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第7章 平穏は遥か遠く
270話 短い平穏
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――第54区域内ホテル 連合標準時刻 火の節89日
時刻は運命の日を僅かに過ぎた頃。ホテルの巨大な浴槽にはお湯が並々と注がれ、大量の湯気が上がる。無事に宿泊施設の電源を入れた2人は目標としていた風呂を堪能する。が、今湯舟に浸かっているのはクシナダだけ。仲良く入っている最中に敵が襲ってくるという事態を想定した、とは伊佐凪竜一の弁。しかし、正直なところ彼女と一緒に入っては間違いを起こしそうというのが本音だろう。
「はー、落ち着くわー」
湯舟に浸かる水音にクシナダの熔けるような甘い声が脱衣所に広がる。風呂場の入り口近くの壁にもたれ掛かりながら聞く伊佐凪竜一の顔は何とも渋く、やがて彼は大きな溜息と共天井から釣り下がる豪奢な照明を見上げた。
この場所はなんとか逃げ出したクロノレガリア大聖堂が建つ64区域に隣接する観光地。本来ならば逃走には不向きだが、半年前に起きた戦い以後から立ち直れない旗艦の有様により客足は遠のいた。楽園崩壊。人々は悲嘆と共に、あるいは嬉々として現状をそう評する。
が、幸か不幸か追い風になっているのも事実。荒れ放題で見捨てられた場所が多いという事実は、身を隠す場所の多さと同義でもある。自動車レースの聖地と呼ばれたこの場所も例に漏れず、遠のく客足に一時閉鎖を余儀なくされ、現状で動いているのは最低限の監視と清掃を兼ねた自律型の式守とその充電、保守設備に監視カメラが数台程度のみで、人影は全くない。
だからこそ安全な隠れ場所ともなるが、故に最高品質と評されるサービスも受けられず。電源を付け、風呂を沸かし、監視システムを切断し、食事の用意に至る全てを自力で対応する必要に駆られ、漸く風呂にありつけたところだ。
「そうですか」
「どう?一緒に入るー?」
酷く上機嫌なクシナダの魅力的な提案に、扉から少し離れた壁に背中を預ける伊佐凪竜一は思わず破顔した。瞬間、私の鼓動が高鳴る。マズい、と叫びたくなるが、しかし何をしようが映像の向こうに伝わるはずもなく。
「敵襲あるかも、って先に言ったのクシナダじゃないか?」
彼は何とか誘惑を堪えた。が、その緩んだ顔は何かあれば即OKを出しそうにも見える。君達、この状況を理解しているか?そんな破廉恥、且つ危険な真似をする状況ではないだろうに。
彼女も彼女だ。恐らく不必要に陰鬱な雰囲気にしたところで余計に精神状況が悪化するだけだからと無理をしているのだろうが、だからと言ってもう少し言葉を選ぶべきだ。大体、もし彼がその気になったらどうするのだ。と、考えたけど流石にそうはならないと信じたい。そうだよね、大丈夫だよね?
「まぁ、そん時はナギ君に任せるよー」
「そこは任せて貰っていいけどさ……それよりも話の続きを聞きたいんだけど?」
「私の好きなタイプだっけ?」
「ハァ、話が進まない」
終始、主導権をクシナダに握られっぱなしの伊佐凪竜一はマイペースな言動に殊更呆れた。諦観と共に零した溜息は、扉の向こうに舞い上がる湯気の更に向こうから届く笑い声と湯を流す音にかき消される。
「あー、そうそう。姫様の力が危険だって知って驚いてる最中にサルタヒコが襲撃して来た後の話ね」
「そうそう。タガミ達は大丈夫なの?」
「教会に着く前に連絡してみたけど、何とか逃げ切れたみたい。ただ、拠点1つとそこに運び込まれた物資が駄目になっちゃったけど」
漸く進んだ話にタガミの無事を理解した伊佐凪竜一は安堵した。実際、見つかる事を想定して予め合流地点と物資を分けておいたのが功を奏したようで、襲撃の規模に対し被害は驚くほど小さかった。流石に瀕死の元守護者達と全物資を一つ所に保管する愚行は行わなかったが、それでも貴重な物資が幾らか消失した事実に変わりなく。重要な情報は引き出せたものの、状況は引き続き芳しくない。
「そうか……ところでどうやってここに来れたんだ?それとも隠れ家ってこの直ぐ近くなのか?」
「大分遠いよ。でもこういう時の為に用意された秘密の手段があるのよねー。さっき話したけど、消耗するだけだからって早々に逃げる事になったんだけど、その時にイスルギさんから秘密道具を貸してもらったのよ。腕輪状のヤツね」
クシナダの言葉に彼は籠の中から腕輪を探し出し、つまみ上げた。乱雑に脱ぎ捨てた衣服の中に捨て置かれた鈍色の光沢を放つ腕輪は泥や埃に塗れており、その適当な扱いと併せた彼は、"これが、ねぇ"と懐疑的な視線を向けた。
スサノヲになったばかりの彼が知らぬのも無理からぬ話だが、その腕輪は転移システムへの強制アクセスを可能とする極めて特別な腕輪。要は何時でも、何処にでも転移出来る便利な道具で、それ故に存在含めごく一部の人間しか知らない代物。現状で言えば、イスルギとスクナの2名しか所持を許されていない。
「それでナギ君と合流しろって、この中でお前が一番早いし強いからってね。私も初めて使ったんだけどさぁ、ホントに凄いよ。流石に総代クラス以外に秘匿されているだけあって、何処からでも何処にでもアクセスできちゃうんだよねぇ」
「そんな危険な物を簡単に貸しちゃってよかったの?」
「今の状況で使わなくて何時使うのって代物だし、ソレに現状で一番重要人物のナギ君助けるって理由なら十分でしょ?」
「そうか、ありがとう」
「フフン、もっと褒め……いや、コレは貸しにしておくわ」
瞬間、クシナダの声色が変わった。彼に恩を着せる時だけ、彼女は妙に本気を出す。
「せめて、返せそうな物で返させてくれないでしょうか?」
「ンフフフフッ、どうしようかなぁ?」
「楽しそうで何よりです」
クシナダとの会話が楽しいのか楽しくないのか、彼の表情は微妙にコロコロと変化し続ける。一方のクシナダは顔こそ見えないが、その声色は非常に上機嫌で間違いなく楽しそうだ。
風呂に浸かって疲れと汚れを綺麗サッパリ流し落とせたからか、それとも単に伊佐凪竜一と一緒に居るのが楽しいからか、あるいは両方なのか分からないが、少なくとも全ての元凶である婚姻の儀で起こる何かを阻止しなければならないプレッシャーは微塵もない。
一方、映像の端に映る伊佐凪竜一は間近に控えた決戦に緊張感が高まっており、その表情はクシナダとのやたら軽い会話を経ても尚、暗い。その意識はもう間もなく、夜が明ければ否応なく始まる戦いに向いている。残された時はそう多くはなく、願えども時は無情に進み続ける現状を正しく理解している。
「さーて、じゃあ上がろうかな。裸、見る?」
湯船からの蠱惑的な提案に、屈託ない笑い声が重なった。また始まったよ。本気か、悪戯か。"俺にどう答えて欲しいの君は?"と、返答に窮した伊佐凪竜一が漸く発した一言には彼の揺らぐ心境が現れている。見たいのか?君、見たいのか?
「で、どっち?どっち?」
「いや……それは、ちょっとね」
「やっぱり随分と参ってるわね。分かったわ、オネーサンが一肌脱いであげるから、でも貸しだからネ」
「いやいいです、あと俺は全部終わった後に何を要求されるんだ?」
最終的な返答は首尾一貫。伊佐凪竜一はクシナダの申し出をやんわりと拒絶すると、全てが終わった後の要求が怖いとごちりながら脱衣所を後にした。一方、クシナダは上機嫌そのもの。脱衣所に姿を現すと鼻歌交じりで身体を拭きはじめた。が、彼の気配が脱衣所から消えるや鼻歌が止まった。
程なく、ガラリと無造作に扉を開け放ちながらバスタオルを巻いたクシナダが姿を現した。しかしその表情は湯気に隠れていてもはっきりとわかる程の苦悶が浮かんでいる。伊佐凪竜一の事を想う彼女の顔が曇る理由は1つしかない。クロノレガリア大聖堂で戦った偽物のルミナの件がまだ尾を引いていると、意味の有無など関係なく、ただ助けたいと願った相手を助けられなかった事実が拒絶という形で表出しているのだと理解してしまったのだ。
※※※
洗濯中のスーツに代わりバスタオルを雑に身体に巻いたクシナダが脱衣所に再び姿を見せたのは、伊佐凪竜一が浴室に入ってから10分ほど経過した頃。彼女は何かを手に持って脱衣所に現れると、壁にもたれ掛かった。タオルに巻かれた肢体は歳相応ながらも女性特有の美しい流線形があり、幼さの残る容姿と合わせると伊佐凪竜一を篭絡するくらい簡単に出来そうな印象を受ける。とは言え、あの様子ならそんな真似しないだろうが。
「お待たせー。取りあえず軽く食べられる物と、後はお酒ネ」
「酒?」
暗い感情を押し殺し、無理やり明るく振る舞う彼女が手に持っているのは飲食物の類。その中には何処から探してきたのか相当な年代物の酒が含まれていた。
この手の果実酒には熟成させる事で風味が増す種類もあると言う。特に旗艦産の果実酒は製造から熟成に至るまでの全データの徹底管理により安定且つ高品質の醸造を可能とする為、それなりの値段で取引されている。彼女の細い指が無造作に握る果実酒のラベルをよく見れば第一級に指定される宿泊施設ですら滅多にお目に掛かれない高級酒。恐らくVIPクラスに提供される一品だろう。
「そそ、各惑星のヤツがより取り見取り。流石に第一級宿泊施設だけあるわね」
「第一級?」
「地球風に説明するなら最上級とか高級とか、まぁそんなところ。第一級、準一級、第二級みたいに専門会社が各付けしてるのよ。この辺は地球と同じね」
「へぇ、酒と言い格付けと言いなんかアチコチでよく似てるって話を聞くなぁ」
「その辺は気にする人はするって位ね、最初は誰でも驚くんだけどさ。でも詳しく調べようとするとウチの神様が止めるのよねぇ。まぁそんな話はどうでもいいから、飲めるわよね?よね?」
お宝を見つけ少しだけ機嫌が上向いたクシナダは旗艦の常識の一部を語った。連合の各惑星の文化が似通っている事、その調査をアマテラスオオカミが阻止している事。ソレは連合において最大の謎と疑問として周知されている。が、そんなこんなよりも彼女の関心は伊佐凪竜一が酒を飲むかどうか。連合最大の謎などどうでも良いとばかりに彼女は酒を勧める。
「まぁ。ただ半年前のアレ以降、飲んでも酔えなくなったんだよね。こんな時だから有り難いけどさ」
「そうなんだ?なんか毒は効かないみたいな話は聞いたけど」
「どうも吸収されると直ぐに分解されちゃうみたいでさ。二日酔いを経験しなくて良いってのは利点だけど、でも1人だけ素面だと白けるだろうからタガミに誘われても余りそう言う場所に行かなくなったんだよね。最もアイツも飲むより食べる方が良いって言ってたけどさ」
酒を飲めと迫るクシナダにハバキリの影響で酔いとは無縁となった体質を暴露した彼は、現状を少しだけ嘆いた。圧倒的な能力に人外レベルの耐性付与と引き換えに失ったのは大人の楽しみの1つ。左程に嘆いていない様に見えるが、等価かどうかは彼のみぞ知るところだ。
「ふーん。まぁでも私相手ならあんまり気ぃ使わなくていいし、味は分かるんでしょ?」
「どうあっても飲ませたいのか」
「こんな時だからこそ、ね。程ほどなら少しは気も紛れるし、それに少しは美味しい物も身体に入れておかないと、特に頭が持たないでしょ?」
「じゃあ後で少しだけ」
「フフン。あぁでも少しだけ残念ね」
「何が?」
「酔った勢いで私を……って出来ないじゃない?」
「あらゆる方向からその話に持っていくその執念は何なの?」
「イヒヒッ、良いから気にしない気にしない」
その言動、きっと彼女なりの考えがあってのことなのだろう。精神面の悪化は戦闘能力に直結するし、何より婚姻の儀が間近に控えている。道化を演じてでも彼の気を紛らわせたい、小悪魔的な笑みに含まれた真意を私は確かに感じ取った。とても健気だと思う。でも、それでも一言言いたい……うん、破廉恥だよお前。
時刻は運命の日を僅かに過ぎた頃。ホテルの巨大な浴槽にはお湯が並々と注がれ、大量の湯気が上がる。無事に宿泊施設の電源を入れた2人は目標としていた風呂を堪能する。が、今湯舟に浸かっているのはクシナダだけ。仲良く入っている最中に敵が襲ってくるという事態を想定した、とは伊佐凪竜一の弁。しかし、正直なところ彼女と一緒に入っては間違いを起こしそうというのが本音だろう。
「はー、落ち着くわー」
湯舟に浸かる水音にクシナダの熔けるような甘い声が脱衣所に広がる。風呂場の入り口近くの壁にもたれ掛かりながら聞く伊佐凪竜一の顔は何とも渋く、やがて彼は大きな溜息と共天井から釣り下がる豪奢な照明を見上げた。
この場所はなんとか逃げ出したクロノレガリア大聖堂が建つ64区域に隣接する観光地。本来ならば逃走には不向きだが、半年前に起きた戦い以後から立ち直れない旗艦の有様により客足は遠のいた。楽園崩壊。人々は悲嘆と共に、あるいは嬉々として現状をそう評する。
が、幸か不幸か追い風になっているのも事実。荒れ放題で見捨てられた場所が多いという事実は、身を隠す場所の多さと同義でもある。自動車レースの聖地と呼ばれたこの場所も例に漏れず、遠のく客足に一時閉鎖を余儀なくされ、現状で動いているのは最低限の監視と清掃を兼ねた自律型の式守とその充電、保守設備に監視カメラが数台程度のみで、人影は全くない。
だからこそ安全な隠れ場所ともなるが、故に最高品質と評されるサービスも受けられず。電源を付け、風呂を沸かし、監視システムを切断し、食事の用意に至る全てを自力で対応する必要に駆られ、漸く風呂にありつけたところだ。
「そうですか」
「どう?一緒に入るー?」
酷く上機嫌なクシナダの魅力的な提案に、扉から少し離れた壁に背中を預ける伊佐凪竜一は思わず破顔した。瞬間、私の鼓動が高鳴る。マズい、と叫びたくなるが、しかし何をしようが映像の向こうに伝わるはずもなく。
「敵襲あるかも、って先に言ったのクシナダじゃないか?」
彼は何とか誘惑を堪えた。が、その緩んだ顔は何かあれば即OKを出しそうにも見える。君達、この状況を理解しているか?そんな破廉恥、且つ危険な真似をする状況ではないだろうに。
彼女も彼女だ。恐らく不必要に陰鬱な雰囲気にしたところで余計に精神状況が悪化するだけだからと無理をしているのだろうが、だからと言ってもう少し言葉を選ぶべきだ。大体、もし彼がその気になったらどうするのだ。と、考えたけど流石にそうはならないと信じたい。そうだよね、大丈夫だよね?
「まぁ、そん時はナギ君に任せるよー」
「そこは任せて貰っていいけどさ……それよりも話の続きを聞きたいんだけど?」
「私の好きなタイプだっけ?」
「ハァ、話が進まない」
終始、主導権をクシナダに握られっぱなしの伊佐凪竜一はマイペースな言動に殊更呆れた。諦観と共に零した溜息は、扉の向こうに舞い上がる湯気の更に向こうから届く笑い声と湯を流す音にかき消される。
「あー、そうそう。姫様の力が危険だって知って驚いてる最中にサルタヒコが襲撃して来た後の話ね」
「そうそう。タガミ達は大丈夫なの?」
「教会に着く前に連絡してみたけど、何とか逃げ切れたみたい。ただ、拠点1つとそこに運び込まれた物資が駄目になっちゃったけど」
漸く進んだ話にタガミの無事を理解した伊佐凪竜一は安堵した。実際、見つかる事を想定して予め合流地点と物資を分けておいたのが功を奏したようで、襲撃の規模に対し被害は驚くほど小さかった。流石に瀕死の元守護者達と全物資を一つ所に保管する愚行は行わなかったが、それでも貴重な物資が幾らか消失した事実に変わりなく。重要な情報は引き出せたものの、状況は引き続き芳しくない。
「そうか……ところでどうやってここに来れたんだ?それとも隠れ家ってこの直ぐ近くなのか?」
「大分遠いよ。でもこういう時の為に用意された秘密の手段があるのよねー。さっき話したけど、消耗するだけだからって早々に逃げる事になったんだけど、その時にイスルギさんから秘密道具を貸してもらったのよ。腕輪状のヤツね」
クシナダの言葉に彼は籠の中から腕輪を探し出し、つまみ上げた。乱雑に脱ぎ捨てた衣服の中に捨て置かれた鈍色の光沢を放つ腕輪は泥や埃に塗れており、その適当な扱いと併せた彼は、"これが、ねぇ"と懐疑的な視線を向けた。
スサノヲになったばかりの彼が知らぬのも無理からぬ話だが、その腕輪は転移システムへの強制アクセスを可能とする極めて特別な腕輪。要は何時でも、何処にでも転移出来る便利な道具で、それ故に存在含めごく一部の人間しか知らない代物。現状で言えば、イスルギとスクナの2名しか所持を許されていない。
「それでナギ君と合流しろって、この中でお前が一番早いし強いからってね。私も初めて使ったんだけどさぁ、ホントに凄いよ。流石に総代クラス以外に秘匿されているだけあって、何処からでも何処にでもアクセスできちゃうんだよねぇ」
「そんな危険な物を簡単に貸しちゃってよかったの?」
「今の状況で使わなくて何時使うのって代物だし、ソレに現状で一番重要人物のナギ君助けるって理由なら十分でしょ?」
「そうか、ありがとう」
「フフン、もっと褒め……いや、コレは貸しにしておくわ」
瞬間、クシナダの声色が変わった。彼に恩を着せる時だけ、彼女は妙に本気を出す。
「せめて、返せそうな物で返させてくれないでしょうか?」
「ンフフフフッ、どうしようかなぁ?」
「楽しそうで何よりです」
クシナダとの会話が楽しいのか楽しくないのか、彼の表情は微妙にコロコロと変化し続ける。一方のクシナダは顔こそ見えないが、その声色は非常に上機嫌で間違いなく楽しそうだ。
風呂に浸かって疲れと汚れを綺麗サッパリ流し落とせたからか、それとも単に伊佐凪竜一と一緒に居るのが楽しいからか、あるいは両方なのか分からないが、少なくとも全ての元凶である婚姻の儀で起こる何かを阻止しなければならないプレッシャーは微塵もない。
一方、映像の端に映る伊佐凪竜一は間近に控えた決戦に緊張感が高まっており、その表情はクシナダとのやたら軽い会話を経ても尚、暗い。その意識はもう間もなく、夜が明ければ否応なく始まる戦いに向いている。残された時はそう多くはなく、願えども時は無情に進み続ける現状を正しく理解している。
「さーて、じゃあ上がろうかな。裸、見る?」
湯船からの蠱惑的な提案に、屈託ない笑い声が重なった。また始まったよ。本気か、悪戯か。"俺にどう答えて欲しいの君は?"と、返答に窮した伊佐凪竜一が漸く発した一言には彼の揺らぐ心境が現れている。見たいのか?君、見たいのか?
「で、どっち?どっち?」
「いや……それは、ちょっとね」
「やっぱり随分と参ってるわね。分かったわ、オネーサンが一肌脱いであげるから、でも貸しだからネ」
「いやいいです、あと俺は全部終わった後に何を要求されるんだ?」
最終的な返答は首尾一貫。伊佐凪竜一はクシナダの申し出をやんわりと拒絶すると、全てが終わった後の要求が怖いとごちりながら脱衣所を後にした。一方、クシナダは上機嫌そのもの。脱衣所に姿を現すと鼻歌交じりで身体を拭きはじめた。が、彼の気配が脱衣所から消えるや鼻歌が止まった。
程なく、ガラリと無造作に扉を開け放ちながらバスタオルを巻いたクシナダが姿を現した。しかしその表情は湯気に隠れていてもはっきりとわかる程の苦悶が浮かんでいる。伊佐凪竜一の事を想う彼女の顔が曇る理由は1つしかない。クロノレガリア大聖堂で戦った偽物のルミナの件がまだ尾を引いていると、意味の有無など関係なく、ただ助けたいと願った相手を助けられなかった事実が拒絶という形で表出しているのだと理解してしまったのだ。
※※※
洗濯中のスーツに代わりバスタオルを雑に身体に巻いたクシナダが脱衣所に再び姿を見せたのは、伊佐凪竜一が浴室に入ってから10分ほど経過した頃。彼女は何かを手に持って脱衣所に現れると、壁にもたれ掛かった。タオルに巻かれた肢体は歳相応ながらも女性特有の美しい流線形があり、幼さの残る容姿と合わせると伊佐凪竜一を篭絡するくらい簡単に出来そうな印象を受ける。とは言え、あの様子ならそんな真似しないだろうが。
「お待たせー。取りあえず軽く食べられる物と、後はお酒ネ」
「酒?」
暗い感情を押し殺し、無理やり明るく振る舞う彼女が手に持っているのは飲食物の類。その中には何処から探してきたのか相当な年代物の酒が含まれていた。
この手の果実酒には熟成させる事で風味が増す種類もあると言う。特に旗艦産の果実酒は製造から熟成に至るまでの全データの徹底管理により安定且つ高品質の醸造を可能とする為、それなりの値段で取引されている。彼女の細い指が無造作に握る果実酒のラベルをよく見れば第一級に指定される宿泊施設ですら滅多にお目に掛かれない高級酒。恐らくVIPクラスに提供される一品だろう。
「そそ、各惑星のヤツがより取り見取り。流石に第一級宿泊施設だけあるわね」
「第一級?」
「地球風に説明するなら最上級とか高級とか、まぁそんなところ。第一級、準一級、第二級みたいに専門会社が各付けしてるのよ。この辺は地球と同じね」
「へぇ、酒と言い格付けと言いなんかアチコチでよく似てるって話を聞くなぁ」
「その辺は気にする人はするって位ね、最初は誰でも驚くんだけどさ。でも詳しく調べようとするとウチの神様が止めるのよねぇ。まぁそんな話はどうでもいいから、飲めるわよね?よね?」
お宝を見つけ少しだけ機嫌が上向いたクシナダは旗艦の常識の一部を語った。連合の各惑星の文化が似通っている事、その調査をアマテラスオオカミが阻止している事。ソレは連合において最大の謎と疑問として周知されている。が、そんなこんなよりも彼女の関心は伊佐凪竜一が酒を飲むかどうか。連合最大の謎などどうでも良いとばかりに彼女は酒を勧める。
「まぁ。ただ半年前のアレ以降、飲んでも酔えなくなったんだよね。こんな時だから有り難いけどさ」
「そうなんだ?なんか毒は効かないみたいな話は聞いたけど」
「どうも吸収されると直ぐに分解されちゃうみたいでさ。二日酔いを経験しなくて良いってのは利点だけど、でも1人だけ素面だと白けるだろうからタガミに誘われても余りそう言う場所に行かなくなったんだよね。最もアイツも飲むより食べる方が良いって言ってたけどさ」
酒を飲めと迫るクシナダにハバキリの影響で酔いとは無縁となった体質を暴露した彼は、現状を少しだけ嘆いた。圧倒的な能力に人外レベルの耐性付与と引き換えに失ったのは大人の楽しみの1つ。左程に嘆いていない様に見えるが、等価かどうかは彼のみぞ知るところだ。
「ふーん。まぁでも私相手ならあんまり気ぃ使わなくていいし、味は分かるんでしょ?」
「どうあっても飲ませたいのか」
「こんな時だからこそ、ね。程ほどなら少しは気も紛れるし、それに少しは美味しい物も身体に入れておかないと、特に頭が持たないでしょ?」
「じゃあ後で少しだけ」
「フフン。あぁでも少しだけ残念ね」
「何が?」
「酔った勢いで私を……って出来ないじゃない?」
「あらゆる方向からその話に持っていくその執念は何なの?」
「イヒヒッ、良いから気にしない気にしない」
その言動、きっと彼女なりの考えがあってのことなのだろう。精神面の悪化は戦闘能力に直結するし、何より婚姻の儀が間近に控えている。道化を演じてでも彼の気を紛らわせたい、小悪魔的な笑みに含まれた真意を私は確かに感じ取った。とても健気だと思う。でも、それでも一言言いたい……うん、破廉恥だよお前。
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