花葬

田原摩耶

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第三章

02

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 どれほど眠っていたのだろうか。
 今が朝なのか夜なのか時間感覚もわからなくなっていた頃、ふわりとどこからともなく漂ってきた甘い蜜のような匂いに目を覚ます。
 そして、ふに、と唇に触れる感触に息を飲んだ。

「……ごめんね、起こしちゃったかな」

 そこには外から帰ってきたばかりなのだろうか、上着を抱えたままベッドに腰をかけていた花戸がこちらを見下ろしていた。
 いや、と答えようとして喉が乾いたあまり声が出ないことに気付く。

「あぁ、喉が乾いたんだね。……ほら」

 そう、予め用意していたらしい水の入ったボトルを当たり前のように口に含む花戸。
 そのままやつの細い指に顎を掴まれ、持ち上げられた。咄嗟に抵抗しそうになるのを堪え、俺は口を開いて花戸の唇を受け入れる。

「……っ、ん、ぅ……っ」

 背中を撫でる手に抱き寄せられ、そのまま舌伝いに咥内へと水を流し込まれるのだ。やつの体温でぬるくなった水を意識しないよう、俺はそれを奥へと押し流す。

 これも、もういつものことだ。
 普通に水を飲ませるという頭はこの男にはないのだろう。時折、空になった咥内で舌を絡ませてくる花戸に吐き気が込み上げてくるのを必死に抑え込む。


 ――自由を得るため、花戸を安心させる。
 そのためにやつに従う。逆らう気などなくなったと思わせなければならない。

 頭の中で何度も繰り返し、ボトルが空になるまで俺はその行為を受け入れた。



 今すぐにでも喉の奥に指を突っ込んで全てを掻き出したかった。腹の中を洗浄したかった。それでも堪え、花戸が求める俺を演じることを選んだ。
 花戸の家にやってきて、それから実家に顔を出してからどれほどの時間が経ったのか最早俺にはわからなかった。

 花戸は家にいる間ずっと俺を抱くか、触れるか、まるで家族かなにかのように振る舞い、接してきた。
 そして家の中にいる間、あいつは俺に自分のことを『お兄ちゃん』と呼ぶようにと強制した。それを拒んだり、ほんの一瞬でも詰まればあいつは気分を損ねる。そして、いつもよりも乱暴に俺を抱くのだ。

 それでも、当初のように暴力を奮われることも首を絞められることもなくなった。
 花戸自身はなにも変わらない――変わったのは俺だ。

「侑とはどんな話をしてたんだ?」

 そんなある日、いつものように人を散々犯したあの男はベッドの上、俺を抱いたままそんなことを尋ねてきた。

 俺は、この男のこういうところに何よりも吐き気を覚えた。自分が殺した人間のことを聞いてくる。
 最初、自分を兄と呼ばせるくらいだから兄の存在を忘れさせようとしてくるのかとも思ったがどうやら違うらしい。花戸の考えていることなど何一つ理解できないが、不愉快極まりないことには変わりない。

「……別に、大したことは」
「そんなことはないはずだよ、君たちは大層仲良かったらしいじゃないか」

 思わず奥歯を噛み締めた。誰から聞いたのか、なんて聞きたくもなかった。
「それとも、もう忘れちゃったのかな」なんて言いながら背中にくっついてくる花戸。相変わらず拘束されたままの体では、花戸の腕の中から逃げ出すこともできない。
 兄との、侑との思い出は俺と侑だけの思い出だ。――それを、こんなクソ野郎にこれ以上土足で踏み荒らされるのだけは耐えられなかった。

「――ああ」

 それでも。そう嘘でも口にした瞬間、胸の奥深くが大きく音を立てて軋んでいく。もう二度と戻れない兄との思い出がひび割れていく。

 侑が家にいるときのこと、会話、兄の表情を一度たりとも忘れたことなんてなかった。
 それは、花戸のことを兄と呼んだあの日から日に日に記憶は濃くなっていくばかりだった。記憶の中の兄を支えにすることしかできないからだ。
 そんな俺の本心を知ってか知らずか、花戸は嬉しそうに小さく笑った。

「……そっか、まあそんなものだよね。だって、君たちが最後に会ったのは侑が家を出る前だったもんね」
「……」
「ああ、ごめんね、間人君を悲しませたいわけじゃなかったんだ。ただ、興味があったんだ。もしなにかが分かれば俺が君のその寂しさも埋められるんじゃないかってさ」

 自惚れかもしれないけど、と少し恥ずかしそうに笑う目の前の男に腹の奥からどろりとマグマのようなどす黒い感情が溢れ出す。
 あまりのことに言葉を失う俺に構わずそっと抱きしめてくる花戸は「でも、大丈夫だよ」と耳元で囁くのだ。

「これからはもう寂しくないよう、一緒に楽しい思い出も作っていこうね」

 ずっと、兄の復讐のことで頭がいっぱいだった。兄を手に掛けた憎むべき犯罪者だから、だから罪を償わせるために警察に突きつける。
 絶対に同じところまで堕ちるつもりはない――そう思っていたのに。
 自分の腹の奥、芽を出していたそれがいつの間にか大きな真っ黒の花弁をつけていた。





 それから毎晩、眠っていると侑の夢を見る。
 侑が俺を見下ろしているのだ。冷たい目で、ただこちらをじっと。
 俺はただ「ごめんなさい」と侑に泣いて謝り続けた。俺の兄はたった一人だけだ。だから、許して。そう、兄に謝り続けた。

 そんな夢を見て気が休めるはずなどなかった。
 飛び起きるように夢を中断させ、ぐっしょりと濡れた額を拭う。

 花戸は俺の手錠を外すようになった。
 とはいえど、花戸が家の中にいるときだけだ。花戸がどこかへ出かけるときにはいつも手錠をつけられていた。本人は『またこの間のように転倒しないためだ』などと言っていたが、どうでもいい。

 もう少しの辛抱だ、と挫けそうになる自分を叱咤する。

 そのもう少しがいつくるかは分からない。それでも、着実に前に進めているはずだ。
 自由になった手を見詰めたまま、俺は寝室の扉に目を向ける。
 部屋の向こうでは花戸が食事の準備でもしているのだろう。俺は小さく身体の関節を動かし、慣らした。


 足の拘束を外されて久し振りに自分で歩こうとしたとき、踏ん張り方がわからなくなっていて転倒しそうになった。想像以上に俺の身体には限界がきていたことにショックを受けるとともに、早く以前のような体力を取り戻すことを努めた。
 自由を得る代わりにあいつに媚び諂わなければならないクソみたいな環境で、ようやく俺は自立して歩けるまで感覚を取り戻すことができたのだ。
 それでも違和感はまだある。歩く度に股の奥が痺れるように疼くのを感じながら、俺は寝室の扉に手を伸ばす。そのまま俺は扉を開いた。

 窓一つない俺の寝室と比べて他の部屋は窓が多く、眩い陽射しを取り込んでいる。だからこそ余計、部屋全体が眩しく感じた。

 キッチンには花戸が立っていた。
 扉が開く音に気付いたらしい花戸はこちらを振り返る。その手にはターナーが握られていた。

「ああ、おはよう間人君。丁度良かった、もうすぐ朝ご飯の準備ができるから待っててね」

 何かを焼いている最中のようだ。俺はそのまま花戸の元へと近付く。

「……なに、作ってんの?」
「ん? リゾットだよ。この間、君が食べたさそうにしてたからね」
「……ふーん」
「味見する?」

「ん」と小さく頷き返せば、小皿を用意した花戸はそのまま一口分取り分け、俺に「どうぞ」と渡した。そのまま顔を寄せ、犬食いする。兄だったら行儀が悪いと眉を寄せただろう、けれど花戸はただ頬を緩め、俺を見下ろしていた。

「どうかな」
「……おいしい」
「そっか、よかった。もっと美味しくなるよう頑張るからね」

 花戸は空になった小皿をシンクに置く。
 本当は味など分からない。恐らく美味しいのかもしれないが、舌先は麻痺したように味覚を感じることはなかった。匂いもそうだ。なにかを焼いている音から料理しているのだということが分かるくらいだ。

「わかった」と花戸に呟き、俺はそのままリビングのソファーへと歩いて向かう。股関節が痛く、真っ直ぐに歩くのは困難だった。
 恋人のフリ、兄弟の真似事、家族ごっこ――不毛極まりないと思う。それでも、そうすることを選んだ。
 ここまできてしまったのだ、最後まで貫くことしか俺には頭にはなかった。





「美味しいかい、間人君」
「ああ」
「そっか。……ああ、熱いだろう、貸して」

 人の代わりにふーふーと料理を冷ましたあと、花戸はそのままあーんと人に食べさせようとしてくる。
 俺はそれにぱくりと食いつき、スプーンの上に乗ったものを喉の奥へと押し流した。

 ごくりと喉が鳴るのを見て、花戸はほっとしたように頬を綻ばせた。

「この間は冷まし忘れたせいで君の口に火傷を負わせてしまったからね、……ほらゆっくり噛んで」
「……うん」
「おかわりもあるよ。それと、スープも……ここ最近低体温みたいだったから身体が温まるスープのレシピ、ネットで調べてみたんだ」

「食後にでも飲んで」と置かれたスープ皿を一瞥する。最初の頃に比べて、花戸の料理の腕前も上がっているのだろう。肝心の味はわからないが、見栄えや盛り付けを見てもそんな気はした。
 ……俺にとっては興味がない。腹を満たしてくれるのなら、毒が入っていなければ全て同じだ。
 何が楽しいのか、毎回花戸は俺が食事を終えるまで自分が食事をすることはしなかった。
 ただ俺が料理を口に運ぶのを見て幸せそうに頬を弛めるのだ。

 俺はこの時間が大嫌いだった。

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