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―――平成五年

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 夏休みの大学はもっと閑散としていると思っていた。

 映子は安藤と倉橋の後ろを歩きながら、視線をせわしなく四方へと飛ばしていた。

 夏休みに入ってすぐ、映子は倉橋と一緒に安藤の在籍する大学のオープンキャンパスに来ていた。

 高校の夏休みの校内は部活動の生徒はいるがやはり通常授業のある日よりも校舎は静まって人の気配が希薄だ。
 大学も夏休みに入っていると安藤は説明したが、最寄の駅を降りたところから学生街の活気があり、大学生らしき人が多く行き交っている。

「人、多いんですね」

 映子は後ろからためらいがちに声をかけた。安藤は立ち止まって振り返った。

「逆に普段もこんな感じやで。高校とかは平日はもっとこう人がわーっといてるけど、ここはいつもこんな感じ。今日はオープンキャンパスやから高校生もたくさんいてるやろうけどね。鷹取と倉橋みたいに。―――ここ」

 安藤は右手の平屋の建物を指差した。

「ここ学食。ここ以外にもあと二箇所あるけど、ここが一番大きい学食でメニューも豊富。お昼にしようか」

「もちろん安藤先輩のおごりですよね」

 倉橋がおどけて安藤の肩を叩く。

「仕方ない。自腹を切ってやるか」

「ごちそうさまです」

 安藤が先頭に立って学食に入った。

 始めにトレーを取って、並べられているご飯やおかずを選んでレジに持っていく方式だ。

 映子はきつねうどんにした。

 倉橋はカレー、安藤はご飯に鶏南蛮、味噌汁、コロッケを選んだ。
 四人がけのテーブルが百はある。空いている席にかけた。

「そういや先輩って小林先輩と別れたんっすよね」

 食べ始めてすぐ倉橋が口を開いた。
 映子は慌てて麺をすすった。
 聞きたいけれど聞いてはいけないような気がしていことを、倉橋がずばりと切り出したのには驚いた。

 気のないふりをして麺をすすったけれど、もちろん耳は安藤の返答を待ちわびている。

 約四ヶ月ぶりに安藤に再会して映子はもっと緊張すると思っていた。

 実際には久しぶりに見た安藤の顔に何の感慨も湧かなかった。
 好きだと思ってどきどきしていたあの頃の気持ちは、もう色あせてしまっている。

「別れたよ」

 安藤はあっさり認めて鶏南蛮にかぶりついた。

「大体のとこは知ってるんやろ。あけみと倉橋の姉貴って友達なんやろ」

「ばれてましたか」

 倉橋は悪気もなく白い頬を笑ませた。

「まあここにはいろんな奴おるからな。仕方ないっちゃあ仕方ないかな」

「案外あっさりしてるんっすね」

「うーん」

 安藤はそこでなぜか麺をすする映子を見た。

「まあ俺もいろいろ思うところもあったしな。俺が大学に入れたんはあけみのおかげやしあけみには感謝してる」

「それって負け惜しみに聞こえるっすよ」

「倉橋ってそんな口悪かったっけ」

 安藤は苦笑した。怒りはしなかった。大学生らしくあくまで寛大に倉橋の評を鼻先で流した。

「じゃあ小林先輩って今はもう彼氏いてるんっすか?」

「いてるんちゃうかな。はっきり聞いたわけじゃないけどたぶんね」

「相手知ってるんっすか?」

「図書館の司書」

「うへえ」

 倉橋は変な声を上げて目を丸くした。

「てことは相手同じ大学生じゃないってことっすか。またえらいとこ行きましたね」

「運がよかったらその司書もいるかもな」

 食べ終わって安藤は図書館に映子と倉橋を案内した。

 ここの大学図書館は、関西の大学図書館の中でも圧倒的な蔵書数を誇る。
 地下二階、地上二階建てで一般閲覧は地上階、地下は書庫になっている。

 入り口を入ってすぐ横がカウンターになっており、そこに映子は思いがけない顔を見つけた。

 紺のスーツに白いシャツが清潔感に溢れている。

 折り目正しい好青年の余所行きの仮面をかぶった男。宮井翔一だった。

 学生の貸し出しに応じて、本を一冊ずつバーコードで読み取っている。

「さっそくおったで」

 安藤はあごでカウンターに座る宮井を示した。

「あの男っすか」

 倉橋は野次馬根性丸出しで宮井に視線を向ける。

 映子も驚きで自然と宮井を注視していた。
 本の貸し出しが終わって、宮井が顔を上げた。

 すぐに自分に向けられる視線に気がついた。

「ほら行こうぜ」

 安藤は宮井の視線を避けるように顔を背けた。
 映子も慌てて倉橋の影に隠れたが向こうは気がついただろうか。

 宮井の瞳が映子を捕らえて見開いた。

 宮井には映子に苦い思いがあるはずだ。

 みどりばあさんの家で会って以来だ。

 文句のひとつも言いに、人目もはばからず追ってこられたらと恐れたが、宮井は大人しくカウンターに収まったままだ。

 安藤は一階、二階と書架の間を歩き、丁寧に蔵書の場所を教えてくれた。
 映子は宮井が気になって安藤の説明は何も頭に入ってこなかった。

「お待ちかね。次はサークルに案内したるわ」

 安藤に付いて図書館を出て、ようやく映子は大きな安堵のため息をついた。

「なに。疲れた?」

 安藤が気遣って映子の顔を覗き込む。その角度としぐさがあけみにキスをしていたときに似ていて映子はどきりとした。

「なんや顔赤いな」

 倉橋が指摘する。映子は手うちわで頬のほてりを扇いだ。

「ちょっとのぼせたみたい。わたしここで休憩させてもらいます。どうぞ行ってきてください。わたし待ってます」

 すり鉢状の広場の階段に腰掛けた。

 下の運動場では何人かの学生がスポーツに興じている。
 安藤のテニスサークルもここで活動しているらしく、下からこちらに手を振る数名の学生がいた。
 皆手にはラケットを握っている。

「じゃあ倉橋行こっか。みんなに紹介するわ」

 安藤に続いて倉橋もすり鉢状の階段を駆け下りていった。

 声は聞こえないが安藤が倉橋をサークルメンバーに紹介したようだ。
 倉橋が頭を下げ、貸してもらったラケットを手にプレーが始まった。

 色白で背も高くない倉橋だがテニスは上手かった。

 滑らかに身体が動き、ボールを追って足が軽やかに駆け出す。部活には入っていないし、スポーツは苦手なのかなと思い込んでいた。そうでもないようだ。

「へえ、上手いじゃないか彼」

 頭上から声をかけられた。

 ペットボトルを手にした宮井が、スーツのズボンが汚れるのも厭わずに、映子の隣に腰掛けてくる。持っていたボトルのお茶を映子に差し出す。

「毒は入ってないからご安心を」

 喉はひりつくように渇いていた。映子は遠慮せず受け取り、喉を鳴らしてお茶を胃に流し込んだ。

「君とは何かと縁があるようだね。まさかこんなところで再会することになるなんてね」

 宮井はスーツの胸ポケットからタバコを取り出し、ライターで火を点けた。

 煙をくゆらせる姿は以前の宮井とはかけ離れていた。折り目正しい好青年のイメージがタバコの煙でくすんでいる。

「タバコ吸うんですね」

「ああ、これ?」

 宮井は指に挟んだタバコを軽く揺すり灰を足元に落とした。

「最近ね。なかなかうまいよ。君もやってみるかい?」

 胸ポケットを指差す。映子が首を振ると

「だろうね」

 宮井は鼻から煙を吐き出した。

「祥子ちゃんは元気かい?」

「それ答える必要ありますか」

「そうとんがることもないだろう。ただの世間話だよ。あのぼろ家はあのままかい?」

「みどりばあさんの家のことですか」

「そうだよ。小汚いばあさんのいたあの家だよ。銀杏の木があって強烈に臭ったあの家だ」

 間違ったことは言っていないが宮井の口から出ると不快だ。

「あれ、気を悪くしたかな。僕は本当のことしか言わないよ」

「見た目はうそだらけですけどね」

「言うねえ」

 宮井は鼻で笑ってタバコを吸うのをやめると、かかとで火をもみ消した。

「僕はあれからあの家についていろいろ調べる機会があってね。その過程で君の弟さんのことも知った。君のふてぶてしさがどこから来るのか。その一端がわかったように思うよ。だけど君は知ってるのかい? 君がみどりばあさんと呼んで慕うあのばあさん、といってもまだ六十代だけどね。当時容疑者として取り調べを受けていたことを」

「それは、弟はあの家の先の水路で見つかったんです。当然みどりばあさんも事情を聞かれるでしょう」

「じゃあやっぱり君は知らないんだね」

 宮井は勿体をつけて含み笑いをした。

「なにがですか」

「弟さんの靴だよ。どこで見つかったか知らないのかい?」

 映子は知らなかった。靴。あのとき弟は靴を履いていただろうか。記憶を喚起しても思い出すのは泣き叫ぶ母の姿だけで弟の遺体は映像として浮かんでは来ない。

「本当に知らないようだね。弟さんの靴はね、あのぼろ家の中から見つかっているんだよ」

「え?」

 映子は息を飲み込んだ。

「弟の靴があの家から?」

 信じられなかった。そんな話は今まで聞いたことがない。もっとも当時はまだ五歳だったから聞いていても覚えていないのかもしれない。

「そこで君がみどりばあさんと慕うあの女性が取り調べの対象になったようだよ。最もあの女性はみどりばあさんなんて名前ではなくて、長谷川きよという名なんだけれどね。あのぼろ家は、もともとは畑道具をなおすための小屋だったのを、長谷川きよが気に入ってよく出入りしていたそうだよ。結局は証拠不十分で当時は自宅にいたとの複数の目撃証言もあり、きよは解放されたらしい。だけど疑問は残るよね。なぜ靴があの家にあったのか。頻繁に出入りしていたきよが、何も事情を知らないと言ったのは果たして真実なのか。おっと」

 映子は真っ青な顔をしていたのだろう。小刻みに震える両手に宮井は目をやった。

「それ、本当の話ですか」

「信じるかどうかは君次第。いろいろあったから僕のことはあまり信用してはいないだろうけど、そんなことで本当のことを見逃していいのかい」

「危ない!」

 下の運動場から突如鋭い声が向けられた。

 顔を向けた映子の目の前に白球が迫っていた。反射的に目をつむるのと、目の前で手の平がボールを捉える小気味いい音がするのが同時だった。

「危ねえな」

 恐る恐る目を開くと映子の眼前にボールを捉えた宮井の手があった。

「すんません!」

 広場から大学生と思しき男が駆け上がってくる。
 かぶった野球帽を取って一礼すると宮井からボールを受け取った。

「すんません。気をつけます」

 男は走って運動場に戻っていく。
 下を見ると安藤のテニスサークルから少し離れたところで、ランナーがホームベースに向けて走っていく姿が見える。

 映子は安堵の息をついて顔を空に向けて目を閉じた。

 その目を閉じた一瞬に、何かが唇に触れるのを感じた。

 驚いて目を開けると宮井の顔がすぐそばにあった。

 何が起こったかわからず、映子は呆然と目を見開いた。

 宮井はゆっくりとした動作で重なった唇を離すと何事もなかったかのように再びスーツの胸ポケットからタバコを取り出した。

「少しかわいくなったね。ちょっとキスしてみたくなるくらいにはね、映子ちゃん」

 映子は思い切り眉をしかめた。

「もしかしてファーストキスだったりして。だったら少しは僕の胸もすくというもんだよ」

「彼女、いるんじゃないんですか」

「よく知ってるね」

「高校の先輩の元彼女ですから」

「へぇ」

 宮井はさして関心のない様子で鼻から煙を吐き出した。



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