江戸の夕映え

大麦 ふみ

文字の大きさ
11 / 55
江戸に奉公にでる熊谷農夫の話 ― 『譚海』より

5 熊谷へ

しおりを挟む
 翌朝、寅の鐘(午前四時ごろ)が聞こえたかと思うと、ふすまの引手をカツカツカツと三回打つ音が小さくした。打合せどおりの時刻、合図だった。

 太平次は、旅装のまま眠った布団からはいでて、万一の夜襲にそなえましておいた戸板とつっかえ棒を外し、音を立てぬよう静かに襖を引いた。

 敷居のむこうで膝をついていた佐代は、置き忘れの荷物がないのを確かめたのだろう、立ち上がって室内をぐるりと見回してから、太平次にそっとうなずいた。

 太平次が廊下にでると、佐代は襖を閉めて奥へと先導した。まだ下男下女たちも眠っている部屋の前を通り、奥向きの仕事のための一角を抜けて勝手口へと進んだ。

 そこには、長身で引き締まった体つきの若い男が、旅脇差も身につけた旅姿で、太平次を待ってくれていた。強面こわもてからは予想もつなかい笑顔が太平次に向けて浮かんだ。

 ──このふたりはお似合いだな。

 場違いな思いが太平次をよぎったが、梅吉はぐずぐずしていなかった。佐代の方には目もくれず、俺の後を付いてこいといったばかりの手招きを太平次にすると、宿屋の裏の小道へと急いだ。

 太平次も別れの挨拶代わりの黙礼を佐代になげると、あわててその背中を追った。

 暗闇のなか、先を行く梅吉が立てる音を頼りに、生い茂る竹藪をつたった。宿屋から二人の姿が見えないよう、十分に距離を行ってから、街道に出た。明け始めるころには、そのわずかな白い光で、梅吉がくっきりと見えるほど、闇に目が馴染なじんでいた。

 途中の鴻巣宿には二刻(約四時間)たらずで到達した。

 しかし、あとで来た賊が聞き込みをしても、跡がつかないよう休憩はとらなかった。食事は、佐代の用意してくれていた握りを歩きながら食べた。ひたすら先を急いだ。

 この間、梅吉と言葉を交わす余裕は、太平次になかった。

 けれど、たえず自分をきづかってくれているのが行動のはしばしに感じられた。さらに四里(十六キロメートル)の道を、賊の姿をまったく見ることなく踏破して、熊谷にたどり着いたときには、古くからの友達にいだく心やすさを持つほどになっていた。

 太平次は、自分の家に来て、しばらくいこうように強く勧めた。しかし、梅吉は、すぐに引き返すといって聞かなかった。

 賊を以前から見知っているので、あいつを完全に振り払うことができたか、帰り道で確かめることができる、もしそうなら安心だからだという。

 太平次は改めてお礼にあがると約束して梅吉とわかれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

処理中です...