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第三章
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しおりを挟むあれから花戸に寝室へと連れていかれ、そのままベッドに寝かされた。
廊下で眠りこけていたせいだろう。手足は冷え、寒気が全身に回っていた。
花戸はそんな俺の体を抱きしめ、「ごめんね、間人君」と何度も口にするのだ。申し訳ないと思うのならせめて一人で眠らせて欲しかったが、湯たんぽ代わりに花戸の体はちょうど良かった。
……ただそれだけだ。だから何も言わず、目を瞑って休むことにした。
次に目を覚ましたのは全身の寒さが原因だった。
手足は相変わらず寒く、震えが止まらない。なのに身につけていたシャツはぐっしょりと濡れていた。
一緒にベッドで横になっていた花戸は俺が起きたことに気づくとすぐに体温を測らせた。それから、「薬、用意してくるよ」と俺の額の汗をハンカチで拭う。
――完全に風邪を引いた。
それは俺でも分かった。
だからそれよりも病院に連れて行ってくれ――そう言いたかったが、言葉を発するのも怠い状態だ。
咳することしかできない俺に花戸はまるで自分が被害者のような顔をする。それから、「すぐ戻ってくるから」と俺の手を撫で、部屋を出て行った。
病院に行かずとも今なら往診を呼ぶことも可能だ。
俺に金をかけたくないのか、いや、元よりこの男は人殺しだ。そりゃあ簡単に他人に手の内を明かすような真似はしたくはないか。
それに、今の俺の体を見られて都合が悪いのは花戸だ。
人のことを好きだと抜かしながらもそれくらいの頭はあるのだ。所詮ママゴト、犯罪者の一人遊びだと分かっていたが。
「……げほっ」
花戸のいなくなった部屋の中、目を瞑る。
横になっているだけなのに体力をベッドに奪われているようだ。
風邪を引くなんて、何年振りだろうか。
それこそ幼い頃以来ではないかと思う。……この家に閉じ込められてからは体調が万全の時の方が少ないが、だとしてもだ。
昔は俺よりも兄さんの方が風邪を引きやすかった。いつも苦しげに咳をしてる兄を見る度に『俺がしっかりしなきゃ』と思って、兄の看病を手伝おうとしては母に部屋から追い出されていたことを思い出す。
学年が上がるにつれ兄も体が丈夫にはなっていって、寝込むようなこともそんなにはなくなっていたが……一度だけ、今みたいに俺が風邪を引いた時があった。
傘を忘れてしまい雨でずぶ濡れになって帰った時のこと、案の定風邪を引いた俺を兄が看病してくれたのだ。
『お前が産まれた時のことを思い出すよ、間人』
『……兄さん、俺、一人でも大丈夫だから。兄さん、あっち行ってて。風邪が感染ったら……』
『ダメだよ、間人。……たまには兄らしいこと、やらせてよ』
そうベッドの側に持ってきた椅子に腰をかけた兄は俺の頭を撫でてくれた。俺はそれに耐えられなくて、布団を頭まで被った。
熱も相俟って緩くなった涙腺に涙が滲むのを見られたくなかった。
俺は、多分心のどこかで諦めていたんだと思う。
兄さんが俺よりも早く大人になる度に置いていかれている気がして、昔のように気軽に手を繋いだり抱き締めたりしなくなった兄を見て、もう昔には戻れないんだと。
けど、俺が弱ったとき、心細い時、確かに兄さんは昔と変わらない優しい兄のままでいてくれた。
――何故、今になってこんなことを思い出すのか。
「ごめんね、間人君。薬と水と……それから簡単に食べられそうなもの用意してきたよ」
扉が開くなり花戸の声が聞こえてきて、すぐに現実へと引き戻される。
「喉、通りそう?」とベッドの側に立つ花戸に声をかけられ、目を開いた。
「……水なら」
「いいよ、それだけでも十分だ」
「……」
尿を飲まされるよりはましだ。
そう思いながら口を開けば、少しだけ花戸は驚いたような顔をした。
そんなやつの表情を見て、もしかして口移しをするつもりはなかったのかとハッとする。
「……っ……」
咄嗟に口を閉じ、顔を逸らそうとしたとき。手にしていたシートから錠剤を取り出す。そのまま躊躇することなく自分の口に放り込んだ花戸は今度はグラスに溜まっていた水を口に含んだ。
「……っ、ぁ……」
いい、自分で飲む。と止めることもできなかった。そのままそっと顎を持ち上げられ、重ねられる唇の感触に目を瞑った。
「……っ、ん、……っ、ん……」
馬鹿みたいだ。自分にも感染る可能性もあるのに。
この男を熱で殺すこともできるのか。だとしたら、悪くないのか。……もう、分からない。何も。
それでも花戸の口を介して流れ込んでくる水は十二分に冷たくて、喉を通り抜け落ちていく錠剤の感触を舌、喉で感じながらも俺は流し込まれる液体を飲み干す。
「っ……は、ん……っ」
口の中の水が完全に喉奥へと落ちていく。口の中が空になっても尚、花戸は俺の唇を貪るのをやめない。
いつの間にかにベッドに押し倒された形のまま、額が重なったまま見つめられる。
「……辛い?」
眩暈もする、頭も痛い。耳鳴りが止まない。
それでも、水を飲んだその瞬間はまだ緩和されているような気がした。恐らく、花戸という別の脅威に晒されているからに違いない。
「……家に、帰りたい」
朦朧とした頭の中、思い浮かんだ文字をそのまま言葉として喉から溢れていく。理性を司る部分が正常に機能していないのだと気づいた時には遅い。花戸は目を細めた。
殴られるのか、それとも叩き起こされるのか。
熱に浮かされ不思議と恐怖心も薄れていた。どうなってもいい、そんなヤケクソな気分にもなっていたのかもしれない。
花戸の反応はそのどちらでもなかった。俺の後頭部に手を回し、そのまま自分の胸へと抱き寄せる。凍てつくように冷たかった体に花戸の体温が流れてきた。
『ここが君の家だよ』とでも言うつもりかと思っていたが、花戸は何も言わなかった。
何も言わず、それでもしっかりと俺の体を抱き締めたまま手を離すことはなかった。
普段は不快なまでに饒舌なくせに。
やつの顔を覗き込んでやろうと思ったが薬の副作用か、それとも他人の体温に充てられたのか、急激な眠りに襲われる。
遠のいていく意識の中、不意に花戸と目があった。
「ダメだよ」とでも言うかのように手を取られ、指先に唇を押し当ててくるやつの顔を眺めたまま――俺はそのまま意識を手放した。
そのときのやつの顔がまるで、昔の自分のような――風邪を引いた時の兄を見る時の自分と重なった。
きっと、それも熱のせいだろう。
何をすればいいのか分からず、ただ見守ることしかできない子供のようなその顔が妙に瞼裏にこびり付いて離れなかったのだ。
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