亡霊が思うには、

田原摩耶

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07

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「それで、何かあったのか?」

 やけに辺りを気にしている奈都が気になり単刀直入に尋ねれば、奈都は「実は、その」と言葉を濁らせる。

「これ、見てもらっていいですか」

 やがて意を決したようだ。そう、奈都はコートの下からなにかを取り出した。
 それは束になった紙を紐で括ったもののようだ。紙は劣化し、見て分かるほど古いものだとわかった。
 それを受け取り、傷まないようにそっと中を開けばそこには花のデッサン……だろうか、鉛筆で描いたような植物や静物が描かれていた。美術方面にはまるで知識がない俺からしても上手いな、と思うほどだったがそれでも奈都はただ俺にこの絵たちを見せたかったわけではないらしい。

「ここ、開いてください」

 そう、奈都はある箇所を指差した。言われてそのページを開いた俺は思わず目を見開いた。
 今までは植物や花、家具や小物などが多く人間らしい人間の絵は描かれていなかった。けれど、とあるページからは延々と一人の男の絵が描かれている。
 椅子に座る男、窓から外を見下ろす男、いずれも顔までははっきりしていないが、着物を着たその男といい独特の雰囲気はよく捉えられていた。
 ――俺はこの男をよく知ってる。

「……花鶏さんに似てませんか、これ」

 奈都の言葉にハッと息を飲む。どうやら奈都も同じことに気付いていたようだ。奈都の指摘にハッとした。

「確かに、そうだな。表情はよくわからないが……後ろ姿とかはそっくりだ」
「このデッサン帳、花鶏さんの部屋から見つけたんです」

 なんて、あっけらかんと答える奈都に「え」と思わず固まった。そしてすぐイヤな思考が働く。

「ま、まさか……勝手に持ち出してきたわけじゃないだろうな……」
「すぐに元に戻せば大丈夫かと思って……」
「っ、駄目だ、戻そう。絶対後からややこしくなるから戻すぞ!」

 こうしてる間にも花鶏がこのデッサン帳がないことに気付いてしまったらと思うと血の気が引いた。奈都も奈都だ、普段からは考えられない程たまに突拍子のないことをするから心臓に悪い。
 ……いや割と前からそうだ。
「ですが準一さん」などと言いながら、奈都は俺の腕を掴んで顔を寄せてきた。近い。

「……もしかしたらこの樹海から出るための手掛かりになるかもしれません」
「手掛かりってな、お前……まさか『花鶏さんの過去調べて成仏させれば』なんて言うつもりないよな」
「そのまさかです」

 流石準一さん、準一さんならわかってくれると思ってましたと言わんばかりに普段は光の灯らないその目を輝かせる奈都。
 確かに奈都がここから脱出することに執着してることは知っていた。知っていたけどもだ。

「それなら、直接花鶏さんに聞けばいいだろ。」
「準一さんならそういうと思いました。……だから、代わりにこうして盗ってきたんですよ」
「お前ってやつは……」

 呆れるというよりも、花鶏が怖くないのかという気持ちの方が強い。……けど、奈都の言わんとしてることもわかった。
 もし、この樹海から抜け出せたら。なんてふと考えてしまう。期待するだけ無駄だとわかってても、こんなところでこのまま一生成仏することもできずにただ漂うことしかできないままでいるよりも生まれ育ってきた街へと帰ることができるのなら、と考えた瞬間腹の奥から欲にも似た希望が込み上げてくる。
 もし、あいつの最後まで傍に居続けられるなら。こんな危険な場所になど来ずとも会えるなら。
 いつか別れがくると分かってても、それまでいれるなら。駄目だ、考えるな。

「……準一さんも思いますよね、家族がどうしてるか、友達がどうしてるか気になりませんか?」
「お前の、言いたいことは分かる……けど」
「他の方々は帰る場所もないから諦めてるんでしょうけど、僕や準一さんは違います。……帰る場所があるではありませんか」
「…………」

 他の四人に比べれば俺や奈都は死んでからもまだ日が浅い。

「……今僕達に必要なのは思考停止ではありません。諦めたらそれこそただの地縛霊になってしまいます」
「地縛霊」
「ええ、花鶏さんはその典型です。……他の三人も帰ろうとしない。このままでは時間が経って、もう二度と会えないまま皆死んでいくかもしれない」

 一瞬、脳裏に先程見た仲吉の溶けた顔がよぎる。
 咄嗟に振り払えば、奈都に「準一さん」と肩を揺すられた。

「準一さんは優しいのできっと他の方々に共感してしまってるのでしょう。けど、僕達に残された時間は刻一刻と減っていきます」
「……」
「……僕はもう、後悔したくありませんので」

 そう言って奈都はデッサン帳をコートに仕舞う。
 そして、言葉を失う俺を見て控えめに微笑んだ。

「これは、準一さんの言うとおり元あった場所に戻しておきます」
「奈都……」
「……押しかけてしまいすみませんでした」

 そう言って奈都は部屋から出ていく。
 その後ろ姿がなんだか寂しげに見えて、俺は声をかけることを躊躇った。扉を閉め、息を吐く。

「……」

 そしてポケットから紙切れ二枚を取り出した。
 花鶏が書庫で見ていたアルバムの中に入っていた写真と、本に挟まっていたメモ。……それと、あのデッサン帳か。
 奈都に見せようと思っていたが、タイミングを失っていた。……いや、タイミングなどいくらでもあった。それでもあいつに見せられなかったのはきっと、やつの気迫に気圧されてしまったからだ。
 花鶏を成仏させることがこの樹海から抜け出すきっかけになる。だから、花鶏の過去を調べる。
 奈都の言葉も理解できた。けれど、本当にそれでいいのかと問い掛けてくる自分自身も確かにいた。
 奈都ばかりを責めるつもりはない。けど、やはりこうしてこそこそする真似は性に合っていない。
 ……今度、花鶏さんにこの手紙と写真のことについて聞いてみるか。
 そんなことを考えながら俺は二枚をポケットに押し込んだ。

 花鶏の過去が気にならないといえば嘘になる。
 だとしてもだ。無理矢理暴くことによって奈都のように自暴自棄になってしまったり、南波のように自分の自分を苦しめてしまうのであればそれは最善なのだろうか。
 ――そもそも、花鶏は自分の過去のことを忘れたという話も聞いていない。
 死んだ直後、いままで自分の過去の記憶を喪失していた南波ならいざ知らず、もし花鶏は過去のことを全て覚えていたならば。いて尚、成仏することもできずにこの場に留まっているというのならば。
 その根深さを考えると安易に踏み入れていいのか戸惑った。

 ……奈都のやつ、ちゃんと返したんだろうか。
 しばらく部屋に閉じこもって考えていたが、どうしても奈都の様子が頭にちらついて離れない。
 奈都があんな風に大胆な真似をするとは。思えば初めて会ったときから大人しそうな顔をしてなかなか力技を使うやつだった。

 花鶏の様子も気になったし、写真のことも気がかりだった俺は一度応接室に顔を出してみることにした。花鶏の部屋に直接尋ねる勇気はなかった。


 ――屋敷内、談話室。

「ども……」

 そう、恐る恐る扉を開いたときだった。

「待ちやがれこのクソガキッ!!」

 聞こえてきた罵声に驚く暇もなく、こちらへ目掛けて飛んでくる花瓶にぎょっとする。
 慌てて扉の影へと隠れれば、隣の壁に直撃した花瓶はそのまま凄まじい音ともに飛び散った。
 唖然としていると、丁度扉の横からにゅっと幸喜が顔を出す。そして、固まる俺を見てニィと厭な笑みを浮かべるのだ。

「あっちゃー、惜しー。もう少しで大当たりだったのに」

 一瞬何が起きたのか分からなかったが、この二人が揃えばいつものことなのだろう。
 まさか俺が現れるとは思っていなかったらしく、南波は酷く狼狽する。

「っ、じゅ……準一さん……っ! おい、大丈夫か……っ!」
「お、俺は大丈夫っすけど……」
「丁度良かった。準一準一聞いてよ、南波さんってばノリ悪くてさあ、昔のままの南波さんでよかったのに脅かし甲斐がないっての」
「うるせえ、あんな手に一度も二度も引っ掛かると思ってんのかよ、あ゛あ?!」
「とか言っちゃってさー」

 脅かし甲斐って……短気なところはあまり変わっていない気もするが、もしかしなくても幸喜は男性恐怖症のことを言っているのだろう。がっくりと肩を竦めた幸喜だったがそれもほんの少しの間のことだ、そのまま俺のへずいと近付いてくる幸喜にぎょっとする。

「もーいいや、南波さん飽きちゃったしやっぱ準一と遊ぼーっと」
「は? って、おい……っ」

 厭な予感に後退ろうとするが、一足遅かった。
 シャツの襟首を力づくで掴まれれば、そのままきゅっと首が締まる。「ぐえっ」と潰れた蛙のような声が漏れた。
 幸喜に捕まる俺を見るなり、南波は青ざめる。

「っテメェ、おい!」
「じゃ、南波さん後片付けよろしくー!」

 止めようと掴み掛かる南波をかいくぐり、そのまま幸喜は歩き出した。そんなことをされれば、更に首は締まっていくわけで。
「おいっ、幸喜っ!幸喜っ!」という止める南波に構わず応接室から出ていく幸喜。引きずられるような体勢のまま、幸喜は俺から手を離す素振りすらなく歩みを進めた。


 幸喜に引っ張られてやってきたのは一階の廊下。

「っ、おい、どこまで……っ!」

 行くつもりなのだ。
 そう声を上げるが、当の幸喜はというと「こっちこっち!」と一人楽しそうに笑っていた。
 どうにもろくな目に合わない予感しかない。
 今すぐにでも逃げたいが、逃げられる気がしない。

「こっちっつったって、この辺は物置くらいしかないんじゃ……」
「そうそう、大当たりだよ準一! 花丸あげよっか?」
「い、いらねえ……。まさか倉庫荒らすつもりじゃないだろうな」
「あははっ、今更そんなことするわけないだろ?」

『今更』というところが妙に引っかかったが、敢えて深く突っ込まないでおくことにする。

「探検ごっこも飽きてたんだけど、なあ準一、お前は気付いた?」
「気付いたって、なにが……」
「この屋敷、たまに形変わんの」

 不意に飛び出した幸喜の言葉に思わずどきっとした。そしていつの日か、忽然と俺の目の前から姿を消した屋敷のことを思い出す。

「……ああ。確か前、この建物ごと消えてたときあったな」
「あったっけそんなこと」

 そういえば幸喜はあの場にいなかったっけか。記憶を呼び起こそうとしたとき、幸喜はようやく立ち止まった。

「まあそんな感じでさ、たまに変わるんだよな。準一が見たみてーに大きく変化するわけじゃなくて、あの人の気分で花壇が増えてたり、シャンデリアが微妙に変わったり」

 あの人とは言わずもがな花鶏のことを指しているのだろう。幸喜は目の前の扉へと向き直る。
 その扉は確か、掃除用具や使われていない家具が入っていたはずだ。

「……ここになにかあるのか?」
「まあまあまあ! それは見てのお楽しみじゃん? てか、先にネタバラシはつまんねーって」

 言いながら、錆びた金属製のドアノブを掴む幸喜。そして、扉は軋音を立てながらもゆっくりと開く。
 黴と埃が混ざったような、湿気を多分に含んだ異様な空気が流れ込んでくる。間違いなく人体に何らかの悪影響を与えているのではないだろうか、そう思えるほどの嫌な空気だった。

「おいおい準一なに怯んでんだよ、まだ入ってもないのに」
「ここ、空気悪すぎんだろ……具合悪くなるって……」

 そう思わず苦言を漏らせば、幸喜は「空気?」と不思議そうに小首を傾げた。全く可愛いとは思わないが、なによりもいつもと変わらない幸喜が不思議だったのか。

「空気だよ、空気。……換気しねえとこれ、具合悪くなるぞ。お前は平気なのか? この黴臭さ」
「んー、よくわかんねえけど準一って意外と繊細なのか?」

 意外とは余計だ、と突っ込みたいところだが、本当に幸喜はなんともないみたいだ。元々俺と幸喜では過ごしていた環境も死んだ時期も違う。もしかして幸喜は慣れてるから特に違和感もないのだろうか。

「そーれーよーりー、ほらこっちこっち。この奥、来いよ準一っ!」

 そう、今度はいつの間にかに背後に経っていた幸喜に背中を押される。
 危うく転びそうになりながらも俺は「分かったから押すなって」と壁をつたいながらもその部屋の奥へと更に物置部屋の奥へと踏み入れた。

 この屋敷にはいくつもの扉と部屋がある。
 以前は俺や他のやつらのように行き場を失った亡霊たちが暮らしていたのだろうが、今となっては空き部屋だ。そのいくつかは花鶏によって物置として使われている。
 そして、この部屋もその一つだった。
 そう、記憶していたはずだ。

「……こ、れは」

 古くなり、腐食しているのかところどころ変色した床板。そして他の物置同様壁を埋め尽くす勢いで物を放り込まれたその部屋の中央にその扉は存在していた。

「お、準一も気付いた?」
「床下収納……なのか?」
「さあな? 俺もこの前見つけたばかりだったんだけどまだ確認できてなかったんだよな」

 今度は幸喜の言葉に驚いた。
 こんな意味有りげな扉を見つけたらいの一番に開けそうなくせに。

「ま、俺優しいから準一に譲ってやろうって思ってな」
「……お、お前。なんか企んでないよな」
「おいおい俺をなんだと思ってんだよ!」

 お前だから言ってんだよ、と言い返したかったがやめた。後が怖いからだ。
 俺は幸喜から足元の扉へと視線を落とす。そのまま膝を折り曲げ、屈んでみるが変哲もない扉だ。人一人入れるくらいの大きさはある。
 その扉の取手部分には、床板と繋がる錠付きの鎖が取り付けられていた。

「でもこれ、鍵がかかってるな。頑張れば壊せそうだけど……」

 鎖を無視して取手を引っ張れば、数センチくらいは隙間が開きそうだ。と思いながらも観察していると、幸喜がこちらをじっと見ていることに気付いた。
 いつもみたいに笑ってるのも気味が悪いが、真顔の幸喜もなかなか気味が悪い。「な、なんだよ」と聞き返せば、幸喜は俺から視線を外して床の扉に目を向ける。

「なあ、準一お前今これ鍵かかってるって言った?」
「……あ?」
「俺には鍵なんて見えないんだよな」
「…………………………は?」

 思わず言葉に詰まる。そんなはずがない。「ここにあるだろ」と扉の取手に触れれば、幸喜は笑った。

「やっぱ準一、お前連れてきて正解だったわ」
「な、何言ってんだよ……」
「俺もさ、本当は見つけたとき速攻扉こじ開けて中突撃しようとしたんだよなー、暇だったし。けどさ、」

 何が言いたいんだ、と俺の隣によっこいせと座り込む幸喜は、そのまま扉に触れようと手を伸ばす。瞬間、取手に触れようとした幸喜の指先は音もなくどろりと溶けていくのだ。まるで熱に充てられた鉄のように、液体のように溶ける指先を見て「ほらこれ」と痛がるわけでも苦しむわけでもなくいつもと変わらない満面の笑みを貼り付けたまま幸喜はその人差し指と中指の第一関節部分まで欠けたその掌をこちらへと向けるのだ。

「俺は無理だったんだよな」

 いつの日か、幸喜に騙されてあの結界に触れたときのことを思い出す。それから、奈都を助けようとして飛び込んだ結界の中のことも。
 だったら、なんで俺は。
 幸喜には見えない錠、そして触れられない扉に触れることができている自分自身がただ理解できず、俺は目の前の幸喜と床下の扉を交互に見た。

「な、んで……」

 まさかこれも幸喜のどっきりか?俺をビビらせるためにわざわざ手の込んだ真似してるのか?有り得る。
 にゅるんとところてんかなにかのように指があった場所に新たな指の形をした物体が生え、そして芯を持ち始めたと思えばみるみるうちに元の手の形に戻る。なかなか気持ち悪い一部始終であった。

「因みにまじでーす」
「……こ、これも見えないのか?」

 そう錠を見せるが、幸喜は「うん」と大きく頷くのだ。いい返事、などと言ってる場合ではなかった。
 お互いに見てるものが違う、という体験は初めてではない。けれどそれは相手が仲吉だったり、他の生きている相手だったりの話だ。
 この場合俺も幸喜も同じ亡霊だ。それなのに、なんで。
 件のカメラのことを思い出す。本気で幸喜がなにもしてないというのなら俺か幸喜、それとも他のなにかしらの影響を受けてるということか?
 でも、となるとこの屋敷の大元となるとあの男しか浮かばない。
 ――花鶏。
 花鶏がなにかしらの細工をしてるとしても、何故幸喜は拒まれて俺が平気なのか。その理由を考えると益々知恵熱が出そうになる。

「でも準一が触れるってことは、そこの鍵を見つけだせばもしかしたら扉開けられんじゃね? 俺はできなかったけど、準一なら斧でぶっ壊すこともできるかもしれないし」
「ま、待てよ……これって花鶏さんがなんかしてるってことだよな。そんなの、勝手なことしない方がいいだろ」
「はあ? 準一それ本気で言ってんの? いいこちゃん過ぎて俺びっくりしちゃった、花鶏さんいねーんだからバレないって」
「だからその根拠はどこからきて……っ、いや、つかそもそもこんなことしなくたって花鶏さんに直接言えばいいだろ。どうせ鍵も必要なんだから」
「鍵、鍵かー……じゃ、花鶏さんの部屋にあるかもな。盗みに行くか!」
「お、お前……ッ」

 人の話をまるでなにも聞いていない。
 ケロッとした顔でそんなことを言い出したと思えば、そのまま「じゃあ準一、花鶏さんの部屋までかけっこな!」と物置部屋から飛び出す。
 幸喜にモラルや常識を説いても無理だとわかっているが、いくらなんでもこのままでは俺まで共犯扱いされかねない。
 ここは幸喜に先回りして花鶏に伝えた方がいいかもしれない。そう、一人取り残された俺は部屋を出ていく前にもう一度背後を振り返る。
 淀んだ空気が充満した部屋の中、俺は再び扉の方を見た。ほんの一瞬、床板に嵌められたその扉がかたりと小さな音を立てて動いた――そんな気がした。

「……ッ、……」

 目の錯覚だろうか。思わず瞬きをし、目を擦る。そして再び扉を見れば、今度は隙間なくぴたりと閉まったままだった。
 ――気のせい、だよな。
 いやまさか、なにかいる?
 胸の奥、心臓の辺りがざわつくような違和感。気になる。取手をこじ開けてこの地下を覗き込みたい衝動に駆られると同時に、強い恐怖を覚えた。
 幽霊なんているわけがない、なんて今更俺が言う立場ではない。けれど、俺だけに触れて、俺だけに見えるその意図を考えたくなかった。
 俺は好奇心に無理矢理蓋をし、ぐっと息を飲んで物置を出た。扉を閉じる直前、背中に突き刺さる視線を強く感じながらも俺はそれを必死に気付かないフリをしながらドアノブを強く掴み、扉を叩きつけるように物置部屋を閉じた。

「……ッ、はあ……」

 人気のない廊下に出てようやくまともに呼吸が出来た。
 全身にまとわりつくような嫌な空気もない。そういえば、この嫌な雰囲気も幸喜はなんも感じないと言っていた。
 まだ幸喜の言葉を全て信じるつもりはないが、それでもどうやってもなにもなかったことにするには出来なかった。

 幸喜は花鶏の部屋へ向かうと言っていた。
 だったら、俺はどこへ花鶏を探しに行こうか。先に花鶏の部屋に向かった方がいいだろうか。
 そう考えながら踵を返そうとした矢先のことだった。

「おや、準一さん。奇遇ですね」

 振り返ったそのすぐ背後、翳る視界。いつの間にかに背後に立っていた花鶏に飛び上がりそうになる。
 物置部屋のすぐ扉の前。
 いつからそこに。どのタイミングで。さっきまではいなかったはずなのに。
 口を開閉し、言葉を探すが上手く喉に出てこなかった。

「っ、あ……花鶏、さん」
「ふふ、随分なご挨拶ではありませんか。……先程ぶりですね、なにやら幸喜との楽しげな声が聞こえましたが如何なされたのですか?」

 既にこの場にはいない幸喜の名前を出され、冷や汗がだらりと滲む。いや待て、あいつは確かに問題発言をしていたが俺は別になにもやましいことはない。
 そのはずなのに、何故こんなに花鶏との対面に動揺しているのかが自分でもわからなかった。

「花鶏さん、いつからそこに……」
「さて、いつからでしょうか。……つい先程といえばつい先程ですし、ずっとといえばずっと、でしょうか」

 これは、ただ単にはぐらかされているわけではないのだと直感した。
 恐らく本当に花鶏はずっといたのだ。誇張でもなんでもなく、俺達の会話を聞いていたのだとすれば。

「ああ、そんなに怖がらないでください。……なにも説教しにきたわけではございません、私はただ……」

 そう言いかけて、花鶏の視線がこちらを向いた。言葉が止まり、どうしたのだろうかと顔を上げたときだった。ずい、と歩み寄ってくる花鶏の生白い顔がすぐ鼻先に迫り、ぎょっとする。
 長い睫毛の一本一本が見えるほどの距離、冷たい空気が全身を包み込む。まるで蛇に全身を締め上げられるようなそんな緊張感に、眼球を動かすことすらもできなかった。

「準一さん、貴方……」

 花鶏は小さく口を動かす。
 俺を見つめるその目は、確かにこちらを覗き込んでいるはずなのに俺を通して別の何かを見ているようにすら見えた。
 いつものような笑顔はなく、どこか怪訝そうに眉をひそめる花鶏に胸のざわつきは大きくなる。

「あの、俺がなにか……」
「……」
「花鶏さん……?」

 神妙な顔をしたまま花鶏は何も言わない。両頬を掴むように挟まれたと思った矢先、花鶏は俺を見つめたままその形のいい唇を動かした。

「……貴方、なにか私に話すことがあるのではないですか?」

 顔を固定したまま、目を逸らすことも許されない状況の中花鶏は珍しく真面目な顔をして尋ねてくるのだ。
 ない、といえばそれは嘘になる。
 けれど、花鶏に言わなければならないことがありすぎて俺はすぐに言葉を発することができたなかった。
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