜日に」
安藤はそれに軽く答え、あけみは映子の姿は目に入らないのか視線を向けもしなかった。
数歩廊下を進んでから図書室の扉を閉め忘れたことに気がついた。
小走りで戻って図書室の扉に手をかけようとして、向けた視線の先、安藤とあけみが目に飛び込んだ。
あけみは安藤の膝の上に座り、キスをしていた。
映子は扉をそのままにしてそっと後ずさった。
足音を忍ばせて息を殺して廊下を走った。
図書室からずいぶん離れた場所まで来て猛然と駆けた。
「何してんねん、映子」
下駄箱に勢いよく駆け込んだところで、恵一と祥子に出くわした。
猛ダッシュで走ってきた映子に、恵一と祥子は揃って怪訝な顔をしている。
映子は息を大きく吸って吐いて、呼吸を整えた。
荒い息はすぐに収まったが、心臓の脈打つ速度だけは元に戻らない。
「帰ろうと思って」
「それで猛ダッシュ? 変な映子ちゃん」
祥子はきょとんとして映子を見た。
「俺らも帰るとこやから一緒に帰ろ」
お邪魔ではないのかと聞こうとして映子はやめた。
前にも一度こうして下駄箱で偶然会ったときに祥子が一緒に帰ろうと言い出した。
邪魔しては悪いし遠慮しておくと言って断ったら、恵一も祥子も思い切り嫌な顔をした。
保も誘って、たまには四人で道草して帰ろうと思ったのに、変な気を回すのは映子らしくないと言われた。
祥子と恵一が付き合いだして、保にも彼女ができて、この三人との距離の取り方が映子にはわからなくなっていた。
けれどそんなことを気にしているのは映子だけのようで、三人とも前とは何も変わっていない。
結局祥子と恵一と三人で帰ることにした。
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