誰が女王を殺した?

田原摩耶

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歯車が動き出す日

酒屋のトカゲと芋虫

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 とにかく今は体力温存することが大事だ。
 エースが用意してくれた風呂に入り、体の汚れを落とす。
 一般的な庶民の家の風呂がこんなにも狭いことに驚いたが、文句は言ってられない。
 あの男と城にいた間ずっと生きた心地がしなかったが、一人、ゆっくりと浴槽に浸かればようやくどっと現実味が押し寄せてくる。
 緊張は抜けない。……恐らく今頃アリスも城に戻ってるだろう。そして、サイスから自分の逃亡を知らされるか。
 子供のような癇癪を起こす男だ、そのことを考えるととてもではないがいつものように長風呂をする気にはなれなかった。
 浴槽を上がれば、待機していたエースは木製の盥に入ったシーツで濡れた髪や体を拭ってくれる。

「……王子、こんなにお痩せになられて」

 また自分のせいだと思ってるのだろう。
 辛そうな顔をして呻くエースに体を見られるのが嫌になって、「もういい」と手を振り払ってバスローブを羽織る。

「王子……」
「エース、それよりもお前には聞きたいことがいくつもある」

 そう向き直れば、エースは「分かりました」と頷いた。

「部屋を移動しましょう。ビルに王子の部屋を借りています」

 そういうエースに誘導され、浴室から更に奥の部屋へと向かう。帽子屋ほどの豪奢な内装ではない。
 冷えた部屋の中、カツカツと二人分の足音が響く。
 僕の部屋だと連れてこられたそこは寝室のようだ。粗末な部屋だが、今となってはあいつがいないというだけでも安心できるのでおかしなものだ。僕はソファーに腰を掛けた。硬いクッションに体が痛むが文句は言ってられない。

「それで……何から話せばいいのか、その……」
「……三日月ウサギが言っていた。アリスがサイスの処刑を決めた、と。あれはどういうことだ」

 聞きたいことは色々あったが、ずっと気がかりだった。
 エースは苦渋の面持ちのまま、「それは」と言い淀む。

「……昼間、町中で探りを入れてるときに聞いたのです。あの男が今夜、公開処刑するために広場を借りた、と。そしてその対象は裏切り者の城の人間と兵士だと」
「なんだと?」
「あくまでも人伝の情報でしかない。けれど、あいつは城の人間を自分にとって都合のいい人間で作り変えるつもりです。……サイス、あいつはアリスに忠誠を誓っているわけではない」
「だから、逃がそうとしたのか」
「……勝手な判断、申し訳ございません。ですが、あいつと対峙したときに分かりました。あいつはまだ正常です、それから他にも……白ウサギ様も」
「っ、…………」

 自分が逃げ出すことばかり頭にあった。
 大切な人間たちに何も伝えられていないことにただ悔しくなる。今、城中は騒ぎになってるに違いない。

「三日月ウサギはサイスに伝えることはできていましたか?」
「……ああ。けど、サイスは信じてはいないようだったがな」
「やはりそうでしたか。ですが、あれも考える頭くらいはあるはずです。……どうにか白ウサギ様たちと合流して逃げてもらいたいところですが」

 あの場にはまだ三日月ウサギがいたはずだ。
 ……なんとかあいつには頑張ってもらいたいが、不安がないわけではない。

「次は王子の番です。……俺がいない間、何があったのかお伺いしてもよろしいでしょうか」

 少なくとも、城下町を探っていたエースならば知ってるはずだろう。
 どこから話すべきか、思い出したくないこともあった。とにかく僕は記憶を辿る、エースと別れたあの番、アリスに連れて行かれたあの日から。
 そしてそれをエースにへと伝えたのだ。
 アリスの婚約者になったこと。あの男は僕を女王にするつもりだと。
 ――そしてあの男は、なにかが明らかにおかしいと。

「あいつが処罰した人間が翌日には無傷になっていた。……僕もその一人だ。あの晩、僕はあいつの目の前で首を切った」
「っ、……!」
「……しかし、次に目を覚ましたときに首は元通り。傷一つすらない。けれど、僕にもあいつにも僕が自害を試みた記憶もある」

 あいつは僕に言った、自分はストーリーテラーだと。狂人の戯言だと思いたかったが、あの男が常人ではないのは明らかだ。
 僕の話を聞いていたエースの顔から血の気が失せていく。言いたいことは色々あるのだろう、それでも口を挟まない。白くなる程唇を噛み締め、堪えている。

「ディーとダム、あいつらも地下の懲罰房で拷問を受けていた。けれど僕が目を覚ましたときは元気に配給をしていた。……それも、自分たちが拷問を受けていた記憶も傷も全てなくなっていた」

「信じがたい話だと重々承知している。……僕自身、今でも信じることができない。けれど夢ではなかった、確かに現実だったのだ」あまりのショックに頭でもいかれたのかと思われても仕方ないとわかっていた。けれど、全て事実だった。

「信じます」
「……っ、エース……お前は、僕がおかしくなったとは思わないのか?」
「思いません。……王子は王子です。俺の王子です。それに、アリス、あの男が何かしら隠しているのは明らかです」

「王子の話からするに、サイスたちも処刑して自分の傀儡へとするつもりなのでしょう」いつもの調子で続けるエースの言葉が今は心強かった。
「ですが」とエースは忌々しげに下唇を噛む。

「……貴方に自刃させるような真似をさせるなんて、あいつのその妙な能力に助けられたことがなによりも許せない」
「エース、それはいいんだ。あれは、ああするしかなかった」
「それでも、もしあいつが貴方を助けることがでいなければと思うと……っ」
「エース」
「……申し訳ございません、王子。全て、自分の力不足故起きたこと。……俺は……っ」

 真面目な男だ。そして、責任感が強い。

「泣き言を言うのは後にしろ、エース。僕はこうして生きてる。……ならば過去を悔やむよりもやることがあるだろう」
「……っ、王子」
「……取り敢えず、お前も風呂に入ってきたらどうだ」

 少しは塞いだ気も晴れるだろう。そう勧めれば、やや躊躇うエースに「命令だ」と続ける。エースは「はい」と顔を上げ、背筋を伸ばした。
 そして浴室へと向かうやつを見送った。



 エースはすぐに浴室から出てきた。
 余程外のことが気になるらしい。もっとゆっくりしてくるといいと言える状況でもない。
 いつでも動けるように、動きやすい服に着替えてはしっかりと帯剣するエースを見ていた。

 そのとき、部屋の中に時計の鐘が響く。
 神経が過敏になっていたようだ、その音に反応したと同時に上の階から物音が聞こえてきた。
 ――扉が開く音だ。

「店じまいの時間です。……恐らくビルでしょう」

 身構える僕に、エースはそう静かに告げた。
 エースの言葉は間違っていなかった。
 扉が開き、姿を現したのは店内でカウンターに立っていた胡乱な男だ。
 言動は変人だが身なりだけは整えている帽子屋とは対照的に、どこかだらしない印象を覚える男だった。エースが「ビル」とその男の名前を呼べば、扉を施錠した男はなにかを答えるわけでもなくそのままソファーへと腰を掛けた。
 そして僕をちらりと一瞥だけし、そして興味なさそうに視線を外した男――ビルは咥えた煙草に火を付けるのだ。
 僕に挨拶すらしないビルに、恩人とは言えどエースは難色を示す。

「ビル……貴方は……」
「そこのお坊ちゃんのことはお前からもよく聞いてる。……あんたも聞いてんだろ、王子様」

 掠れたような低い声。深く煙を吸ったビルはそう投げやりな視線を向けてくる。
 見た目通りの、無作法でだらしない男だ。
 それでも、今はそれくらいの距離感の方が有り難いとすら思えるのだからおかしな話だ。
「ああ」と頷き返せば、エースが何か言いたげな目でこちらを見てくる。

「……けど、今の僕は王子ではない。……ロゼッタだ。エースたちが世話になった」
「そういう堅苦しいのは結構。それに、丁度人手不足だったんだ」
「……人手?」
「ここに置かせてもらう代わりに店の雑務等を手伝わせていただいてました」

 ああ、そういうことか。
 エースならまだしも、三日月ウサギが使い物になったかどうかが怪しいが、ビルの反応からして悪印象は感じられない。

「……帽子屋からアンタを頼るようにと言われたが、これ以上は迷惑を掛けられない。風呂と服は助かった。追手が来る前にここからは立ち去らせてもらう」

 それは湯に浸かってる間にも考えていたことだった。
 アリスならばこの国の家一軒一軒を虱潰しに探し出してもおかしくない。このまま長期滞在することは不可能だろう。

「王子……」
「ああそうだな。さっき外を覗いたらもう街中軍人さん方が大勢散歩しやがっていた」
「……ッ」
「あんたらはこの先の宛はあんのか?」

 短くなった煙草をテーブルで揉み消し、そして新しく二本目の煙草を咥えるビル。
 その問い掛けに、思わず言葉に詰まった。
 ……やることは決まっていたはずだ。けれど、あまりにも分が悪い。

「……それは」
「今は落ち着くまでここにいた方がまだ安全だ。この地下のことは俺と、お前たちと帽子屋と……あと一匹しか知らない」

「明日の朝には森林まで捜査網を広げるだろう。そうすれば軍人も手薄になり、動けやすくなるはずだ」淡々としたビルの言葉に、喉元に突っかかった小骨が外れたような気持ちになる。
 同時に、ビルの方からこうして提案してくれることで荷が降りたような気持ちになる自分を恥じた。

「今晩はここにいろ。日が登ってから出ていくなり残るなり好きにすりゃあいい」
「……あんたは、なんでここまでしてくれるんだ。もし僕たちを匿ってると知られたら、あんただって死刑では済まないかもしれない」
「それがどうした?」
「――……え」
「俺は別にどうなっても構わん。……それに、帽子屋には借りがあるからな」

 あの変わり者の帽子屋の知人というのだから覚悟をしていたが、この男も相当な変わり者だ。
 ――だからこそ、今はただその言葉に救われる。

「……ありがとう」
「いいっていいって、それにビルとの二人暮らしも飽きてきた頃だったしねえ」

 それは突然のことだった。
 まるで当たり前のように隣に座っていた青年がへらりと微笑むのだ。
 音も立てずに現れた第三者の存在にエースも気付いていなかったようだ。
 思わず立ち上がりそうになったとき、ビルは「ディム」と疎ましそうに呟いた。

「でぃ、ディム……?」
「ハーイ、楽しんでる? 皆浮かない顔しちゃってさ、せっかく出会ったんだ。記念にお茶でもしない? あ、ビルドリンクよろしくね~」
「……そいつのことは無視していいぞ」
「俺はディムだよ~。よろしくね」

 言いながら、呆気に取られる僕の手を勝手に握って握手する胡散臭い男――ディムに辛うじて「ああ」と答えることが精一杯だった。
 そして思い出した。この男、店のバーで呑んでいた男だ。
 いや待て、そもそもディムという名前に聞き覚えがある。

「……ディムって、帽子屋のところにいた芋虫か……?」
「え、うそ。あいつまだあの芋虫大事にしてんの? ここまできたら健気すぎて泣けてくるね」
「ディム……お前はまた」
「あれは俺がハッターにプレゼントした俺の分身ちゃんだよ。本物はこっち。あ、ハッターには俺がここで生きてるって秘密だよ」

 なんて、いたずらっ子のように微笑む目の前の男に僕はただ言葉を失っていた。
 帽子屋ともビルともまた違う変人だ。
 ……どうも、こうも軽い相手は苦手だ。
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