目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――平成六年

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 藤井に礼を言って販売所を出ると宮井は再び車を走らせた。

 今度は川沿いを離れて住宅街の奥へと入っていく。

 結局藤井から聞けたのは、弟の死亡推定時刻である四時にきよが家にいたということ以外何もなく、それさえ確固としたきよのアリバイにはならないというあいまいなことがわかっただけだった。 

 一体宮井は藤井の話を映子に聞かせてどうしたいのだろうか。

 きよが犯人の可能性を示唆する証拠というのがこれならば首をひねらざるを得ない。

 確固としたアリバイではないが犯行を証明するには無理がある。

「腹ごしらえしようか」

 宮井は言って右手に見えたコンビニに車を乗り入れた。

「おい」

 保も得心がいかない様子で宮井を呼び止めた。
 先に車を降りていた宮井は「いいからいいから」とやけに上機嫌で先に店内へ入っていく。ちょうどお昼の時間だった。

「車で食べれるもの適当に選んで」

 宮井は言って、自分は幕の内弁当を手に取った。

 映子は保と顔を見合わせた。

 宮井の真意をはかりかねつつも他にどうすることもできない。

 言われるままに映子はおにぎりを、保はパンとジュースを選んだ。

 宮井は再度車を走らせた。
 
 一旦先ほどの川沿いの道に戻り、しばらく元来た道を走り、国道に出ると西へ進路を取った。

 十分も走らせないほどだったろう。

 宮井は公園の横に車を停めた。

 ちょうど大きな木が覆いかぶさり影を作っている場所だ。宮井はサイドブレーキを引くとエンジンを止めた。

「公園の向こうに茶色の屋根の二階建てがあるだろう」

 宮井は公園のその先に並ぶ家の一軒を指差した。宮井の言うとおり灰色の屋根の並ぶ中に一軒だけ茶色の屋根ののった家がある。三十坪ほどのごく普通の二階建ての家だ。

「あの家を見ながらお昼としよう」

 宮井は言って買ってきた幕の内を美味そうに食べ始めた。

「みどりばあさんのとこに行くんじゃないのかよ」

 保はそう言って宮井を問い詰めたが宮井はどこ吹く風だ。

 視線を公園の向こうの家に固定したまま幕の内弁当を平らげていく。

 静かな車内に宮井が食べ物を咀嚼し、嚥下する音だけが響いた。

「外で食べる」

 同じ車内で食べ物を口にする気が起こらなかった。

 宮井は止めるでもなく、映子が車外へ出て行くのを黙って見ている。

 保も映子の後を追って外へ出てきた。

 公園を入ってすぐ左手、すべり台の横にあるベンチに映子は保と並んで腰掛けた。

 春の暖かな日差しが降り注いでいる。
 ちょうどお昼時だからなのか公園には他に人はいなかった。

 砂場には誰かが置き忘れたのだろう。
 赤い小さなスコップと黄色のバケツが転がっている。すずめが頭上で鳴いている。

 他にすることもないので映子はおにぎりの封を開けてそれを食べ始めた。
 保もジュースを啜ってパンにかぶりついた。

 車に背を向ける形で座っているので、目の前には宮井が見ていろと言った家が真正面だ。
 時折スーパーの袋を提げた主婦が通るくらいで他に人通りはない。

 調達したお昼をもうほとんど食べ終わりかけた頃だ。

 右手の方向から一台の軽ワゴン車が走ってきた。

 それを目で追っていると茶色の屋根の家の前で停まった。

 辺りは静かだったのでサイドブレーキを引く音までが映子と保の耳に飛び込んだ。

 車が停車するとほぼ同時に茶色の屋根の家の玄関が開いた。
 中から出てきた人物がみどりばあさんだと気づいて映子は思わず立ち上がった。

「あれってみどりばあさんやん」

 保も気がついて頬張っていたパンを慌てて袋に突っ込んだ。

「おい映子。みどりばあさんとこ行こうぜ」

 保は映子の腕を引いて走り出した。
 映子は保に引っ張られるままに足を動かした。途中何度も足がもつれた。

 きよは家の駐車場の柵を開けようとしていた。

 今しがた帰ってきた車の運転手がそのまま駐車場に停められるように、門を開けに出てきたようだ。ガラガラガラと門扉を動かす音が静かな住宅街に響いた。

 その音は映子と保の足音をかき消した。

 停車している車の前まで走り出たところでようやくきよが映子と保の存在に気がついた。
 駐車場に入ろうとしていた車も急に飛び出してきた映子と保に反応して動きを止めた。

 きよは極限まで大きく目を見開いて驚いた声を上げた。

「映子やないか」

 きよに名前を呼ばれたのは初めてだった。
 以前聞かれて一度だけ告げた名前をきよはちゃんと覚えていたようだ。

「そっちのあんたも見たことあるな。何や、こんなとこまで。何の用や」

 きよはぎろりと鋭い視線を送って寄越した。

 聞きたいことは決まっているのにいざ本人を目の前にすると映子の口は固まったように開かなかった。

 保が映子の袖を引いた。

「さっきの新聞配達の藤井さんやで」

 え?と思って軽ワゴンの運転席を見るとこちらを見たまま微動だにしない藤井がハンドルを握っていた。
 映子も保も何度かきよと藤井の顔とを往復して視線を走らせた。よく事態が飲み込めなかった。

「藤井さんときよさんはね、一緒に暮らしてるんだよ」

 いつの間にか側まで来ていた宮井が映子の耳元で囁いた。

「どういう意味があるかわかるかい?」

 宮井の声音はこの上なく意地の悪い響きを含んでいた。
 運転席の藤井は一度天を仰いで、息を吐くと車から出てきた。

 きよはまだ事態が飲み込めない様子で眉間に皺を寄せて映子、保、宮井と順に見ていき、藤井に問いかけるような目線を向けた。藤井は左手で顔を覆ってうなだれた。

「宮井さんは知っていたんか」

「もちろん、知っていましたよ」

 宮井はうなだれる藤井を面白そうに見遣る。

「元々はきよさんのお宅を突き止めたのが最初でしたから。家を見張っていたら藤井さん、あなたが一緒に暮らしておられることもわかりました。後をつけて新聞の販売所を経営しておられることもわかりました。偶然を装って昔水路で亡くなった男児のことを知っているかと尋ねたら、あなたの答えには驚きましたよ。まさかあなたがきよさんのことを証言した方だったとはね。あなたはさも他人のようにきよさんのことを話しましたよね。長谷川家の奥さんと。本当は一緒に暮らしているのに」

「この人を責めたかてあかんで」

 きよが宮井に詰め寄った。宮井の話に事態を把握したらしい。

「あの頃はほんまに私は長谷川の奥さんやったし、この人はただの新聞配達人やったんや。何も隠さなならんことなんかないんや」

「それでも当時からお二人のことは近所の方も怪しんでおられましたよ。新聞配達の度に、お洒落して出てくるきよさんのことは、当時近所では有名な話やったそうですね。長谷川の旦那さんとは不仲で、数年前に亡くなられたんですよね。姑も小姑も亡くなって、自由になったあなたは、元の家を売って、藤井さんとこの家を借りられた。一緒に暮らすために。藤井さん、あなたはきよさんをかばって証言されたんじゃないんですか。あの日、四時に、きよさんが新聞を受け取られたなんて、うそだったんじゃありませんか」

「だからどうやっていうんや」

 藤井が声を荒げた。

「もう何年も前のことを今更持ち出して。人を騙すように近づいて。おまえはなんやねん。あれは事故やったんやろ。警察もそう判断した。それが全てや」

「あーあ」

 宮井は映子の肩に両手を載せた。

「この人、証言がうそだったって今認めたんじゃないの? そういう風に聞こえたよね。ね、映子」

「もうやめんかい」

 きよが一喝した。

「ここでは近所迷惑や。家入り」

 きよは先に立って家に入っていく。

「映子、大丈夫か?」
 
 保が能面のように表情がない映子の顔を覗き込んだ。



 きよの家はこざっぱりとして物が少ない家だった。

 リビングの家具はテーブルとテレビとテレビ台、小さな食器棚に小さな冷蔵庫。それだけだ。
 フローリングの床と電化製品は、みどりばあさんに似つかわしくないなと映子はぼんやりとした頭で考えた。

「茶は出さへんで」

 きよは言ってさっさとリビングの椅子に腰掛けた。

「あんたのこと今思い出したわ。映子に暴力ふるっとったあのときの男やろ」

 きよは前に座った宮井に目を留めた。

「なんやねん、暴力って」

 保がかっとなって宮井に食って掛かる。

「思い出して頂けて光栄です。あのときはさんざんお世話になりました」

 宮井が皮肉を言うときよは鼻で笑った。

「映子、あんたこんなやつと一緒に何をしてるんや。こんなやつと一緒におったらろくなことないで」

「ろくでもないことはわかってるんですけど、わたしにも確かめたいことがあったんで」

 映子にしては冷めた声色だった。

 宮井はなぜか嬉しそうにそんな映子を見た。

「藤井さんの証言がうそだったというのは本当ですか」

 問いかけながらも不思議と心は凪ぎのように静かだった。

 小学生の頃の大声を出した爽快さや外界を全て遮断するあの空間が満たしてくれた心地よさが、凪いだ水面に抑えられて奥深くへ沈んでいくような感覚があった。

「藤井のことを責めるんは、お門違いや」

 当の藤井はまだ駐車場から戻ってきていない。
 何度か切り返しをしているのか車のエンジン音が聞こえてくる。

「ご存知だったかもしれませんが、わたしは水路で亡くなった子の姉なんです。父も母もあれは事故だったと信じています。わたしもそう信じたいです」

「知っとる」
 
 きよは短く答えた。

「やっぱり茶でも淹れるか」

 きよは立ってお湯を沸かし始めた。
 宮井が映子の耳元で囁いた。

「僕は約束を果たした。今度は君の番だよ」

 良心を捨てろ。きよを責めろと宮井は更に耳打ちした。

「ほれ、毒は入っとらん」

 きよは映子、保、宮井の前に茶托にのった椀を並べた。 
 ちょうど戻ってきた藤井にも差し出す。

「えらい怖い顔しとるぞ、映子」

 きよは茶を啜った。

「私を責めるつもりで来たんかもしれんけど、あんたら見当違いもええとこやで。確かに、藤井の証言はうそや。ついでに言えば、私が家にいたと言った姑と小姑の証言もうそや。それは認める」

「じゃあやっぱり」

 宮井が逸るのへ、

「まあ最後まで聞きなはれ。証言はうそやけど、ほんまにあの日は小屋には行ってない。藤井さんとこにおったんや」

「え?」

 保が声を上げた。

「どういうことやねん」

「そやから小屋には行ってない。家にもおらんかった。藤井さんとおったいうことや。姑と小姑が揃ってうその証言をしたんは、ひとえに外聞のためや。主人も他に女がおったし、私のことも黙認しとった。でも姑と小姑は、さすがに警察に公にして恥をさらすのはできん言うて、口裏合わせたらしいわ。藤井さんには私からお願いしたんや。だからこの男が疑ってるようなことは何もしてない。映子の弟にも会ってない。それが全てや」

「はっ」
 宮井が鼻でせせら笑った。

「そんな言い訳通用するとでも思っているのか」

「そやけどうそはついてない。信じてもらうよりほか仕方ないな」

「昔にうそをついた人間をそう安々と信じられるものでもない」

「それは昔と状況が変わったからや。藤井さんとのことはもう隠す必要がなくなったんや」

「自分のためにうそをついて許されるとでも思っているのか」

「そうやな。それはすまんかった」

 きよはちょこんと頭を下げた。

 まるで人を馬鹿にしたような態度に、宮井は一人熱くなっている。昔尻を叩かれた恨みはまだ根強く残っているのだろう。なんとしてもきよをやり込めたいと闘争心がむき出しだ。

 きよを責めろと発破をかけておいて、本人が一番きよを責め立てている。

 宮井の姿を見ていると、凪いでいた映子の心がまたざわりと動き出すのを感じた。

 きよの態度にはいつもうそがなかった。

 気に入らないものは気に入らないとはっきり口にしたし、人を責めるのをためらったりはしなかった。きよが今、映子に対してうそを言っているとはどうしても思えなかった。

 対して宮井はただ昔のことを根に持って、きよを責めたいだけで、映子の弟の死の真相を知りたいからではない。
 利己的で人を傷つけることを厭わない宮井が、本当に映子の苦しみを理解しているとは思えない。

 急速に回転し始めた映子の頭が、遣り合うきよと宮井を分析していた。

「おい、映子。大丈夫か?」

 隣りに座った保がそっと映子の手を握った。

 映子はそれを握り返した。

 しっかりと握り返した映子の手の感触に保は安心したように息をついた。

「もう帰ろう。保」

 映子は保の手を取ったまま立ち上がった。

 宮井が驚いてそれを遮った。

「約束が違うよ、映子。君はまだ何一つきよを責めてない」

「そんなこと言ったって」

 映子は宮井に向き直った。

「みどりばあさんを責める理由がない。宮井さんはきっとわたしがみどりばあさんを責めたくなるって言ってたけどそうはならんかった。証拠と言ったってみどりばあさんが弟を殺した証拠じゃなかった。責めるには不十分な証拠でしかない。宮井さんの約束を守るのは無理な話やわ」

「この!」

 宮井が瞬間的に激するのがわかった。
 手を振り上げた宮井に反射的に映子は目を閉じた。

 その映子の耳に、誰かが宮井の腕の肉を掴む鈍い音が聞こえた。
 目を開けると映子のすぐ目の前で宮井の腕を掴んだ保が立ちふさがっていた。

「いい加減にしろや宮井」

 保が掴んだ宮井の腕を振り下ろしざま払った。
 よほど強い力で握っていたのだろう。

 保に握られていた宮井の腕が赤く色づいている。宮井は大げさに腕をさすった。

「おー痛。こんなに腫れてどうしてくれるんだい」

「あんたも相変わらずしょーもないことしとるみたいやな」

 きよが宮井をぎろりと睨む。

「私が昔した折檻はきいとらんようやな。どうれ。続きをしてほしいんやったらいつでもしたるで」

 きよはどこから取り出したのか一本の棒を手にしていた。過日のように宮井の喉の奥が鳴るのを映子は聞いた。


 もう思い返すまい。

 きよが過日のように棒を振り上げるのを横目に見ながら映子はそう誓った。

 これ以上はもう何も明らかにはならないだろう。

 時も経ち過ぎている。

 掘り返してみたところで、きよのうそが明らかになっただけで、京介のことは何一つわからなかった。

 父が京介の死を受け入れたように、母が立ち直ったように、映子はこれからはもっと先を見据えて生きていこう。

 みどりばあさんごっこは、もうやめだ。

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