天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep. 2『変動と変革』

01

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「……ッ、し、おり……?」

 ごろりと落ちるそれはレンガだった。
 なんでレンガが、と顔を上げれば、窓が閉まるのが見えた。その向こうにいる何者かまでは分からなかったが、ただの事故だとは思えない。
 追いかけるべきか迷ったが、阿佐美の呻く声が聞こえてハッとする。

「詩織……ッ!」
「……ッ、本当、屋上からじゃなくてよかったよ……」

 肩を抑え、そう口にする阿佐美の顔は脂汗で濡れていた。
 あの窓の高さから考えても、相当の痛みのはずだ。
 こんなコンクリートの塊を落とされて、骨が折れていないはずがない。
 ごめん、と口にする暇すら憚れた。
 誰かを、いや、この場合は救急車か。と携帯を取り出した時、阿佐美に片方の手で止められる。

「大丈夫だよ、ゆうき君……俺が、自分で連絡するから……」
「っ、そんな……駄目だ、詩織はゆっくりしてて、喋ったら痛みが……ッ」
「そんな顔をしないで……っ、俺は大丈夫だから……ね?」

 伸ばされる手が頬を撫でる。
 その指先が震えてるのを見て、堪らなく胸が痛む。顔色だって良くない。こうして俺に喋っているだけでも阿佐美には多大な負担が掛かるだろう。
 どうするべきか迷ったとき、「ゆうき君」と名前を呼ばれる。

「君は……ここから離れて」
「……っ、詩織……」
「これは、俺の問題だから」

「お願い」と、口にする阿佐美の声が掠れているのを聞いて、俺は、阿佐美がどこに連絡しようとしているのか悟った。
 俺がここにいると都合が悪いのだろう。
 心配だが、それでも、阿佐美に従うことしか出来なかった。

「っ、分かった……」

 ありがとうも、ごめんも、言う暇なかった。
 その場に阿佐美を残し、俺は歩き出した。
 振り返ったその先、阿佐美が座り込んでいるのを見て、俺は、それを振り払うように校舎に戻った。
 向かう場所は、あの窓の位置に面する教室だ。
 大雑把にだが、あの窓の場所は分かっていた。
 特別教室棟三階、資料室だろう。
 普段は教材置き場となっているそこに生徒が出入りすることはない。
 そこにまだ誰かが残っているとは思えないが、それでも、このまま阿佐美が怪我してるのを見過ごすことは出来ない。
 したくなかった。

「っ、は……ッ」

 走って走ってひたすら走ってやってきた三階特別教室棟。
 扉に手を伸ばせば、そこに鍵は掛かっていなかった。
 思い切って扉を開く。
 結論から言えば、そこには何も無かった。
 埃っぽい室内、俺は、息を整えながら足を踏み入れる。

 元はと言えば、阿佐美が気付かなかったらあのレンガが俺の上に落ちてきていたということだ。
 そう考えると、ゾッとする。
 誰が、どうして、なんのために。
 可能性を考え出せばキリがない。
 せめて、何か痕跡か手がかりかないだろうかと思い、窓に近付いた。
 開けば、丁度そこからはさきほどまで俺たちがいた位置が丸見えになっているではないか。
 そして、今、そこにいるのは阿佐美と……。

「……ッ!」

 阿佐美の前、立っていた阿賀松がこちらを見上げるのを見て、俺は慌てて顔を引っ込めた。
 こんなの、逆に怪しまれたのではないだろうかと思ったが、条件反射というもので。
 俺は、阿賀松に気付かれる前に資料室を出ていくことにした。

 そして、気付く。
 資料室前廊下。扉の出入りを見張るように取り付けられた監視カメラに。

 これは、この映像を確認することは出来ないだろうか。
 芳川会長の顔が過ぎったが、会長に阿佐美と二人きりになっていたことを知られることになると考えると……少し難しい問題だった。
 ……けれど、阿佐美が怪我をしてるんだ。
 なんとしてでも、犯人を見つけなければ申し訳が立たない。
 怖いが、背に腹は変えられない。
 俺は、携帯端末を取り出し会長に電話を掛けた。

 会長に会いたいと伝えれば、難なく会長と会えることが出来た。
 最初は「君がいるところまで迎えに行く」と言っていたが、流石にわざわざ足を運んでもらうわけにもいかない。
 会長がいる生徒会室へと向かえば、会長は俺を笑顔で迎えてくれた。

「それで、どうした。俺に何か用があったんだろう?」
「あの……お願いがあるんです」
「……構わない。続けろ」

 俺は、つい今しがた起きたことを簡潔に会長に説明した。
 話していたら頭の上からレンガが落ちてきたこと。
 そして、それを庇ってくれた阿佐美が怪我を負ったこと。
 阿佐美の名前を出すと会長の表情が変わったことに気付いた。
 それでも、下手に誤魔化すよりましだ。

「それで、その時の資料室の出入りを監視カメラで確認したいということだな」
「……はい。あの、お願いします。もし、他にも怪我する人が出てくるかもしれないと思ったら……」
「……そうだな。狙われたのは君だ。もし彼がいなければ君は今ここにいない可能性だってあるわけだ」

 そう、静かに会長は口にする。
 考えただけでもゾッとする話だった。
 会長は難しそうな顔をして、そして「分かった」と頷いた。

「ほ、本当ですか……?!」
「寧ろ、何故俺が断ると思ったんだ?……好き勝手な真似をさせるわけにはいかない。それに、君に手を出すなど……俺を馬鹿にしているも同然だ」

 声を荒げるわけではない。それでも、会長が怒っているのは明白だった。
 少し怖かったけれど、これで犯人が分かればと思うと全然いい。
「ありがとうございます」と頭を下げたときだった。
「しかし」と、会長は静かに続ける。

「監視カメラの映像は俺が確認する。……これは義務でな、普通一般生徒は監視室に入ることは出来ないんだ」
「……分かりました、お願いします」

 自分の目で確認することが出来ないのは気になったが、それでも会長が見てくれるのなら大丈夫だろう。俺は、俺に出来ることをするまでだ。
 俺は「ありがとうございます」ともう一度会長に頭を下げた。

 会長と生徒会室を後にし、少し離れた監視室へと向かう。
 監視室は普通、教師と特例で生徒会・風紀委員のみが入室を許可されているらしい。
 とは言ってもいつでも出入りできるわけではなく、問題が起きた時などではなければ容易に出入り出来ないらしい。
 今回がその『問題』なのだろう。

 何故俺と阿佐美が校舎裏にいたのか、会長は聞いてこなかったが快く思っていないということは会長から感じることは出来た。
 けれど、状況が状況だからだろう。生徒会長の顔をした会長は深く聞いてくることはなかった。
 有り難いが、会長がどう思っているかを考えるとやっぱり……少し居た堪れない。


 ――校舎内、監視室前。

「少し待ってろ、確認してくる」

 専用のキーを使い、監視室へと入っていく会長。
 一人になるのは心細いが、無理を言って付いていくわけにもいかない。
 俺は、会長を待った。

 阿佐美がいなければと思うと、生きた心地がしなかった。
 それでも、阿佐美が代わりになってしまうのだったら俺にあの岩の塊が落ちてきた方がましだ。
 あの時の阿佐美のことを思い出すと、脈がどくどくと加速して、何も考えられなくなる。
 阿佐美は、大丈夫なのだろうか。そう祈ることしか出来なくて、拳を握りしめたときだ。

 制服のポケットに入っている携帯端末が震え始める。
 恐る恐るそれを取り出せば、そこに表示された番号に息を飲んだ。
 阿賀松伊織からだ。
 阿賀松から、電話が掛かってきている。

 どうして、と考えるよりも先に、出てはいけないと本能が叫ぶ。駄目だ、やり過ごそう。
 阿佐美のことは心配だったが、それでも阿賀松との接触は危険だ。そう思わずにはいられなかった。
 早く電話を切ってくれと必死に念じる。
 どれ程の時間携帯端末が震えていただろうか。端末を握り締めていた掌は汗が滲み、ようやく電話が切れて待ち受け画面に戻った時、全身から力が抜け落ちるようだった。
 けれども、安心できるわけではない。
 このタイミングで阿賀松から掛かってくるということは、間違いなく、阿佐美のことだろう。
 阿佐美がどう阿賀松に伝えたかは分からないが、せめて、犯人の目処が付くまでは阿賀松に捕まるわけにはいかない。
 バクバクと破裂しそうになる心臓を必死に落ち着かせながら、俺は、芳川会長が早く戻ってくることを切に願った。

 阿賀松からの電話が途切れたかと思った次の瞬間、再び携帯が震え出す。
 画面に表示されたのは先程と同じ名前だ。

「……ッ」

 身体の震えを堪えるように、俺は携帯を握り締める。
 早く切れてくれと、ただ願ったときだ。
 扉が開き、会長が戻ってくる。

「齋藤君、待たせたな………………何をしてるんだ?」

 あ、と思った時には遅かった。
 俺が握り締めているものを見た会長は力ずくでそれを取り上げる。
 しまった。
 慌てて取り返そうとするも、簡単に腕を掴まれる。
 そして、携帯の画面に目を向けた会長は顔色を変えるわけでもなく、躊躇いもなくその通話を切った。

「……ぁ……」

 なんてことを、と青褪める俺を他所に、すぐに震え出す携帯端末。それを操作し、会長は再び通話終了の文字を押し、そのまま電源を落とす。

「……しつこい男だな」

 そう一言、俺に何を聞くわけでもなく、携帯端末を自分のポケットに仕舞った会長は「これは俺が預からせてもらう」と静かに続けた。

「っ、そんな……」
「君には必要ないだろう。……それに、持っていてもあいつからのしつこい電話が掛かってきて君が疲労困憊するだけだ。それなら、君の煩いになるこれは手元にない方がましだ」

「安心しろ。君に無断でこれを使うような真似をしない。俺は他人の携帯を扱える程器用ではないからな」と、会長は続ける。
 それが本当なのかどうかは分からないが、それでも、心配の種はそこではないのだ。
 結果的に着信を拒否するような真似をしてしまったことに対して阿賀松の行動を考えると、ゾッとした。

「……大丈夫だ、あいつのことなら君が心配することはない」

 何も言えなくなる俺に気付いたのか、会長はそう言って優しく俺の後頭部を撫でてくれた。
 けれど、それでも、胸の突っかかった感触は離れなくて、俺は何も言えなくなる。

「……会長……、あの……」
「それより、監視カメラのことだったな。……場所を変えるか、ここだとどこで聞き耳を立てられているか分からない」
「……はい」

 不安ではないと言えば嘘になる。
 それでも、今は会長に従うのが懸命だと思った。
 完全に信用してはならない人だと分かっていても、ここで一人でいるよりかはましだ。
 俺は、会長とともに生徒会室へと移動する。



 ――学園敷地内、生徒会室。
 生徒会室には、見覚えのある人影があった。

「……」

 窓際に立っていた栫井平佑は、開く扉を振り返り、そしてそこに立っていた俺たちを見て僅かに目を伏せた。

「珍しいな、お前がこんな時間にここにいるなんて」

「何をしてたんだ?」と静かに会長は問い掛ける。
 こころなしか、その声が冷たくて、問い掛けられた栫井は「……何も」と小さく応えた。

「暇だったんで来ただけです。……この部屋、使うんでしたら俺出ていきますね」

 俺達と目を合わせないように、視線を外した栫井はそう続けた。
 以前のようにあからさまな敵意を向けてこないのは会長がいるからだろうか。
 それでも、さっき見た阿賀松と一緒にいた栫井の姿がこびり付いて離れなかった。
 ……栫井は、俺に気付いていないようだが。

「構わない。……その代わり仮眠屋には入ってくるなよ」

 ぎこちない会話。会長に視線で促され、俺は歩いていく。
 仮眠室。栫井がよく使っているといつの日にかに聞いたことがある。
 それでも、栫井は嫌な顔をすることはなかった。
「はい」と短く答え、そして、俺たちから顔を逸らす。

 扉を開けば、今はもう見慣れた光景が広がっていた。
 会長に背中を軽く叩かれ、「座れ」と命じられる。
 それに頷き返し、俺はベッドのふちに腰を下ろした。

 閉められる扉、そのまま会長は鍵を掛ける。
 あっという間に出来上がる密室に、自然と鼓動が加速する。

「先に君に伝えておこう。……監視カメラの映像は決定的な証拠にはなり得ないだろう」
「それって、どういうことですか……?もしかして、誰も出入りをしなかったって……」
「というよりもだな、ろくに記録されていないんだ。カメラに細工を仕掛けられたようだ。資料室前の映像は真っ暗だったよ」
「……ッそんな……」

 会長の言葉に、目の前が真っ暗になる。
 けれど、待てよ、それが本当だとしたら引っ掛かることがある。

「他の、他のカメラには映っていないんですか?……その、細工をしてるところとか……」
「……ない、わけではない。あるにはあるが、使えないだろう」
「……え……」
「唯一捉えた犯人らしき者の姿では個人特定するのは難しいだろう。なんせ、時間帯が時間帯だしな」

「監視カメラを細工されていたのは昨夜からだ。消灯時間過ぎ、次々とカメラが機能していかなくなっていた」会長の言葉を聞いて、背筋が凍るようだった。
 だとしたら、だとしたらだ。予め計画していたということになるのではないか。

「背格好とか、なんでもいいんです。何か、手掛かりになるようなものはなかったんですか?」
「暗いのもあるだろうが、細工した本人はこの学園のセキュリティをよく知っている人間のようだ。的確に死角を突いてカメラを使い物にしなくしてくれたよ」
「……ッ」
「そんな顔をするな……確証を手に入れることも確かだが、これはある意味大きな手掛かりであることも間違いないだろう」

 諭すような会長の言葉に、ハッとした。
 監視カメラの死角を突くことが出来る人間。それは、俺のような何も知らない人間には真似できない芸当だ。そこまでセキュリティについて把握してる人物となると、それは限られてくるはずだ。

「……しかし、ここの警備もザルだな。少し目を離した隙にこれとは……こうなると監視カメラもただの飾りと変わらん。……嘆かわしい」


 不愉快そうに、会長は吐き捨てる。
 そこに立っているのは、いつも遠くから見ていた生徒会長の顔そのものだ。
 ……やっぱり、会長は会長なんだ。それを感じることが出来て、少し、嬉しかった。
 けれど、

「……」
「……あの、会長……?」

 難しい顔をして押し黙る会長。
 何かを考えているのだろう、気になって、恐る恐る声を掛ければ会長はハッとして、そして、笑ってくれる。

「……怖い思いをしただろう。君は、一先ずその身を休めてくれ」
「あの、俺は、大丈夫です……それよりも、何か手がかりを……」

 そう立ち上がろうとすれば、やんわりと抑えられ、再び座らされる。

「……ここは君の出る幕ではない。そういう面倒事は全て俺に任せてくれ。……君は、ただの被害者なのだからな」

 そう言って、会長は優しく俺の手を握ってくれた。
 ひんやりとした手。優しい声が、余計俺の不安を掻き立てる。

 被害者。本当にそうなのだろうか。
 狙われたのは俺なのか、それとも、最初から阿佐美が狙われたのか。考えれば考えるほど、頭の中で疑問が渦巻いて気持ち悪かった。

 不気味だ。
 ただ阿佐美に庇われた、そう考えればいいのだろうが、それでもしっくりこない点が多すぎた。

 何故カメラは予め潰したのか。計画的なものだったのか。だとしたら、何故あの時俺が阿佐美に連れられて校舎裏に行くことを知られていたのか。それとも、片っ端からカメラを潰されていたということか。
 そもそも、会長の言葉はどこまでが本当なのか。

 俺には、現時点でそれらを知る術はない。

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