恣意的なぼくら。

田原摩耶

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3.???

05※

 思い出したくもないことを思い出したのは、折のことがあったからだと分かった。

 利千鹿と出会ったあの日。あいつに助けられなかったらきっと、既に俺はここにいなかっただろう。
 高校に上がった兄は余計荒んでいた。高校受験に失敗したからだ。あんだけ偉そうにしていたくせに第一志望の学校は落ちて、結局滑り止めの高校に進学した。
 意地でも地元の馬鹿高校は選びたくなかったのだろう。毎朝早い時間に電車で通学するおかげで顔を合わせずに済むのは幸いだった。
 けれど、高校生になった兄は酷いもんだった。
 まるで人が転落していくのを見ていくようだ。受験失敗を全て周りのせいにし、家の中では王様のように振る舞う。俺に対してだけではない、親に対してもだ。
 八つ当たりするように怒鳴り散らし、母が泣いてる。親父も帰ってくるのが遅いから止めるやつはいない。
 俺が止めようとすれば、母に怒鳴られる。代わりに俺が殴られるしかなかった。
 俺が耐えて済む問題ならよかった。ガキの頃に比べれば身長も伸びて、以前よりも痛みに耐性がついてるのが自分で分かったからだ。

 そんな兄が学校で問題を起こすのも時間の問題だった。
 教師の前ではいい顔して、周りの生徒に対して振る舞っていた兄が周りに敵を作るのは当然だった。
 兄貴と同じ制服のやつらが家の近くを彷徨いていたのを見たとき、最初は兄貴の友達だと思った。
 けれど違う。その手に持っていたバッドを見て咄嗟に逃げ出したが――遅かった。



 家の中に逃げ込んで出てこない兄を脅すため、俺を使って呼び出すつもりだったらしい。
 そんなことあり得ないのに、兄貴が俺を助けるはずがないのに。それを知らないあいつらは散々俺を殴って、蹴って、殴って。頭から被せられる汚水と血の匂いで鼻はとっくにイカれてた。なんの水かも分からないものを飲まされ、兄貴は避けてきた顔面もぶん殴られて、その様を動画で撮られて――。

『――うわ、君生きてる?』

 あの時、潰れかけた視界の中で見たあいつ――犬馬利千鹿は一瞬天使のように見えた。
 とうとう死んだのか、そんなことを思う俺の手を掴み、そのままずりずりと歩き出す利千鹿。
 やめろ、ともまた痛い目に遭わされるのかと身構えることもない。何もかもに諦めていた。もうどうだってよかった。あの家の扉を蹴破られて、家の中を荒らしまわされても兄がリンチされようがどうだってよかった。
 そんな俺を利千鹿は『可哀想』だと言った。

 あいつは俺を自分の家に連れて帰り、手当をした。
 風呂に入れて、服も下着も着替えさせられる。

『ここ、好きなだけいたらいいから』
『……アンタの家族は。迷惑だろ』
『まあ、俺の家族っていうなら……お前もかな』

 だから、いいよ。と。
 利千鹿は変なやつだった。利千鹿と一緒にいる先住民の藤も、変なやつだ。
 狂っている。赤の他人のくせに本当の家族みたいに同棲しては、セックスをしている。
 ここにいたらおかしくなると分かっていても足が動かなかった。
 今でもあの時のことを覚えている。利千鹿が俺に教えてくれたことも。

『踏み躙られたくないなら、お前が踏み潰しちゃえばいいんだよ』

 悪魔のような囁き声。

『天翔、お前は優しすぎるんだよ。お前が我慢して幸せになったことあったか? 他のやつらは自分が気持ちよくなることしか考えてねえんだからさ、お前もそうすりゃいいんだよ』

 真っ直ぐにこちらを見て微笑む顔は楽しそうで。

『いいじゃん、最悪でも』
『り、ちか』
『お前みたいな馬鹿真面目なやつが我慢してんの、見てらんねえよ』

 手を掴まれ、袖の下を捲られる。
 自分で傷つけたその裂傷を見て、利千鹿は笑った。

『我慢するなよ、慈門』
『……っ』
『別に殺せって言ってない。ただ、やられたらやり返す。それだけだろ?』

 利千鹿の言葉は甘い。猛毒のように脳に染み渡っていく。
 いつの日か、まだ優しかった兄のように俺に笑いかけてくれる。包み込むように俺を抱き寄せ、利千鹿は微笑んだ。

『俺がお前を人間にしてやるよ、天翔』




 初めて殴ったのは兄貴だった。
 俺が兄貴のせいでリンチされたと知って、数日後に帰ってきた俺を見た時の顔をまだ思い出せる。
 部屋に篭って出てこようとしない兄貴の部屋の扉を蹴り飛ばす。あまりにも呆気なく外れる扉に、部屋の片隅で固まっていた兄貴を見つけたときの感覚はまだ覚えている。
 せめて一言、「悪かった」と言ってくれればよかった。「大丈夫か」と怪我の心配をしてくれればきっと満たされたのだろう。
 けれど、兄は俺が帰ってきたことを恐れていた。兄の素行を知って、それを親にも知らされることを恐れたのだろう。
「ふざけんな」「出ていけ」「お前なんて死ねばよかったんだ」と投げつけられる文房具に参考書。
 ちっとも痛くない。気づけばあんなに大きいと感じていた兄との身長差はそれほどなかった。
 それどころか、運動と無縁の兄の体を見て「こんなやつに俺はずっと怯えてたのか」と落胆したくらいだ。

 兄貴を殴った日、利千鹿の言葉の意味を理解した。
 射精したときのような高揚感。満たされる征服欲。普段の態度からは想像つかない怯えた目、口から漏れる情けない悲鳴。
 浴びる怒声罵声も今まで生きてきた中で一番気持ちよかった。

 利千鹿は俺の先生だった。
 このクソみたいな人生を生きていく方法を教えてくれた。
 今まで兄貴は俺を殴ってさぞ気持ちよかっただろう。なら、殴っても当然だ。
 何も言わない逆らわないサンドバッグが身近にいりゃ、俺だって毎晩そうする。

 俺をリンチした連中も全員調べ上げる。兄貴を脅して名前を吐かせた。その後、利千鹿に手伝ってもらって全員に同じことをした。謝罪させて、動画を撮る。

 その日からだった。兄貴と立場が逆転したのは。
 あれだけ偉そうに振る舞っていた兄貴は家から逃げるようになった。親も異変に気付いたのだろう。家の中に引かれた線は明確に壁になる。
 兄貴への飯もデザートも全部俺が食う。それも誰も何も言わなくなった。




 病室の外から聞こえてくる子供の笑い声がやけに耳にこびりついた。馬鹿みたいに長閑な日差しが刺すように責め立ててくる。こうしてベッドの上に横になっていることすらも罪であるかのように。

「……」

 他のことなんてどうでもよかった。
 折が居てくれれば、俺は息ができた。
 どこで間違えた?
 何度も繰り返した問答が脳裏に浮かび上がっては弾けて消える。折が泣いていた。折が怒っていた。
 見たことのない折の目。聞いたことのない折の声。
 手当された全身の傷跡がガーゼの下で疼く。

 ただ、謝っても許される問題ではないと頭では理解できていた。何よりも自分には折があれほど怒った理由が理解できなかったからだ。
 折は寛容だ。どんなことがあっても、多少の無茶や我儘に対しても嫌な顔をせず聞いてくれる。
 けれど、思い返せば付き合い始めてから何度か折に拒まれたことはあった。それでも最後はいつも折が受け入れてくれた。
 ――違うな。

「……」

 受け入れさせた。
 だってこの先ずっと一緒にいるのだったら俺の性格もわかって欲しかったから。俺が求めているものを理解して欲しかったから。受け止めて、全部許して欲しかった。「慈門君は必要だよ」と言ってくれるだけでよかった。

 折はそれを拒否した。別れたいと言い出されるのが怖かった。折にまで全否定されたら俺に残されたものはなにもない。誰からも必要とされなくなる。
 俺は折が居てくれたからこそ、なんだってできたのに。

『天翔のそれは恋じゃないでしょ』
「……違う」

 折に接近命令出された時、ほんの一瞬安堵した自分に気づきたくなかった。
 心配しなければならないのに、目を覚ました折にまた否定されたらと思うと指先が冷たくなる。

 もし、俺の好きだった折がいなくなっていたら?
 俺はまだ、折のことを好きでいられるのか。

「……」

 頭を掻き毟る。呼吸を繰り返す度に肺は重たくなっていく。
『死ね』と口にした時の折がかつての家族と重なり、腹の奥が焼けるように熱くなった。じっとりと全身に滲む汗を拭う。俺はまた。
 命綱だった思い出すらも全て塗り替えられていく。その思考を中断させるように腹を殴った。

「――……っ、……」

 鈍い痛みが腹部から頭のてっぺんまでじんわりと伸びていく。何度も腹を殴る。鬱陶しい思考を吹き飛ばす。痛みは重なる度に甘く痺れていく。

 折は頭のいいやつだ。優しくて、俺のことを理解してくれている。
 あのときはお互い混乱していた。浮気のことだって、折が勘違いしたせいで大きく受け取りすぎただけだ。
 ちゃんとまた俺が折のことを好きだって、折のためだって分かってもらえればまた上手くいく。そうだろ?

「……そう、じゃねえと……」

 頭の奥が痺れてくる。全身を巡る血液は下半身へと集中する。ああ、くそ。だめだ。
 折とセックスしたい。
 あの時折に首を絞められたときのことを思い出すだけで熱が増していく。痛みがトリガーになったのだろう。あれ程鬱屈とした気分は次第に高揚へと変化していく。
 ここに外部から人を呼ぶわけにもいかない。このまま放置しては根腐れを起こしてしまいそうだ。
 シーツを蹴り上げ、下半身を弄る。布が邪魔だ。高熱に魘されたような頭の中、ただ射精するためだけの自慰に耽る。
 折の言った通りだ。終わってる。

「はっ、……く……っ」

 目の前に折がいたら。手の届く範囲に折がいたら、もう二度と俺に死ねと言えないようにしてやれたのに。違う。――俺は。
 大事にしたかった。折だけは他のやつらと同じところまで堕ちてほしくなかった。俺たちは肉体だけじゃなくてもっと深い部分で繋がってて、わかり合ってるはずだったのに。
 怒りが脳を満たしていく。汚れないように裾を噛み、呼吸に合わせて反応する性器をただ無心で扱いた。
 気持ち良くなくとも射精はできる。溜まり込んだ感情の膿を吐き出すように、掌に吐精した。
 そのままウェットティッシュで精子ごと手を拭い、ゴミ箱に捨てた。一時的に熱は治った代わりに虚しさが襲いかかってくる。

「――」

 倦怠感。喪失感。それらを誤魔化すように目を閉じる。
 折の笑顔を思い出そうとしても、あの冷たい眼ばかりが瞼裏に浮かんでは剥がれなかった。

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