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3.???
少年A
意識はひたすら沈んでいく。
体の芯から凍て付くような感覚には覚えがあった。
足を滑らせた川の中、全身に纏わりつく水流は鉛のように重たく感じたことを今でも覚えている。
このまま冷たくなった僕の体は石になり、この川底に沈んでいくのだろう。
諦めかけたとき、水底から引き上げてくれ手はもう伸びてこない。僕を励ましてくれる手も、ない。
助けはこない。
はずなのに。
誰かが僕を呼んだような気がした。
「――……」
目を開く。
次に目を覚ましたとき、僕は川の中でも水の底でもなく真っ白な部屋の中、ベッドの上に仰向けのまま寝かされていた。
まず頭の中に浮かんだのはただ一言――ああ、まだ僕は生きているのか。それだけだった。
窓から差し込む光。それから天井。狭まった視界の中、自分の置かれた状況を確認する。
近くには点滴スタンドが立っており、そこからぶら下がるチューブは僕の腕に繋がっているのを見てここが病院だと理解した。右手にはギプスが嵌められていた。四肢の末端は痺れたように感覚がない。
薬の匂い。それから。
「………………」
懐かしい匂いがした。仄かな煙草の匂い。
柔らかな日差しが差し込む部屋に、確かにあの人の名残を感じた。
まだ僕は夢を見ているのかもしれない。それか、鼻がイカれているのか。
でなければ、そんなこと。
「……」
……見られたくなかった。
知られたくなかった。僕はどれくらい眠っていたのか。その間に何があったのかなんて知りたくもない。考えたくも。
体を起こそうとして、近くのスタンドを掴む。そのまま絡れるように立ちあがろうとしたが、結局スタンドを倒しただけで自力で立ち上がることなどできなかった。
物音に気付いたようだ。病室の扉が開き、看護師が入ってくる。それから慌ててベッドへと寝かされる。
安静にするようにと注意された後、医師らしき男が僕の前に現れた。色々話していたが、大半の内容は僕の頭に入ってこなかった。
その後医師とともに警察官が数名が話を聞きにきたが返事をする気にもなれず、僕は窓の外から差し込む日差しをただ眺めていた。
言葉の発し方も忘れたみたいに、ただ時間が流れるのを待つ。
――命に別状はない。安静にしていればすぐに退院できるだろう。
――ところでその怪我はどうしたのかい?
何度も病室にやってきては似たようなことを聞かれ、その度に言葉が発せないフリをした。心因性のショックが要因で言葉を発せないのだと向こうが勝手に勘違いをしてくれたら必要以上に聞かれることもなかったので丁度よかった。
面談は全て断った。親からの面談も拒否した。何を言われても、何を聞かされても応える気にもなれなかった。
耳から入ってくる断片的な情報から、慈門君と僕の関係が他の人たちにも知られているというのはなんとなく判断できた。
警察の人たちは慈門君のこと、それから犬馬先輩のことをしつこく聞いてきた。
その度に僕はただ黙って大人の人たちが帰るのを待っていた。
どうだってよかった。
土足で踏み躙られすぎて何も感じなくなったのかもしれない。
最初はただの演技のつもりだったのに、気付けば本当に言葉が出なくなっていた。言葉を口にしようとしても喉に突っかかったように引っかかる。
言葉の発し方すらも忘れ、それでもいいやと思った。
背骨を抜かれたように僕は腑抜けになっていた。
ただベッドに横たわり、肉体の修復を待つ。退屈な時間。窓の外の世界は呆れるほど穏やかで、鮮やかだった。それが網膜に突き刺さり、激痛が走る。苦痛だった。けれど、それを苦痛と思うことすらも疲れていた。
だから目を閉じていた。
誰がきても口を閉じていた。ただ退院する時を待った。何度怒鳴られて詰られて問いただされようが、疲弊しきっていた僕の心は動くことはなかった。
その時までは。
扉の外から聞こえてくる、少し大股な早歩き。靴底を叩きつけるようなその硬質な足音にぴくりと全身が反応する。その足音は扉の目の前で止まる。そして、ノックされる。
僕が目を開いたのと、病室の扉が開いたのはほぼ同時だった。
瞬間、鈍っていたはずの全身の神経が一斉にざわつき出すのを感じた。
乾いていた喉に固唾を流し込む。
病院の匂いではない、外の匂い。ほんのりと苦いその紫煙の匂いは以前よりも濃く感じた。
日頃変化のない環境にいるからこそなのかもしれない。だから、僕は。
「――……せ」
視界が歪む。真っ白な病室の中、カジュアルスーツがやけに浮いて見えた。
「……せん、せ……」
その顔を直視することはできなかった。顔を見られたくなかったから。こんな姿を見られたくなかったから、僕は隠れるようにシーツを引っ張り頭に被る。
恥ずかしかった。何もかも。今まで人目に晒されても何も感じなかったのに、常楽先生の姿を見た瞬間脳が暴れ出す。受け入れたくないと叫び出す。
「か、えってください」
「織和」
掠れたようなその声を聞いた瞬間、辛うじて繋ぎ止めていた一本の線が音を立てて切れるのが分かった。ぐにゃりと歪む視界の中、僕はシーツを頭まで被ったまま頭を抱えた。
先生の言う通りだった。全部。別れろという言葉を聞き入れなかったのは僕だった。
それを怒られるのも呆れられるのも怖かった。そんな風に真っ先に考える自分の幼さも何もかも、僕は。
「……織和」
シーツの上から落ちてくる声は恐ろしいほど優しかった。
「すぐに帰る。……今日は見舞いを持ってきただけだからな」
「……」
「俺にはお前ぐらいの年頃の人間が何をもらうのが嬉しいかさっぱり分からん。……指先はまだ使うのは難しいと聞いていたから、本もなしときたもんだ。……だから、その辺で買ってきたカットフルーツだ」
「……」
「食いにくかったら看護師に頼んでカットしてもらうといい。食えないものがあるなら持って帰って俺が食う」
「それで問題はないはずだ」そうぶつぶつ呟く常楽先生はいつもと変わらない。
本当は先生だって僕を責めたいはずだ。どうしてこんなことになったんだって。
先生だってきっと他の先生たちや校長先生に怒られているかもしれないのに、或いはもっと別の組織にも――。
それなのに、先生は僕を責めない。何も聞いてこない。いつもと変わらない調子で、教壇に立って話が思わず脱線したときのように先生は話す。
それから。
「……それじゃあ、俺は帰る。邪魔したな」
ベッドの側、先生の影が動くのを感じた。
建前も何もかも無意味だった。考えるための脳味噌も今はただ一つの思考に囚われていた。
「――、……っ」
ただ一つ。
シーツから伸ばした手で、そのスーツの裾を掴んだ。
痺れる指先。慌てて起きあがろうとしたおかげでシーツはずれ落ちる。乱れた前髪の下、こちらを振り返った常楽先生と目があった。
「……っ、……」
行かないで下さい。お願いだから。
僕を見捨てないで下さい。
喉元に突っかかった声は言葉にならない。ただ喘ぐように呼吸を繰り返すことしかできない僕を見下ろし、先生はそのまま「そうだな」と小さく口にした。
「……手土産を持ってきて怪我人にそのまま食わすわけにはいかない。……何か飲み物を貰ってくる。お前は待ってろ」
壊れたように溢れて止まらない涙を前に、先生は僕の膝の上にそっとティッシュの箱を置いた。
それから病室を後にする先生に、僕はまた泣いた。
まだ怒鳴ってくれた方が良かった。罵って、殴ってくれた方が。
だって僕は最低のことをした。先生を裏切った。
それで――。
「……っ、……ふ、ぅ……」
嬉しい。切り揃えられたカットフルーツが詰まったその容器を見つめたまま、ただ涙がぼろぼろと溢れる。
夢から現実へと引き戻されたようだった。そして、今の剥き身の僕にとって現実――常楽先生はあまりにも向き合い難いものだった。
それなのに、切望している。なにもかもが矛盾している。
「ぅ、ひぐ……っ」
――生きている、まだ。
ずっと会いたかった。会いたくなかった。諦めていた。嫌われたって仕方ないと思っていた。
なのに今、どうしようもなく僕は先生に側にいてほしかった。今だけじゃない。ずっと。
心の臓まで棘だらけになる前から、その後でもずっと居てほしかった。叱ってほしかった。本当にどうしようもないやつだと。
――それだけでよかったはずなんだ。
白湯の入ったボトルを片手に戻ってきた先生は泣きじゃくる僕を見て何も言わずに僕の手を取った。
「……せ……」
先生、と言葉を発するよりも先に強く握りしめられる手に息を呑む。強く握られたその手のひら越しに伝わってくる熱に、力強さに。
それから――僅かな震えに。
「……」
何も言わない。それでも、痛いほどの先生の感情が流れ込んでくるようだった。
ごめんなさいだけでは足りない。何回口にしてもきっと意味がない。だから僕は精一杯、先生の手を握り締め返した。手のひらがこのまま溶け合って皮膚が結合したっていい。そう思えるほど先生の手は熱く、大きかった。
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