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本編

行き倒れてた奴隷が好みドストライクだったので持ち帰ってみた

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彼と出会ったのは、とある雨の日だった。

女王陛下のお膝元、どんな人間でも受け入れる大都市カレドア。そこで一人ひっそりと、平凡に生きていた俺はいつも通りに仕事を終えて、自宅への帰路を辿っていた。
俺が歩いているのは大きめの通りで、昼間は治安もそこまで悪くない。けれども、この辺りは貧困層が暮らす区画や繁華街が近く、いまだ整備されていない路地がたくさんある。一歩路地へと入ればそこは暗闇。そこで何が起こったとしても朝まで気付かれることはないだろう。正直、深夜のこの時間帯は大通り自体も人通りが少ないので、大の男であっても出歩くのは少し怖いというのが本音ではある。勿論、そんなことを言っていては仕事ができず食い扶持がなくなってしまうけれど。

そんな風に思いつつ今日も深夜の通りを歩く。特に変わり映えはしない、ただ雨が降っているだけの夜の大通り。
ふと、視界の端で何かが動いた気がした。

「……?」

立ち止まって数歩、引き返してみる。雨で視界が悪いが、毎日通っているだけに違和感の正体に気付くのにそれほど時間は要さなかった。
通りに面した小さくて暗い路地、そこに何か……大きなゴミのようなものが落ちている。
いや、ゴミではない。ボロボロの布切れの隙間から、細い腕が覗いている。よく見るとそれは人だった。
そして、俺の見間違いでなければそれが先程僅かに動いたのだ。生きている。これ、生きた人間だ……。
そこまで認識したところで俺はどうするべきか迷った。助ける? でも助けたところで、彼がタチの悪い酔っ払いだったら? 俺のような人間を狙った強盗だったら?
そんな考えが脳裏によぎらなかったわけではない。しかし俺は、気付けばその人影に向かって声をかけていた。

「あ、あの、大丈夫……ですか?」

返事はない。返事どころかピクリとも動かない。もう少し近付いて再度呼びかけてみるが、結果は同じだった。
どうしよう。何の反応もないところを見ると、完全に意識がないみたいだ。この雨の中、こんな格好で放置されていたらもしかしたら無事では済まないかもしれない。

「す、すみません……あの……」

そっと近付いて軽く肩を叩いてみる。反応はない。
触れた衣服の一部に血が滲んでいることに気付いた。まずい、この人怪我してる。まだ血が渇ききっていないので、ごくごく最近に負った傷だろうということが伺えた。
既に死んでいる? いやさっき確かに、僅かだが動いたはずだ。まだ生きている。
意識が戻るかもしれないと、俺は倒れている人の身体をそっと起こした。そして頬を叩こうとその人の顔を見た瞬間、思わず固まってしまった。

ものすごい美形だった。

女性のように睫毛が長く綺麗だったが、それでも見る限り男性である。ガリガリに痩せ細っているが身体も大きめで、おそらく立てば俺よりも背が高いだろう。そして血や土や埃で汚れてボロボロであるにも関わらず、一目見た瞬間息を呑んでしまうほどに顔の造作が整っている。俳優かモデルだと言われてもすんなり納得できてしまうような。どうしてこんなにも綺麗な人が、怪我をしてこんな所で倒れているんだろう……?
数秒ほど思考停止したのち、我に返った。ともかくこのままでは本当に死んでしまう。
この時間では病院も開いていない。俺は気付けば雨で濡れるのにも構わず、彼の身体を背負って自宅に運んでいた。



✦✦✦

- side ??? -



徐々に徐々に、ゆっくりと意識が浮上する。
なんだか悪夢を見ていたような気がしたが、何も思い出せなかった。
最初に認識したのは見知らぬ木製の天井。そして次に認識したのが足の痛み。
ここはどこだ。これまでの経緯を必死に思い出そうとするが、頭がくらくらして上手く思考が回らない。

「あっ……ええと、身体はどう?」

カチャ、とドアの開く音がして、そこから一人の男が入ってきた。
歳の頃はおそらく10代後半から20代前半くらいだろう。癖のない金髪と、モスグリーンの瞳。特段美形ではないものの不細工というわけでもなく、平凡と言えばそれまでだが、人好きのしそうな不思議な雰囲気があった。

「……」

声を出そうとするものの、喉につかえて言葉が出ない。自分はどのくらいの間寝ていたのだろうか。身体が思うように動かない。
返事ができないので、横になったまま男のほうへそっと視線を向けてみる。自分が小さな部屋のベッドの上に寝ていることがわかった。こちらが何も返事ができないでいると、彼は「無理に喋らなくてもいいよ」と言いながらベッドの傍にある椅子に座った。

「五日前、きみが路地裏で倒れてたとこを俺が見つけた。足、怪我してて……そのままほっといたら死にそうだったから、俺んちに運んだんだ。覚えてる?」

首を横に振る。

「そっか。……あ、足の怪我だけど、まだ完治してないからしばらくは安静にしててね。一応医者にも見てもらった。たぶん銃弾が掠ったんじゃないかって。処置もしたから治れば普通に歩けるようになると思う」

足の怪我、と聞いてまた思い出したように傷が痛み出す。右脚がじくじくと痛んで、熱を持っているような感覚があった。
だんだんと思い出してきた。追手から必死に逃げて、足を撃たれて、それでも捕まるわけにはいかず痛みに耐えながら何とか走って———

「……あ」

声が出た。
そして自分が……僕がなぜ怪我をして行き倒れていたのか、完全に思い出す。

僕は奴隷だ。
幼い頃に奴隷商人へ売られて、それからずっと数多の貴族の元を転々としてきた。大概は肉体労働だったが、時にはストレス発散のサンドバッグにされたり、それなりの年齢になれば性欲処理に使われたり、とにかく色んな事をさせられた。
そしてこの年齢になるまで(といっても自分が正確には何歳なのか曖昧ではあるが)奴隷として生きてきたが、ある日僕は仕えている屋敷の人間の怒りを買ってしまった。その家の主人の息子は僕をストレス発散の“オモチャ”として大変気に入っており、殴ったり刃物で傷をつけたり時には犯したり、様々な方法で僕を使っていた。
その日も何か気に食わないことがあったようで、彼は僕を屋敷の裏庭の一角にある物置小屋……所詮『いつもの場所』に呼びつけたのだが、普段と違ったのは、その手に拳銃が握られていたことだった。
彼は僕の眉間に銃を当て、撃ち殺そうとした。それまではどんな暴行にも耐えてきたが、この時ばかりは反射的に抵抗してしまった。相当に虫の居所が悪かったのだろう。一応僕でも労働力として多少の利用価値はあったから、今まではどんな扱いをしても僕を殺すようなことはしなかった。もしかしたらその日も本当に殺すつもりはなくて、ただ銃をちらつかせて怯える奴隷を見て悦に浸りたかっただけだったのかもしれない。ただ、僕が初めて抵抗する素振りを見せたことが、彼の逆鱗に触れてしまった。

銃声が響き渡る。その弾は幸い外れたものの、明確な殺意を感じて身震いがした。
思わず後退りした僕に、銃を持った彼が近付いてくる。銃声を聞いて何事かと他の使用人も集まってきて、その使用人たちへと彼の気が一瞬だけ逸れたのをいいことに、僕は踵を返して逃げ出した。
本当に殺されると思った。
奴隷になってからろくでもない人生を送ってきて、もういつ死んでも構わない、と思っていたのに、いざ死を目の前にすると僕の身体は逃げ出すことを選択していた。まだ死にたくない、と本能が訴えていた。ここで逃げたところですぐに捕まって殺されるだろう。でも、大人しくしていたところで結局殺される。
また銃声が聞こえた。一瞬遅れて足に鋭い痛みが走る。叫び出したいくらい痛かったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。逃げたい。最期くらい、死ぬ時くらいは逃げることを許してほしい。

屋敷の裏手から外に出て、足の痛みなど無視してがむしゃらに走った。追いつこうと思えばそれは容易かっただろうに、屋敷の敷地から出てしばらくすると、相手は追いかけてこなくなった。それでも走るのをやめなかった。僕が気付いていないだけでまだ追いかけられているかもしれない。銃で狙われているかもしれない。そう思うと、あまりにも恐ろしくて僕は走り続けることしかできなかった。



✦✦✦



「———それからの事はよく覚えてないけど、知らない場所をずっと走って……最終的に、あの場所で行き倒れてたんだと思う」

あれから更に数日療養してある程度体力を回復させた彼は、俺に事のあらましを一通り話してくれた。

「……そっか。その、大変だったんだな……。奴隷売買は十年前に禁止されたけど、それでも一部の貴族はまだ裏で取引してる奴もいるって聞くし……」

奴隷とはまた、想像以上に壮絶な話だ。
俺にはそんな経験はないし、理解できることは一生ないかもしれない。ただ、平和な社会の裏側には、いまだにそういう人たちがいるのが事実で。
どう言葉をかけていいか悩んだのち、俺は半分独り言のように呟くことしかできなかった。そしてとりあえず、次に聞こうと思っていた問いを彼に投げかける。

「あのさ、きみ、帰るところとかある? 地名とか、家族の名前とか、もし分かれば家に帰してあげることは不可能じゃないと思う」

彼は首を横に振った。
そもそも奴隷になる人間は家族から売り飛ばされたか身寄りがないことが殆どなので、その答えは予想していた。

「そうか。その……もし君が良かったらなんだけど、このまましばらくこの家で暮らさない? 事情を聞く限り追手が来る可能性は低いと思うけど、万が一の場合もあるし。足の怪我も心配だしさ」

追手から匿うため。足の怪我の療養のため。
どちらも本当で嘘だ。建前だった。
貴族は世間体を異様に気にする人間が多い、というのは俺が見た限りでの感覚だが、あながち間違いでもないと思う。だから奴隷が一人逃げたところでわざわざ探したりはしないだろう。
そもそも今は奴隷売買は違法だ。血眼になって探したところで、警察に噂程度ですら情報が漏れてしまったら損をするのは圧倒的に相手のほうである。そんなリスクを犯してまで一人の奴隷に固執はしないだろう……多分。
本音は……彼のことがもっと知りたいと思ったから。このまま警察に通報して、彼には然るべき保護施設へ行ってもらうべきなのだと理性ではわかっている。でも、あと少しだけ。

「……なんでそこまで?」
「君ともっと話してみたいし、君のことをもっと知りたいと思ったから。それに俺、見ての通り一人きりだからさ。怪我が治るまでの間でいい。少しの間でも君がいてくれたら、俺はすごく嬉しいなって」

恐る恐る彼の顔を見てみるが、表情からはその感情が読み取れない。俺が拾ってきてからの数日間、彼はほとんど臥せっていて会話などままならなかったし、そもそもお互いにまだ名前すら知らない関係だ。
彼はしばし黙って考えていたようだったが、やがて顔を上げて俺の提案を受け入れてくれた。

「わかった。君がそれで構わないなら、しばらくここに置いてほしい」
「……っ」

真っ直ぐ俺を射抜く彼の瞳に、静かだが不思議と通るその声に、うっかり落ちそうになる。
臥せっている時は本当に死ぬんじゃないかと心配でそれどころではなかったが、改めて見ると彼の容姿は非常に整っている。蜂蜜色の瞳。細く柔らかそうなミルクティーカラーの髪。奴隷として長らく肉体労働をしていたわりには肌も白く、全体的に色素が薄めで儚い印象を感じる。長いこと劣悪な生活環境にいたんだろう、髪はパサついているし肌もガサガサに荒れている。が、これを整えたら一体どれだけのものになってしまうんだろう……考えるだけで末恐ろしい。

……正直めちゃくちゃ好みドストライクだ。
薄々お気付きかと思うが俺はゲイだ。恋愛対象は男性だし、昔から目を惹かれるのも女性より男性である事の方が多かった。
つまり口では聖人のような提案をしておいて内心では下心バリバリだったわけだ。本当に俺って卑怯なやつ。
いや、先に言っておくけど、彼を引き留めたからといってそれで俺がどうこうなりたいわけじゃない。断じてそんなつもりはない。彼には彼の人生があるし、せっかく奴隷生活から抜け出せたんだ、彼の未来を俺の身勝手で振り回してはいけない。
本当に、ただもう少しだけ彼と関わっていたいだけ。絶対に手は出さない、と自分に言い聞かせるように心の中で何度も繰り返す。

「そういえば自己紹介がまだだったな。俺はラビ。改めてよろしく」
「名前……アルって呼んでほしい。助けてくれてありがとう……」

アル。名前を聞けただけでもこんなに胸が躍るなんて久しぶりだ。
こうして俺とアルの同居生活が始まった。



✦✦✦



俺が半ば強引に引き留めたことにより始まった同居生活だったが、今のところはそれなりに上手くいっていると思う。
といっても、あくまで俺的には、だが。

アルの怪我は順調に回復していった。まだ包帯は取れないものの、家の中を歩き回るくらいは問題なくできるようになったので経過良好と言える。というかアルの回復力は結構すごい。アルは自分の家族に対しては何の感情もないらしい(というか嫌いっぽい)が、「頑丈に生んでくれたことだけは感謝してる」と言っていたから、実際丈夫なほうなんだと思う。そして、こうしてアルについて少しずつ知れることが、俺にとって何より嬉しい。

一緒に暮らすようになってわかったことが色々ある。
まず、アルは読み書きができない。学校に通った経験もないらしい。貧困層では珍しくないことだし俺は何も思わなかったけど、アルは気にしているらしく、できれば今後のために読み書きを覚えたいと言った。
俺はというと一応学校には通っていたことがあるので、読み書きはできる。何か力になれればと、図書館で子供向けの絵本を借りてきてアルに読み聞かせてみることにした。子供向けの本をチョイスしたのは、文字が大きくて読みやすく難しい言葉も出てこない、挿絵も入っていてわかりやすいし、読み書きができなくても面白いかなと思ったからだ。絵本を音読するのはなかなかに気恥ずかしかったが、いきなり本だけを渡してもきっと読むのに苦労するだろう……ということで不本意ながら俺が読み上げている。これで読み書きの勉強になっているのかはいまいちわからないが、アルは少なからず興味を持ってくれているっぽいのでとりあえずは良しとしている。
それと、アルは自発的に何かをするのは苦手なようだ。食事も睡眠も、俺の許可が出るまでは絶対にしようとしない。幼い頃から奴隷として生きてきたわけだから、こればかりは仕方のないことだと思っている。いずれは治せたらいいと思うが、今はまだ無理強いはしないようにしている。
俺はアルのことをお金で買ったわけじゃないから、アルの主人というわけでもない。ただ勝手に拾ってきて勝手に引き留めただけだ。できればアルとは友人のような関係になれたら……なんて淡い期待も抱いてしまうが、アルからすれば俺は一時的な止まり木にすぎない。アルが俺のことをどう思っているのかはわからないけど、俺と友人になるだなんて今は考えもしていないだろうと思う。

ちらりと横目でアルを見やる。キッチンに立ったことがないらしいアルだが、結構器用なようで調理器具の使い方を教えたらすぐに覚えてしまった。今は仕事から帰った俺のために紅茶を淹れてくれているが、この紅茶もなかなかに美味しい。
それにしても。

本っっっっ当に顔が好みすぎる。どんな表情をしても、どんな角度から見ても何もかもが完璧すぎて溜息が出そうだ。
すらりと背が高くて、173㎝ある俺が見上げるほど。手足も長くて、でも顔は小さくて、めちゃくちゃスタイルがいいと思うし顔面偏差値に関しては言わずもがな。うちに来た当初は栄養失調で骨と皮しかないんじゃないかってくらい痩せ細っていたけど、ちゃんと食事を摂らせて養生させたのが功を奏し、最近は少しずつ健康的な肉付きになってきた。パサついていた髪も、シャワーを浴びて櫛を通したら細くて柔らかい猫っ毛でたいへん魅力的だった。
どこをとっても俺の好みドストレート、しかも日を追うごとにどんどん良い男になっていくから困る。まだ家の外には出たことがないけど、もし街を歩いたら十人中十人の女性が振り返るんじゃないだろうか。
ただ、アル本人は自分の顔を見られることが好きではないらしい。これほど整っているのに勿体ないと俺は思うが、逆に頭一つ抜けた美形だからこそ、奴隷時代には嫌な事もあったんじゃないかと思う。だから俺もじろじろと顔ばかり見るようなことはしないようにしている。

「はぁ……好き……」
「? ラビは紅茶が好きなんだ。覚えておくね」

いや、紅茶も好きだけど君のほうがもっともっと好きです。
手は出さないって最初に決めていたのに、この短期間で俺はまんまとアルに落ちてしまっていた。今思えば、最初から落ちていたのかもしれないけど……。
そりゃあ、最初は顔が好みってだけだった。だけど一緒に暮らしていく中で彼のことを知れば知るほど、彼の容姿以外の部分もどんどん好きになっていった。こうして俺のために紅茶を淹れてくれる優しいところ。俺の好きなものを覚えようとしてくれるところ。俺が出した食事を警戒せず食べてくれるようになったことも、自分のことを少しずつ話してくれるようになったことも。
ただ絆されてくれているだけかもしれない。でも、俺にとっては何もかもが嬉しい。

重ね重ね言うが、絶対に手は出さない。
アルだったらこの先もっと相応しい人に出会えるし、結婚して家庭を持って幸せになることだって出来ると思う。仕事だって、少し読み書きを覚えれば当てはいくらでもある。真っ当に生きていくことが出来るはずだ。
だからこそ、俺みたいなはぐれ者とずっと一緒にいる意味などないと思う。この気持ちは絶対に告げない。怪我が治るまでの間、彼のそばにいて同じ時間を過ごせればそれで充分だ。
好きな人に告白する勇気すらない俺は、もちろん恋人なんていたことがない。好きな人を遠くから見つめるだけで精一杯で、その人が別の人と幸せになっていく姿を見ては一人で泣いて……を繰り返してきた。我ながらヘタレだと思う。
だけど、俺みたいな平凡な容姿のゲイに告白されても相手を困らせるだけだとわかりきっているから。困らせるだけだったらまだマシだが、嫌われたり気持ち悪いと思われたりするのは本当にきついものだ。

アルに嫌われたくは……ないよなぁ、うん。
困っていそうな時にすぐに手を差し伸べられる、くらいの関係性でいたい。あとは目の保養にしたり……。そのくらいの、友人としての距離感が一番当たり障りがなくて良いんだってわかってはいる。わかってはいるけど、アルが俺に心を開けば開くほど俺は勘違いしそうになるから困りものだった。



✦✦✦



大変まずいことになった。

「アル! その、ずっと黙ってたことは謝るから」
「だったら僕の言うこと、聞き入れてくれる?」
「いや、それは……」

アルと同居生活を始めてから早いもので一ヶ月。
足の怪我はほぼ完治しており、アルは出て行こうと思えばいつでも出て行けるわけだが俺が何やかんやと理由をつけて引き延ばしている。仕事を探して社会復帰するなら読み書きは覚えていった方がいいよ、とか何とか言って……あぁ、俺って卑怯。

そういうわけでアルは現在も俺の家に留まってくれているのだが、一ヶ月寝食を共にした結果、彼はとある事実に気付いてしまったらしい。
そう、この家にはベッドが一つしか存在しないということに。
それはそうだ。元々この家は俺の一人暮らしだったし、アルが来てから新しく買った物といえば衣服やカトラリー程度。小さな物はなんとかなるが、家具は大きいし値段もそれなりに張る。新しくベッドを買うお金も、置けるだけのスペースもなかったんだ。
そもそもアルがうちに来たのも突然のことだったしな……。

つまりどういうことか?
そう、今までアルが寝ていたのはもともと俺のベッドだったということだ。
というか、今アルが使っている部屋自体がもともと俺の寝室だ。わざわざ模様替えをするのも面倒なので、流れでそのままアルの自室として使ってもらっていた。とはいえアルはそのことを知らなかったので、自分が来てから俺が書斎(とは名ばかりのほぼ物置部屋)のソファで毎日寝ていたと知って、酷くショックを受けたようだった。

「今日から僕がソファで寝るから、ラビはベッドを使ってほしい」

アルのこの申し出に俺は否を唱えた。怪我人を差し置いてベッドで寝られるわけがない。怪我が治ったって、今までの環境を考えるとまだまだ心身共に休養が必要だと思うし……何より俺がアルをソファでなんて寝かせられない。国宝級の美形(俺判定)だぞ。丁重に扱わなければ。

「俺はいいんだよ。どうせどこでも寝れるんだから!」
「それを言ったら僕だってどこでも寝れる。ラビは仕事もしてるのに、ソファじゃ疲れが取れないでしょ」
「大丈夫、あのソファ結構寝心地いいし」
「でも、居候が家主を差し置いてベッドを使うのはおかしい」
「それを言ったらベッドを使うのは怪我人が最優先だと思う!」

お互いにベッドの譲り合い。譲り合っているのに、どちらも譲らないという変な状況だ。
そして応酬を繰り返しているうちに、ふと「あれ、これって喧嘩してる……?」ということに気付いた。アルと喧嘩できるまでになったのか、俺は。
これまで特別親しい人間などいなかった俺にとって、喧嘩できるほどアルと打ち解けられたという事実だけでも嬉しくて、つい気持ちが高揚してしまう。普通は喧嘩して喜んでいるのはおかしいことなんだけど。

「なに笑ってるの」
「あ、いや……アルと口喧嘩できるくらい仲良くなれたんだと思ったら、なんか嬉しくなっちゃって」

俺の言葉にアルはきょとんと毒気を抜かれたような表情になった。
うわ、かわいい……。そんな顔初めて見たかもしれない。超のつく美形なのに可愛い表情もできるとか、反則だ……。

「喧嘩って、仲が良くてもするものなの?」

俺の言っていることがよくわからないようで、アルは訝しげにそう聞いてくる。もしかしたら彼も、今まで近しい人間と喧嘩などしたことがなかったのかもしれない。

「うーん……俺もよくわからないけどさ。少なくとも俺は、どうでもいい相手とベッドを使うかどうかで言い争ったりしないよ。喧嘩するほど仲が良いって言葉もあるくらいだし」
「そう……。そう、なんだ」

俺の返答に、アルは俯いてぶつぶつと何かを呟いていた。何か嫌な事を言ってしまったのだろうかと俺がおろおろしていると、アルは顔を上げて高らかに宣言した。

「でも僕は、ラビにベッドを使ってほしい」

うわ、その話に戻っちゃったか……。



✦✦✦



「アルって意外と頑固なとこあるよな」
「何か言った?」
「いや、何でもない……」

結局どうなったかというと。
俺がどう言ってもアルが主張を曲げることはなかったが、かく言う俺も譲れなかった。
そして、このままでは埒があかないとお互いに判断した結果、俺は今なぜかアルとベッドを共にしている。

いやいやいや。そうはならんだろ。
しかも当たり前に一人用のシングルベッドなので、男二人はめちゃくちゃ狭い。正直ソファよりも寝づらいと思う。だがそれ以上に、信じられないくらい至近距離にアルがいて身体が密着していることが俺の心臓に大変悪い。
持てる全神経を集中させて何とか平静を装っているが、俺の心臓はもう決壊寸前だった。これアルにも聞こえちゃってるんじゃないか?ってくらいバクバクと心音がうるさいし、部屋の明かりを落としているからまだ救いがあるが、きっと俺の顔は茹で蛸のごとく真っ赤になっていることだろう。密かに片想いしている相手が同じベッドに寝ているのだから、無理もないと思う。

「あ、アル……やっぱり狭いから俺はソファに」
「それは駄目。一人で寝るならベッドで寝て。僕がソファ使う」
「アルのわからずや……」
「お互い様」

そんな言葉を交わしつつも、俺のことは決して解放してくれない。最近になってアルはこういうところあるんだよなって知った。いや、最近になってようやく、彼なりにだんだんと本来の性格が出せるようになってきたのかもしれない。だとしたら、とても喜ばしいことだけど。

「寒くない? ちゃんと毛布に入って」
「ひゃっ……!」

動揺しすぎて変な声が出た。
アルは俺より身体が大きいからか、ベッドのスペースや掛け布団を占拠しないようにめちゃくちゃ気を遣ってくれているのがわかる。ただ俺がアルに出来るだけ触れないようにとベッドの外側へ逃げていくものだから、おのずと布団に全然入れていなかった。何度引き寄せても俺が逃げるので、最終的に痺れを切らしたアルが俺ごと抱きしめる形で布団に入れてきた。
今までとは比べ物にならないくらい近くにアルの体温を感じる。無理無理無理、心臓壊れそう。やばい、なんか良い匂いまでするんだけど……俺と同じように生活しているのに何でなんだ。

「あ、アル、その、近いから……っ」

そう言いつつ胸板を押して距離を取ろうとするが、アルが離してくれない。この怪力!
恨みがましく睨んでやろうと顔を上げたらもう駄目だった。眼前にアルの超絶美形フェイス。部屋が暗くてもその造作がありありと見て取れるくらい近くにそれがあって、アルの顔面にとにかく弱い俺は恨み言のひとつも言えないまま固まることになった。
こんなんで寝れるか!!!



✦✦✦



あれから毎日ベッドで同衾してるって言ったら信じる?
俺が一番信じられない。だがこれは紛れもない事実で、俺の目の下に寝不足によるクマがあるのが何よりの証拠である。
アルは俺の気持ちを知らないから軽率にあんな事ができるんだろう。連日あんな感じで寝るものだから、俺の理性は限界もいいとこだった。ひたすらに別の事を考えて生理現象を必死に抑えているだけでも褒めてほしいくらいだ。

アルは俺の事どう思っているんだろう?
一緒に寝られるくらいだから、少なくともちょっとは好意的に思ってくれているんだろうか?
少しの間だけ一緒にいられたらそれでいいって、ひっそりと片想いするだけなら許してほしいと、そう思っていたのに。だんだんとそれだけじゃ満足できなくなっている自分がいる。
もしもアルと両想いになれたらどれだけ幸せだろうと考えてしまう。アルが俺のことを好きになってくれたら、俺だけを選んでくれたら……きっと俺は幸せすぎてどうにかなってしまうんだろう。
まあ、そんなこと絶対に有り得ないんだけど。

アルとの同居生活も三ヶ月が過ぎようとしていた。
怪我もすっかり完治したアルは、最近では少しずつ外に出られるようになっている。もちろん一人ではなく俺も一緒だし、出かけるのは昼間の明るい時間で、かつ人通りが多く安全な場所だけ。主にすることは食品や日用品の買い出しとか、あとは図書館でアルの勉強用の本を見繕ったりなど。

そしてこれは想像通りだったが、アルは歩いているだけでかなり人目を惹いた。
そりゃそうだ。カレドア中を探してもこれだけの美形はなかなかお目にかかれないし、俺だっていまだに隣を歩いていて緊張するくらいだ。最初に出掛けた時は色んな人(主に女性)に声をかけられまくって大変だったので、アル本人の希望もあって外に出る時は口元を覆うマスクを着けるようになった。顔を見られることを好まないアルはこっちの方が安心するらしいし、目立たないに越したことはないから俺も良しとしている。正直マスクつけてても全然イケメンだけど。
現にほら、美人で有名な雑貨屋の看板娘もアルを接客している時は目にハートが浮かんでいる。十中八九、アルに気があると思う。
それに、美男美女が並んでいるととても絵になる。側から見てもお似合い以外の何物でもなくて、やっぱりアルの隣には俺みたいな平凡男じゃなくて可愛い女の子がいるべきだよなぁ、と思ってしまう。

「雑貨屋の子、なかなか可愛いだろ? あの様子、きっとアルに気があるよ」
「別に興味ない……。他人に触られるの、ちょっと怖いし」

家に帰ってからアルにそれとなく聞いてみたら、思いのほかつれない返事が帰ってきた。
アルだって立派な男だから、女の子にはそれなりに興味があるものかと思っていたけど……意外とそうでもないらしい。今までの彼の生活を鑑みると、恋愛について考える余裕などはとてもなかったと思うから、可愛い女の子に言い寄られてもまだあまりピンとこないのかもしれない。
というか、待ってくれ。「触られるのが怖い」って……俺は普段からアルに結構触っちゃったりしているんだけど……。いや勿論、下心ではなくてあくまでも必要に駆られた時だけなのだけども。それでも、よく考えたら嫌だよな。今後は控えないと……。

「そういえば、ラビは恋人とかいるの?」

そんなことを考えていると、アルから思わぬカウンターが飛んで来た。
別に秘密主義というわけではないので教えてもいいのだが、残念ながら俺は恋人どころか恋愛の話題になると特に語れることがない。ゲイだし、経験皆無だし。

「あはは、いるように見える? こんな冴えない男、誰も相手にしないよ」
「そうなの? ラビは優しいし可愛いから、もう相手がいるんだろうなって思ってた」

俺がありのままを答えると、アルは首を傾げつつそんなことを言った。
優しいはともかく、可愛いだなんて生まれて初めて言われた気がする。
男に可愛いっていうのは世間一般ではあまり褒め言葉ではないのかもしれない。しかしアルに言われると何でも嬉しくなってしまう自分がいて。

「いやいや……俺は平凡だし、好きな人がいても告白する度胸すらないから」
「……好きな人、いるの?」

しまった。だからこの手の話題は苦手なんだ。何せ俺の片想いの相手は目の前にいる彼であるわけで、でもそれは絶対秘密だ。墓場まで持って行こうと思っているのに。
ここでしれっと「いないよ」と答えられれば簡単に済む話なのだが、残念ながら俺は嘘が下手くそな性分だった。アルに対してその場しのぎであっても嘘はつきたくないという気持ちから、つい口からは咄嗟に本当の事が漏れてしまう。

「あ、えっと……。まぁ、う、うん……」
「誰? 僕が知ってる人?」

ほら、食いついてきた。逃げたい!今の言葉取り消したい!
アルは恋愛には興味ないみたいなこと言っておいて、なんで俺のことはこんなに問いただしてくるんだろうか。いや、恋愛話は他人事だからこそ面白いみたいなところもあるからな……。さっきはあんなことを言っていたけど、やっぱりアルも少なからず恋愛に興味があるのかもしれない。
いっそ自棄になって「俺の片想いの相手はお前だ!」と言ってやりたいが、生憎そういうわけにもいかない。他人に触れられることすら不快に感じるアルが、一緒に暮らしている俺からそんな目で見られていると知ったらどう思うか。……言えない。ようやく元気になってきたアルに、俺のせいで嫌な思いをさせたくない。

「だ、誰でもいいだろ。アルには関係ないし……」
「教えて」

俺が頑張ってはぐらかそうとしているのに、何故かアルがこれまでにないくらい食い下がってくる。美形の迫力に気圧されてちょっと泣きそうになった。
君に心の底から惚れているんだって言ってしまったら、俺を信用して慕ってくれている彼にどんな顔をさせてしまうのか、想像するだけでしんどくなる。
俺は贅沢なんて言っていない。ただ少しの間、彼の近くにいたいだけ。アルには幸せになってほしいと思っているし、アルの人生を邪魔するつもりなんて一切ないのに。

「絶対駄目。どうせ一生告白なんてしないんだから、俺の中だけの話にさせてくれ。お願いだから」

何とかそれだけ言うと、アルを退かして俺は奥の書斎に籠った。こんな気持ちでアルとベッドでなんて寝られないから、今日は久しぶりに書斎のソファで寝よう……。毛布がないけど、頭を冷やすのには丁度いい気もする。

書斎に入ってからすぐにドアに鍵をかけて、俺はさっさと寝ることにした。気が抜けたのかどっと疲労感が襲ってきて、眠気が凄まじい。ここ最近は仕事のシフトも手当たり次第にぶち込みまくっていたし、疲れが溜まったのかな……。ドアの外からアルが呼んでいたけど、今日は一人にしてほしいとだけ告げて早々にソファに横になった。
なんだか頭の中がまっしろだ。アルとこういう話をしたのも初めてだったし……。それに、アルが女の子と並んでいるのを見て、お似合いだと思うと同時にちょっとだけ面白くない自分がいたことにも内心驚いていた。
アルは俺の物じゃない。俺が勝手にアルを好きなだけで……だから嫉妬するなんてお門違いだ。アルは何も悪くないのに俺が一人で落ち込んでいるだけだ。
好きだって言う勇気もないくせに、嫉妬だけ一丁前で。
つくづく俺って嫌な奴だ。

自己嫌悪しながらぼんやりしていたら、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。
皮肉にもここ最近で一番ぐっすり眠れた気がした。



✦✦✦



翌日。目覚めた俺は顔を洗うために書斎の鍵を開けて、洗面所へと向かおうとした。
……が、なんだかやけに頭が痛い。身体も普段より重たい気がする。久々にソファで寝たから身体を痛めたかな?

とりあえず顔を洗って、朝食を作るためにキッチンに立った。うん、大丈夫だ。頭痛さえ無視すれば問題なく動ける。
朝はいつも俺がアルよりも先に起きる。というか先に起きるようにしている。俺の間抜けな寝顔とか恥ずかしくて見せられるわけないだろ?
アルはうちに来た当初は満足に睡眠もとれなかったようだが、最近ではだんだん眠れるようになってきたと言う。とても良いことだ。だから朝もあえて起こさず、自分から起きてくるまでゆっくりさせている。とはいえアルは周囲の物音に敏感なようで、俺が起きてガチャガチャやっているとその物音で目が覚めるらしく、だいたい俺のすぐ後に起きてくるんだけど。
今日も例に漏れず、朝食の準備をしているところでアルが起きてきた。

「おはよ、アル。もうすぐ朝食できるから」
「……おはよう」

昨日のことなど無かったかのように笑顔で話しかける。アルはまだ少し気にしているのか返事が返ってくるまでに微妙な間があったけど、俺の「これ以上聞かないでほしい」という気持ちが伝わったのか、当面は何も触れずにいてくれた。
アルが顔を洗っている間に食事が完成する。といっても俺は料理がそれほど得意ではないので、今朝の朝食はバタートーストとコーヒーという何ともシンプルな献立だ。それでも、アルが食事に関して文句を言ったことは今まで一度もない。むしろ奴隷時代はまともに食べ物すら与えられなかったらしく、感謝を述べつつもぎこちなく食事をしている姿が印象的だった。そんなアルを眺めながらコーヒーを啜る時間が俺は結構好きだったりする。

「今日は一日休みだから、どこか出かけようか? それとも家でゆっくりする?」
「……ラビ」
「ん、なに?」
「いや、その……顔色が……」

顔色?と首を傾げたところで、くらりと眩暈がする。
テーブルに手をついて何とか倒れずに踏み留まったが、危うく手に持っていたコーヒーカップを落とすところだった。危ない。

「危なかった。零したら大惨事だった」
「……ラビ、やっぱり体調悪そうだ。無理しないで休んで」

アルの手が俺の額に触れる。ひんやりとした手の感触にドキッとした。
アル、体温低いんだなぁ……いや、俺が高いのか?

「ほら、熱がある」

今はアルの手の感触にドキドキしすぎて体温が跳ね上がっているから、きっとそのせいだ。
手で触れられただけでコレなあたり、俺は本当に恋愛経験が無さすぎるなと思う。いや、それに関しては好きな人に告白すらできない俺が悪いんだけど。しかし、これでラブストーリーなんかでよく見る、おでこで熱を測るなんてシチュエーションだったら俺はもう……いや、想像するのはよそう。余計に体温が上がりそうだ。

「い、いやこれはその!熱じゃなくて何というか……ぜんぜん元気だから!」

我に返った俺はアルの手を振り払って何とか取り繕う。アルは他人に触られるのが苦手だと、昨日学んだばかりなのに。
触られるのが苦手なら、自分から触るのも嫌に決まっている。それなのに俺のことを心配してくれて、アルは優しいなぁ……。
って、いやいや。アルにこんなくだらないことで心配かけさせるなんて、俺ってやつは本当に!

「大丈夫。昨日ちょっと寝違えただけ、で……」

あれ、また急に眩暈がした。
コーヒーはもうテーブルに置いた後だったから無事だったけど……ってそんなことは今はどうでもいい。頭が痛い。さっき大きな声を出して身体が興奮した反動か分からないけど、今度は一気に力が抜けてしまったような感覚があった。
ふらついた俺を、倒れる前にアルが支えてくれた。やばい、心配かけてる。早く立ち直らなきゃいけないのに、身体にうまく力が入らない。

「ご、ごめ……だいじょぶ、だから……」

何とかそれだけ口に出したものの、頭痛と眩暈が酷くてそれ以上は何もできなかった。
目の前がくらくらする。自分で思っているよりも調子が悪かったらしい。俺はいつの間にか、アルに体重を預けたまま呆気なく意識を飛ばしてしまっていた。

「大丈夫って言わないで……」

気絶した俺をぎゅうと抱き締めながらアルが何かを言っていたが、既に俺の耳には届いていなかった。



✦✦✦



この寒い時期に、あんな寒い部屋で、毛布もなしに薄着で寝るなんて有り得ない。風邪をひいて当然だ……。
などとぼんやりした頭で思いながら意識を浮上させる。倒れた後にアルが運んでくれたのか、俺は寝室のベッドに寝かされているようだった。

「やらかしたなぁ……」

ベッドから身体を起こしながらそう独りごちる。
窓の外を見るともう夕方になっていた。休日を無駄にしてしまったし、本当やらかした……。つくづく自業自得でしかないけど。
熱が下がりきっていないのか、まだ身体が怠い。しかし発熱のつらさよりも、アルに迷惑をかけてしまった申し訳なさの方がずっと大きかった。

そこで、カチャと音がして寝室のドアがゆっくりと開く。
俺が起きていることを確認すると、そのままそっと音もなくアルが部屋に入ってきた。もしかしてこうやって何度も様子を見に来てくれていたのかな。さすがに寝顔は見られた……よなぁ。こんなことを言っている場合ではないけど、恥ずかしすぎる。

「良かった……全然起きないからどうしようかと思ってた」
「ごめん! 本当に……アルにも迷惑かけて。もう大丈夫だから!」

慌ててベッドから起き上がろうとしたら、ぐらりと強い立ち眩みが襲ってきた。熱と長時間寝ていたせいで急に立ち上がるのは無茶だったらしい。アルは「まだ起き上がらないで」と言いながら俺の肩を押して、そっと身体をベッドに戻してくれた。

「まだ熱下がってないよ。家のことは僕がやるから、もうしばらくは寝てて……」

彼の優しい声音に困惑する。
迷惑をかけてしまったのに、怒っていないのかな。アルは表情が乏しくて、顔を見ても何を考えているのかわかりづらい。アルの無表情は昔からだそうで、本人もそれを自覚しているのかその分言葉で伝えようとはしてくれている。でもやっぱり、どうしてもわかりづらい時はある。

「ごめん……」
「どうして謝るの? むしろ謝らないといけないのは僕だよ。僕の為にいつも無理させちゃってた……ごめん」
「そ、そんなことない!」

アルのために無理をしたことなんか一度もない。
全部俺がやりたいからやっていたことだ。

「風邪ひいたのは寒いとこで寝たからで……負担になってるとか、そういうの全然ないよ」
「……」
「アルは何も気にしなくていいから」

弁明した俺の顔を見ながら、アルはどうしてか押し黙った。
何も言わないアルに俺は何とも言えない不安に駆られる。俺、何か良くないことを言ってしまっただろうか。
沈黙に耐えられず口を開こうとしたところで、ずきりと思い出したように頭痛がして喋ることができなくなる。そんな俺をアルはそっと制して、持ってきた濡れタオルを額に乗せてくれる。

「……とにかく、今はゆっくり休んで。悪化したらいけない」

タオルを乗せてくれた時に、アルの手が俺の頬を一瞬だけ撫でた気がして心臓がとくんと高鳴る。
細くて長くて、冷たさが心地良いアルの指。もっと触れてほしけれど、きっと撫でたというのは俺の気のせいだと思う。一瞬たまたま触れてしまったのを、熱でバグった頭が勘違いしただけで。

———このまま触れていてほしかったな。
なんて口に出せるわけもなく、アルに促されるまま俺は目を閉じた。
アルが思い詰めた表情で俺を見つめていたとも知らずに。



✦✦✦



一日休んだ後は熱も下がったようで、だいぶ動けるようになっていた。
それでもなんだか過保護ぎみなアルに安静にするよう言われて、食事の用意なんかも全てやってもらってしまった。不甲斐ないな……と思いつつアルの作ってくれたご飯を食べて、汗をかいて不快だった身体をシャワーで綺麗にして……と、色々しているうちにあっという間に夜は更けていった。

ところで、アルは寝る前にいつも勉強をする。基本的な読み書きの勉強だ。
今では簡単な文章であれば綴れるようになってきたが、まだまだ難しいらしくじっくりと時間をかけてノートに向かっている。その勉強にいつも俺も付き合っていて、綴りの間違いを直したりとか、あと最初の頃の名残で相変わらず絵本の音読を続けていたりもするのだった。

「ねぇ、この間読んでくれた話……あの、人魚の女の子が最後は泡になって消えたっていうやつ」

ふと、アルが勉強していた手を止めて呟くように言った。
アルは出会った当初よりはだいぶ喋るようになったとはいえ基本的には無口だから、彼のほうから話しかけてくれるのはわりと稀だ。

「あ、うん。『人魚姫』だね。有名な童話なんだけど、気に入った?」
「気に入ったっていうか……好きな人が目の前にいるのに、想いを伝えずに消えてしまったから。人魚姫はそれで良かったのかなって、思って」

視線はノートに向けたままアルが言う。
確かに、俺がアルにチョイスする本は子供向けの絵本が主だから、人魚姫みたいなバッドエンドっぽい話は珍しかったかもしれない。気に入ったというよりは、なんとなく後味が悪かったからか逆にアルの印象に残ったようだった。

「うん、でも、俺は人魚姫の気持ち……ちょっとわかるな。好きな人が幸せになってくれるなら、そこに自分がいなくても構わないって気持ち」

美しい声も、家族や友達も、果てには人魚であることすら捨てて恋に生きた人魚姫。
よくある「王子様と結ばれて幸せに……」みたいなストーリーではなかったし、王子は自分の命の恩人が人魚姫であると知らないまま最後は他の人と結婚していた。そして王子と自分の命を天秤にかけた結果、人魚姫は自分が消えることを選んだのだ。
俺もたぶん、自分とアルのどちらかしか生きられない……みたいな場面になったら、迷わずアルを助けると思う。自分がいなくなっても、いつか自分のことを忘れられたとしても、きっと後悔はしないだろう。
好きな人だから、生きて幸せになってほしいと一番に思う。だから物語の中の人魚姫には共感できるところもあった。

「うん……」

俺の返答を聞いて、アルは一応返事はしてくれたが生返事といった具合で、何か考え事をしているようだった。
勉強中だから集中しているのかな、としか俺は思わなかったのだけど、次に続いた彼の言葉に思わず耳を疑った。

「ラビも」
「え?」
「ラビも、僕がいない方が……幸せになれるよね?」



✦✦✦



アルに言われたことを理解したくなくて思考が停止しかけるが、何か言わなければと喉から言葉を絞り出す。

「待って、なんでそうなるの」
「ラビにこれ以上迷惑かけるわけにはいかないと思って……」
「迷惑、だなんて、そんな」

そもそもはアルの怪我が治るまでって話だったんだ。怪我が治ったから後はもう自分の好きにしたい、というのは別におかしいことではない。
でも俺はもう、アルのいない生活なんて考えられなくなっていて。何もしなくていいから、今のままずっと俺と一緒に暮らしてほしいって思うようになっていて。
わかっている。俺の身勝手だって。それをアルがどんな風に思っているかなんて、今まで想像すらしたことなくて。

「ラビは僕の面倒見ながら仕事もしてる。家の事もしてくれる。休日は一緒に過ごしてくれるし、勉強にも付き合ってくれてる」
「それは! 俺がしたいからしてたことで」
「ラビはそう言うと思った。でも実際、いきなり食い扶持が一人増えて大変だったと思う……。ラビの傍は居心地が良くて、ずっとラビの優しさに甘えちゃってたけど、このままじゃ駄目だって思ったんだ」

嫌な予感がする。俺が一番恐れていたことが起こってしまうような、そんな予感が。
アルが望むのならば、何も言わず彼の要求を呑むべきだ。わかっているのに、あさましくも心の奥底でアルを離したくないという気持ちが激しく主張してくる。アルともっと一緒にいたい。そのためなら俺は何でもする。

「それに、ラビは好きな人いるんでしょ……? ラビにはちゃんと幸せになってほしい。無理だって言ってたけど、ラビは素敵な人だから、告白したらきっとうまくいくよ。でも僕は……ラビが幸せになる時に、その邪魔にはなりたくないんだ」
「それは……っ」

俺の好きな人はアルなんだ、と言いかけた口をつぐんだ。
もう言ってしまったほうが良かったのだろうか。でも、もし言ってしまったらアルはなんて思うのだろう。
この期に及んでアルに嫌われたくない、とか傷付きたくない、とか自分のことばかり考えている俺は最低野郎だ。それでも、アルに本当のことを告げる勇気がどうしても出ない。それなのにずっと傍にいてほしいって、都合がよすぎるにも程がある。臆病で惨めで卑怯で、こんな俺なんかに告白されてもアルはきっと困ってしまう。

「……ち、違うんだ。無理なんてしてないし、邪魔になんて絶対にならない。俺のことは、アルには関係ないし……」
「……」

結局誤魔化した俺が「関係ない」と言った時、アルは何とも言えない表情になった。感情表現は乏しいものの、俺は直感的に「怒らせた……?」と感じ取る。何がアルを怒らせたか全くわからなくて、焦りがどんどん強くなっていく。

「ごめん、もう倒れないし迷惑もかけない! 俺は大丈夫だから……」
「ラビは優しいから、僕のことを枷にだなんて絶対思わないんだろうね。でもそれじゃ僕が納得できないから」

そして、俺が一番聞きたくなかった言葉がアルの口から発された。

「ここを出て行く。今までありがとう」



✦✦✦



ショックすぎてあのあとどんな会話をしたのか全く覚えていない。気が付いたら俺は眠っていたようで、次に目が覚めた時にはアルは家のどこにもいなかった。

もともと手荷物などなかったアルは、まるで最初から居なかったかのように消えていた。
それでも家にそのままになっている二人分の食器だとか、アルが勉強に使っていた筆記用具やノートなんかはそのまま残っていて、昨日までは確かにここにアルがいたんだといやでも実感させてくる。すべて熱に魘されて見た悪い夢であれば良かったのに。
俺の何がいけなかったのだろう。いや、お金も時間も、きっとアルにとっては足りないことばかりだっただろう。平凡な俺がどれだけ引き留めようと頑張っても、ここをアルの帰る場所にすることはできなかった。多分、ただそれだけの話で。

アルが出て行ってから俺はずっと心ここにあらずな様子らしく、仕事中も有り得ないミスばかり連発して仕舞いには店長に怒られる。常連さんにも心配されてしまった。
ああ、俺また迷惑かけてる。アルがいなくなっただけで、ただ元の生活に戻っただけなのに。最初は怪我が治るまでの間だって言っていたし、そうでなくても少しの間だけ傍にいられればそれで満足だって、本気で思っていたはずなのに。それなのに、いつの間にかずっと一緒にいたいと思うようになってしまって、アルに傍にいてもらうためなら何をするのも苦じゃなかった。
でも結局、俺は自分のことばっかりで、アルの気持ちを全然考えられていなかった。

アルがいなくなってから俺は毎日、仕事が終わってから街をふらふらと彷徨ってアルを探していた。いるわけないとわかってはいても、もしかしたらまだ近くにいるかもしれないという期待が拭いきれなかったのだ。
俺は思い当たる場所に片っ端から足を運んだ。図書館も雑貨屋も、最初にアルと出会った路地裏も、アルと行った場所は全部。だけど、どこにもアルの姿はなかった。

アルは今頃どこで何をしているんだろう。
気が付けば、ほぼ何も持たずに出て行ってしまったアルの心配ばかりしてしまう。
アル、一人で大丈夫かな。ちゃんとご飯は食べられているかな。まだまだ寒い時期が続くから、せめてどこか屋根のある場所でゆっくりと眠れているといいけれど。ああでも、アルがもし助けを求めたとしたら、手を差し伸べてくれる人はそれなりにいそうだ。そうしたら、俺の時みたいに誰かの家にしばらく泊めてもらって、みたいなことをしているのかな……。
嫌だなぁ。そんなことするくらいなら、ずっと俺の家にいてよかったのに。
他の人のところで、暮らしているんだろうか。
俺にしたのと同じように、誰かと一緒に勉強したり、ご飯を食べたり、ベッドで寝たりしているんだろうか。

「嫌だ……」

ずっと堪えていた涙が溢れてくる。
嫌だ。アルが俺以外の人と仲良く暮らすなんて、本当はすごく嫌だったんだ。
傍にいられればいい、なんて嘘だ。本当は、アルに俺だけ見てほしかった。それくらい好きになっていたくせに、その気持ちを伝えることすらできなくて、何も言わず一方的にアルを独り占めしようとした。ずっと一緒にいて、いつかアルに俺のことを好きになってほしかったから。

でも、俺は臆病者だからアルを引き留められなかった。
あの時たった一言、アルが好きだから傍にいてほしいって言えたら何か変わっていたかもしれないのに。いや、そんな勇気なんかありもしないくせに、それでもアルを手放したくないだなんて身勝手にも程があったんだ。

今更、何もかも遅い。



✦✦✦



アルを探し始めて、何日くらい過ぎただろうか。
今日もアルは見つからない。もうこの街を出て遠くに行ってしまったのか、そもそも夜中に歩き回っても見つかるわけがないと、頭のどこかではわかっているのに。

そういえば最近、街中にやたら警官が多い。俺も歩いている時に何度か声をかけられた。風の噂では不審者だか通り魔だかが出たとか……。目撃者がそれなりに出ているらしく、警察も見回りを強化しているんだろう。危ないから夜に出歩くのは出来るだけ控えてほしい、と言われた。
とはいえ庶民や貧困層からすれば、仕事をしなければ生活していけない経済状況の人間も少なくない。犯罪者がうろついているとわかっていても客引きをやめることができない娼婦、家のない浮浪者や、俺のように遅い時間まで仕事をしている者など。
とはいえ、なんだか物騒なことになっているみたいだし、今日は真っ直ぐ帰ろうかな……と思った矢先だった。

ダーン!

住宅街に突如こだまする銃声。
その音に驚いたのは俺だけではなかったらしく、すぐに周囲の民家の灯りが次々について、眠っていた住民たちが皆何事かとドアや窓から顔を出す。
瞬く間に辺りに警官の笛の音が響いた。数人の警官がバタバタと走ってきて、住民たちに家から出ないように指示を出している。近くにいた俺もこれは危ないかもしれないと思い帰路を急ごうとしたその時、30メートルほど先の路地に走っていく人影が視界を掠めた。

「アル!」

見間違えるわけがない。後ろ姿だけだったけど、あれは紛れもなくアルだ。
俺は考えるよりも先に、思わずその後を追っていた。
全速力で走ってなんとか路地へ辿り着く。これを逃したら本当に二度と会えないかもしれない。警官が追っているのはアルのことなのか、そうではない別の誰かなのか、何も事情はわからない。だけどせめて、アルともう一度話がしたい。

入り組んだ路地を必死に走ってなんとかアルに追いつく。俺が路地裏の陰で呼吸を整えていたアルの肩を掴むと、アルは一瞬ものすごく殺気立ったが、相手が俺だと認識すると驚いた表情になった。

「ラビ!? 何でこんなところに……」
「ずっと探してたんだよ! ねぇ、この騒ぎは何なんだ……? アル、追われてるの?」
「ごめん、事情を説明してる暇がない。とにかく今すぐにここを離れて」
「え?」

せっかく会えたのに、ろくに話もできないだなんて。
でも確かに、今は紛れもなく緊急事態のようだった。でもなぜアルが? 俺が事態を把握できずにいると、アルは俺の腕を引いて警官がいそうな大通りまで連れて行こうとしてくれる。

「ここを真っ直ぐ行ったらもう安全だと思うから……気をつけて帰って」
「ね、ねぇアル。次はいつ会える?」
「……ごめん。もう会えない」

もう会えないって、どういうこと?
もしかして何らかの犯罪に加担してしまって追われているのか……?とほんの一瞬だけ思ったが、すぐにその考えは消した。アルは絶対にそんなことするやつじゃないし、第一手荷物すら持っていなかったアルが拳銃など手に入れられるわけがない。きっと何か事情があるんだ。

「そんなこと言われて大人しく帰れるわけないだろ! ねぇ、何があったのか話してくれよ。そしたら俺っ……」

ふとその瞬間、視界の隅で何かがギラリと光った気がした。
それが何なのかを正しく理解するよりも先に、脳が危険信号を発していた。俺は咄嗟にアルの前に出て彼を突き飛ばす。

「危ない!」

ダーン!という銃声と、焦げ臭い匂い。警官の声。笛の音。
それは一瞬の出来事だった。

「ラビ!!」

アルの悲痛な叫び声。
数秒遅れて、腹部にとんでもない激痛が走る。俺は自分の身体から血が出ていることに気付いた。
あぁ俺……撃たれたんだ。

頭の片隅で自分の現状を認識しつつ、俺は銃声のした方へと目を向ける。
誰かがアルを撃とうとしていた。通り魔なんかじゃない、あれは明確にアルを狙っていた。誰だかはわからないが服装からして警官ではなかったと思う。二発目が飛んで来ないから、もう逃亡したか警官に捕まったか、とにかく俺はアルの命を守ることに成功したらしい。

「アル……怪我、してない……?」
「あ……ラビ……」

アルの無事を確認できて気が抜けたのか、身体が急に動かなくなった。なすすべもなく、そのままアルの上にどさりと倒れ込んでしまう。そのせいでアルの服が俺の血でどんどん汚れていくが、もう俺は自分の意思で起き上がることができなくなっていた。

「俺は、だいじょぶ、だから」

少し喋っただけで身体が悲鳴を上げる。
喉奥から急に何かがせり上がってきて、堪えきれずにごぼりと血を吐いてしまった。体温がどんどん下がってきて、驚くほど寒い。
もしかしなくても俺、死ぬんじゃないかな。でも、アルのことを守って死ねるなら本望だ。俺の人生も捨てたもんじゃないと思える。

「めいわくかけて、ごめんな」
「ラビ、ラビ! もういい、もう喋らないで……!」
「ごめん、ほんとに……。でも、でも俺……アルが、好きなんだ」

……最期だったら、少しだけ勇気が出せるかもしれない。
きっともう、二度と彼に会うことはないだろうから。

「最初に会った時から……ずっと好きだったよ。本当は言うつもりなかったけど、これで最後だって思ったら……」
「何言ってるんだよ!最後じゃない!ラビ、お願い……お願いだから死なないで……」

いつだったかアルと話した人魚姫の物語。
人魚姫は王子に想いを伝えることなく泡になって消えてしまったけれど……俺は狡いから、人魚姫のように我慢ができなかった。
最期なら。どうせ叶わないのなら、最期に気持ちを伝えてから消えたいと思ってしまった。こんな俺だから、きっと人魚姫のように綺麗な泡にはなれないだろうけど。
……ああ、アルが泣いている。泣いているところなんて初めて見た。俺が泣かせてしまったのかと思うと心苦しいけど、ちゃんと気持ちを伝えられたことは嬉しかった。俺は臆病者だから、好きな人に告白なんて一生できないと思っていた。だけど最期に、人生で一番好きになった人に伝えることができたから。

「アルのこと、守れてよかった……。俺のことは忘れていいよ。今までごめんな……」
「そんなこと言うなよ! なんでラビはいつも、なんで僕なんか……っ!」

何でって、そんなの決まっている。
俺がアルのことを、世界で一番愛しているからだ。

「アル、こっち」

身体が動かないので、仕方なくアルに顔をもっと近づけてと促す。その薄い唇に俺はそっと自分のそれを重ねた。
正真正銘、俺のファーストキスだった。

ひゅーひゅーと呼吸が怪しくなってくる。息を吸うたびに肺に刺すような痛みが走って、今すぐにでも呼吸を止めたくなるが必死に空気を吸った。
また血を吐く。もう喋れそうにない。アルは相変わらず泣いていて、何かを必死に叫んでいるがもう俺は聴覚すらまともに機能していないらしく、周りの音がなにひとつ聞き取れなかった。そろそろ限界かもしれない。寒くて仕方がない。
もう充分すぎるほどさよならはできた。大好きなアルに抱きしめられながら死ねるだなんて、俺はなんて幸せ者なんだろう。最後に言い逃げのようになってしまったことだけは少し心残りだけど、俺の告白なんてただの自己満足だ。忘れてくれて構わない。
今はただ、アルに生きていてほしい。生きて、もっともっと幸せになってほしいから。

アル、今までありがとう。
俺はゆっくりと目を閉じて意識を飛ばした。



✦✦✦



目が覚めたら、白い天井が見えた。……ってなんかありきたりな感じで申し訳ない。
だんだん、ゆっくりと浮上してくる意識と共に次に認識したのは、つんと鼻につく薬剤のような匂い。ここは天国か? それにしてはやけに殺風景というか、思っていたのと違うっていうか……。

ていうか、身体が全然動かない。声も発せない。え、大丈夫? これ俺、ちゃんと生きてる? いや、やっぱり死んでるのか?
もう少し時間が経つと、俺は自分が病室らしき部屋のベッドに寝かされていることに気付く。一応五体満足で生きてはいるみたいだ。そして、意識を失う前のことをだんだん鮮明に思い出してくる。
あのあとアルは大丈夫だったんだろうか? アルを狙っていた奴のことは……だいたい想像がつくけれど、だとしたらアルが何よりも心配だ。

横に視線をずらすと、アルが俺の手を握りながら眠っていた。
よかった。アル、無事だったんだ……。
触れている手が温かくて、それがとても嬉しくて。俺は力が入らない腕を叱咤して、その手を弱々しく握り返した。

「……! ラビ!? ラビ!」

ほんとに微かな力だったにも関わらず、アルがはっと目を開けて俺の顔を覗き込んでくる。おはよう、と言いたかったが何故か声が出ないので、顔の筋肉をなんとか動かして微笑んでみせた。

「ラビ……!待って、動かないで。きみ、本当に死にかけたんだから……!」

そう言いながらナースコールを連打するアルは、あの時と同じように泣いていた。
また泣かせてしまった。俺なんかのために何度も泣かせてしまって心底申し訳ないけど、どんな表情でもアルは綺麗だ。

こうしていると、アルと初めて話した日のことを思い出す。
雨の中怪我をしていて凄く衰弱していて、何日も寝込んだ末にやっと目を覚まして……初めて話せた時、その蜂蜜色の瞳に射抜かれて、俺は瞬く間に恋に落ちた。
あぁ、やっぱり好きだなぁ……。
あの時はこれで終わってもいい、なんて思っていたけど、やっぱり死にたくないな。もっとアルと一緒にいたい。もっとちゃんとアルのことを知って、もっと好きになりたい。自分がどんどん我儘になっていくのが分かって自嘲の念に駆られるが、それでも紛れもなくこれが本音だった。

伝えたいことはたくさんあるのに、声が出せなくて何も言うことができないのがもどかしい。それでも、アルがここに居てくれるだけですごく安心する。俺、こんなにもアルが好きなんだ。
まだ少し霞んでいる意識の中でも、アルの手だけはずっと握っていた。



✦✦✦



なんと俺は半年以上も意識不明だったらしい。
アルからそれを聞いたとき、めちゃくちゃ驚いた。だって俺にとっては撃たれたのがつい昨日のような感覚でいたから。
でも目醒めた時に身体がまったく言う事を聞かなかったことにもこれで納得がいく。半年も眠り続けていたのであれば、いきなり喋れるわけないし起き上がれるはずもないよな。

それと、俺のことを撃ったのは……やっぱり例の貴族の息子だった。
流石に追いかけては来ないだろう、と思っていたけど、彼はずっとアルのことを秘密裏に探していたらしい。とんでもない執着だ。同時期に相次いでいた不審者目撃情報なども全て彼の事だったとのことだ。
あの銃弾は間違いなくアルを狙っていたが、図らずも俺に当たってしまったことでかなり動揺したらしく、錯乱して逃げ出したところを警察に御用となった。警察の取り調べでは「逃げ出した奴隷を自らの手で責任もって殺したかった」とか何とか言っていたらしい。狂ってるな、と俺は思ったけど。アルが言うには、甘やかされて育った貴族の息子だし、そもそも違法の奴隷売買に手を染めているような金持ちは猟奇趣味や変な性癖があったり、とにかくまともな人格をしていない場合が多いらしい。
そんな高貴なお貴族様とはいえ、多くの目撃証言に加えて奴隷売買の事実も明るみになり、流石に言い逃れはできなかったようだ。詳しくは聞かなかったけど、彼には法的な罰が下ったと伝えられた。俺としてはアルを殺そうとしたのは許し難いことだが、俺を撃ったことは別に根に持ってはいなかった。アルが無事ならそれでいいし、金輪際アルに近付かないでくれればその貴族の息子とやらが今後どうなろうと関係ない。既に法が裁いてくれたのならそれに従おうと思う。

そんな感じで、アルはこの半年は安全を脅かされることもなく平和に暮らせているらしい。それが何よりだ。
俺には話さなかったがアルは元雇い主が自分を探しているかもしれないとずっと気にしていたようで、もしそうだった場合、俺にも危険が及ぶのではないかと気が気でなかったと言った。なるほど、出掛ける際にやたらと顔を隠したがっていたのにもこれで合点がいった。万が一にも俺と一緒にいる時に見つからないようにと警戒していたんだ。
俺の家を出て行ったのはそういう理由も実はあったのだが、嫌な予感が的中した上に結局見つかってしまい、追われる身となっていたそうだ。

「でも、結局ラビを巻き込んじゃったから……本当にごめん」
「何言ってるんだよ! 俺が勝手にやったことだし、アルが無事ならそれでいい。……でも、今後は何か事情があっても急にいなくなったりしないでほしい、な」

事情があったとはいえ、アルがいなくなってどれだけ寂しかったと思っているんだ。
でも、それこそあの時もしアルが撃たれていたら、俺は死ぬほど後悔しただろうし……。むしろ土壇場で守れてよかったなって思っている。アルには二度とするなと怒られたけど。

「あの時は焦ってて……ラビと一緒にいるところをもし見つかったらどうしようって思ってたし。それにラビは自覚してなかったみたいだけど、あの頃のラビはすごく疲れてるみたいだった。ずっと笑ってたけど、きっと僕のためにたくさん無理してた……」

アルにそう言われるまで、全く自覚がなかった。
アルに不自由させないようにと仕事を頑張ったり、アルより早く起きたりして色々気を遣ってはいたから、そういう所がアルには無理しているように見えたのかな。俺は好きでやっていたんだけど……。それを伝えると、アルからは「一人で無茶しすぎ」とほんの少しだけお叱りを受けてしまった。

「この半年で色々勉強したし、雇ってもらえる所も見つけたんだ。だから前みたいに完全なお荷物じゃない。これからも君に苦労させないように頑張るよ。だからその、また僕と一緒に暮らしてくれますか……?」

アルのその言葉に俺は頷いた。何よりも嬉しい言葉だった。「もう会えない」と言われた時には考えられなかったような……。
気がつけば俺は泣いていた。本当は、ずっとアルに戻ってきてほしかった。ずっと一人で寂しかった。何に代えてでも、俺はアルに傍にいてほしかったんだから。

「アルがいてくれれば、何もいらないよ」

他の誰でもない、アルじゃないと駄目なんだ。



✦✦✦



その後俺は順調に回復し、退院して半年ぶりに我が家へ帰ってきた。
もちろんアルも一緒だ。

家の中は半年留守にしていたとは思えないくらい綺麗だった。と思ったら、聞けばアルが定期的に訪れて掃除や換気をしてくれていたらしい。俺が寝ている間にそこまでしてくれていたとは。むしろ以前より綺麗になっているくらいの自室に足を踏み入れながら、俺はアルの家事スキルの高さに感嘆した。

「久しぶりに自分の家に来ると、狭いんだけどやっぱり落ち着くなぁ」
「そうだね。……ねぇ、ラビ」

俺がベッドに腰掛けながらしみじみとそう言うと、アルも隣に腰掛けながら俺の名前を呼んだ。アルから漂うなんとなく張り詰めた雰囲気に、俺もつられて緊張する。

「入院中はラビの回復が最優先だと思ったから、黙ってたけど……あの時の返事、してもいい?」
「あの時、って……」
「好きって、言ってくれたよね」

アルからそう言われて、顔にどんどん熱が集まってくるのがわかる。
自分が意識を失う直前にアルに何をしたのか、覚えていないわけがない。あの時は一世一代の告白のつもりだったからあんな大胆な事ができたけど、いざ生還するとめちゃくちゃ恥ずかしい。どうしよう……。

「あ、あれは、その……あの時はもう最後だと思ったから……」

半年前から止まっていた時間が急に動き出したかのようだった。あんな事をしてしまった手前、今さら何を言っても誤魔化せそうにない。
もうどうにでもなれ。俺は半ば自棄になって白状した。

「そうだよ……最初からずっとアルのことが好きだよ! 顔もめちゃくちゃ好みドストライクだし一緒に住もうって言った時も下心ありまくりだったし! 最初は一緒にいられれば充分って思ってたのに、アルのこと知れば知るほどそれだけじゃ満足できなくなって……。で、でも、俺が勝手に好きになっただけだから、アルにはその……」

喋っているうちにだんだん自信がなくなってきて言葉が尻すぼみになる。
顔が好みドストライクだったから勝手に持ち帰りました、って、冷静に考えるとめちゃくちゃ頭のおかしい奴でしかない。俺の告白を聞いたアルが今どんな表情をしているのか、怖くて彼の顔が見られない。アルの返事を聞くのが怖い。

「ラビはそれでいいの?」
「え?」
「ラビが僕を好きなだけで、一緒に暮らせるだけで本当に満足?」
「えっと、それは……」
「言って。ラビの口からちゃんと本音が聞きたい。もし言ってくれたら……悪いようにはならないから」

そんなこと言われたら……本当に言ってしまっていいのか。
いつも恋愛に関しては後ろ向きで、誰かに気持ちを伝えるなんて一度もしたことがなかったから、不安で仕方がない。でも、アルの言葉にほんの少しだけ期待してしまっている自分がいて。
本当に、素直になってもいい?

「あ、アルが好きだ……! だから、俺のことだけ見てほしい。この先ずっと、俺だけに好きって言ってほしい。他の人のところに行かないで……!」

震える声でなんとか言い切った俺をぐっと引き寄せて、アルが俺の唇にキスをした。

「僕も。ラビのことが世界で一番好きだよ。ラビしか見えないし、ラビ以外愛せない。君が許してくれるなら、これから一生、ずっとそばにいさせてほしい」

俺が何よりも欲しかった言葉を、アルがくれた。
信じられなくて涙が溢れていた。俺がこんなに幸せでいいんだろうか? 実は俺はまだ病院で寝ていて、これは都合の良い夢を見ているだけなのだろうかとつい考えてしまう。でもアルの唇の感触は確かに本物で、目の前にいるアルもやっぱりアルだ。

「愛してるよ、ラビ」
「お、俺も、アルのこと愛してる……!」

俺が嗚咽しながらもそう伝えると、アルは微笑んでまた優しくキスをしてくれた。
アルの笑った顔を初めて見たけど、信じられないくらい綺麗だった。アルが笑ってくれた、それだけで胸がいっぱいになってしまう。嬉しくても涙が出るって本当だったんだな、と生きてきて初めて実感した。
しばらく涙は止まりそうになかった。



✦✦✦



あれから一年。俺は相変わらずアルと一緒に暮らしている。

恋人になってからも俺とアルは色々あった。喧嘩したのも一度や二度じゃなかったけど、それでも充実した日々だと思う。
それでも悩み事は尽きないもので。アルはいつだったかに俺が言った「喧嘩するほど仲が良い」という言葉を気に入っているらしく、仲直りした後はいつもたくさん甘やかしてくれる。というか両想いになってからというもの、アルがとにかく俺に甘いんだ。ことあるごとに愛を囁いてくるし、キスもたくさんしてくれるし、夜のほうも……いや、これ以上は恥ずかしさで死にそうだから割愛するけど、とにかくアルが甘すぎて俺の心臓が以前にも増して保たない。
それに何かにつけて過保護すぎるくらい過保護になったし(喧嘩の原因はだいたいこれである)、どこに行くにも確認してくるし、俺が他の人に言い寄られていないかもめちゃくちゃ気にしてくる。そんな人いないに決まってるのに。
……とまぁ、どれもこれも贅沢な悩みというか、惚気だ。愛されてるなぁ、って全身で感じる。

「ラビ、おはよう」

朝目覚めるとすぐ隣にアルがいて、極上の笑みでそう言ってくれる。
そういえばあの後、ベッドはお金を貯めて新しいものを買った。ちゃんと二人で寝られるくらい大きいやつ。お陰で俺は寝起き早々アルの超絶美形フェイスを今日も拝めているわけだが、俺が告白の時にアルの顔が好みだと白状したからか、最近アルはやたら俺を見つめてくると感じるのは気のせいだろうか。

「あ、おっ、おはよう……!」
「ふふ、なかなか慣れないね。そんなに僕の顔好き?」
「……す、好き」

絶対!絶対わざとやってるだろ!面白がってるだろ!!
悪戯っぽい笑み。この一年でアルはよく笑うようになったと思う。出会って間もない頃の鉄仮面が嘘のようだ。お陰で俺はことあるごとにドキドキさせられてるのだけども。

「顔見られるの苦手だって言ってたくせに……」
「他の人に見られるのは嫌だけど、ラビは好きなだけ見ていいんだよ。恋人なんでしょ?」

恋人。そうなんだ、今の俺たちは両想いだから……恋人なんだ。その事実があまりにも嬉しくて、俺は赤面したままこくりと頷いた。
恋愛経験皆無だったせいで、一年経った今でも俺はこんな感じ。だってアルと恋人同士になれるなんて夢でも有り得ないと本気で思っていたし、何よりアルが毎日かっこよすぎて全然慣れる気配がない。こんな俺でも好きだと言ってくれるアルは出来た奴だなと思う……。

と、甘い雰囲気にずっと浸っていたいけど、そろそろ起きないとな。
そう思いながらベッドから降りようとして、何故かそれが出来ないことに困惑する。

「? あれ……?」
「あ、もしかしてまだ腰が抜けてる? ごめん、昨日は無理させちゃったもんね」

昨日。

「あ……」

昨晩のことを思い出して一気に身体が熱くなった。
そうだった、昨日はアルと……。恥ずかしさのあまり俺はベッドの上で悶えまくる。
そんな俺を見てアルはくすくすと笑いながら、触れるだけのキスを落としてくれた。昨晩したものとは違う、小鳥のような可愛らしいキス。それでも俺に昨日の行為を彷彿とさせるのには充分だった。

「朝食は僕が用意するから、ラビはゆっくりしてて?」

そう言ってアルが部屋から去って行った後も、俺は真っ赤になった顔をシーツで隠し続けていた。
今の自分の顔が幸せで蕩けまくってるのが、見るまでもなくわかったから。



end.
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