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ひみつ《有栖》
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私は夢を見ていたのかしら。
幸せな夢。
悪い夢。
悲しい夢。
久しぶりにこのお部屋に戻ってきた。
去年の晩夏に入院したから、半年と少しぶり。
兄も竜之介も笑顔でいてくれるけど、内心とても心配してくれているのが伝わってくる。
大丈夫だよ。
部屋に入ると、私の好きなアロマキャンドルの香りがした。
兄が昨日焚いていてくれたのだろう。
カーテンが春の風を受けてそよそよと揺れている。
あまり装飾はないけれど、こざっぱりと整えられた部屋。
兄らしい上質な家具やファブリックが落ち着く。
「有栖……」
部屋を見渡している私に竜之介が心配するように声をかけてくる。
「戻ってこられてうれしい…」
心の底からの言葉がこぼれる。
「有栖、おまえの家だよ。くつろいでいいんだよ」
と、兄が言う。
「うん、ありがとう……」
少しクラシカルなベランダの鉄製の格子。
覚えてる。
兄が私を寝かしつけてからそっと出て煙草を吸っていた背中。
私が竜之介の帰りを窓越しに眺めて待っていた。
覚えてる。
小ぶりなソファにはやわらかなクッションが並んでいる。
ここで兄が私に膝をついて話してくれたことも、私が兄の怪我を手当したことも、竜之介が私の手首に包帯を巻いてくれたことも、ペディキュアを丁寧に塗ってくれたことも。
覚えてる。
みんな、みんな覚えてる。
胸の奥がぎゅっと痛む。
竜之介は、どこまで覚えてるの?と言いたいのをぐっと我慢しているような顔をしてる。兄から言われているのだろう。
手術から目が覚めて、朦朧とする意識のなかでずっと考えていた。
身体は動かせなかったけど、不思議に意識はいつになく澄んでいたように思う。
そして決めたの。
記憶を奥底に沈めようって。
私が以前そうしていたように。再び。
今度は自分の意思で自分の手で沈めよう。
みんな夢だったことにして。
パパもママもチャチャも。
幸せで、絶望的に悲しい夢たち。
忘れる…忘れたふりをすることは簡単なことじゃなかった。
桃くんがあれこれ協力してくれた。
何を忘れたことにして生きるのか、何を覚えていて大切にして生きるのか。
ノートに書いて整理した。
記憶を書き換えたところすらある。
私の嘘と本当の、つぎはぎだらけの過去の記憶。
桃くんは大切に預かっておくねと言って、そのノートをいつも持ち帰った。
今も桃くんが持っているはずだ。
まだフラッシュバックもあるし、震えが止まらなくなること、涙が出てくることもある、酷い記憶や悪夢が私を殴りつける。
「でも有栖ちゃんが生きているのは"今"だよ?大切な人たちと幸せに生きている今だよ、今を見て。今を」
泣きじゃくる私に桃くんが何度も何度も言ってくれた。
ずっと泣いたらいけないと思っていた。
泣いたら、聞こえてしまうから。
隣の部屋にいる竜之介や兄に。
兄たちとの3人の暮らしが始まっても、うまく泣けなかった。
泣いたら心配かけちゃうと思って。
でも桃くんが、いつもニコニコ笑っている桃くんが、私の両手を握って、真剣な目をして言ってくれた。我慢しなくていいんだよと。幸せになることに、我慢しなくていいんだよと。
そしたらぱたぱたと涙が落ちて、久しぶりに我慢せずに泣いた。
桃くんはずっと肩をそっと撫でていてくれた。ずっとずっと。
桃くんは本当に不思議な人。
大切な人たちのためならきっとできる。
***
「お兄ちゃん…」
私は窓の外を見ながら兄に声をかける。
「なんだ?」
「秋のドライブ行けなかったけれど、あの約束、まだ間に合うかな」
私が言うと、兄はびっくりしたように目を見開いて、それからふっと目を細めて優しく優しく笑った。
「もちろん…。行こう、春のドライブ。3人で……」
春も夏も秋も冬も。
私は自分と自分の大切な人を欺きながら、都合の良い記憶を紡ぐ。
***
次回、最終回です
幸せな夢。
悪い夢。
悲しい夢。
久しぶりにこのお部屋に戻ってきた。
去年の晩夏に入院したから、半年と少しぶり。
兄も竜之介も笑顔でいてくれるけど、内心とても心配してくれているのが伝わってくる。
大丈夫だよ。
部屋に入ると、私の好きなアロマキャンドルの香りがした。
兄が昨日焚いていてくれたのだろう。
カーテンが春の風を受けてそよそよと揺れている。
あまり装飾はないけれど、こざっぱりと整えられた部屋。
兄らしい上質な家具やファブリックが落ち着く。
「有栖……」
部屋を見渡している私に竜之介が心配するように声をかけてくる。
「戻ってこられてうれしい…」
心の底からの言葉がこぼれる。
「有栖、おまえの家だよ。くつろいでいいんだよ」
と、兄が言う。
「うん、ありがとう……」
少しクラシカルなベランダの鉄製の格子。
覚えてる。
兄が私を寝かしつけてからそっと出て煙草を吸っていた背中。
私が竜之介の帰りを窓越しに眺めて待っていた。
覚えてる。
小ぶりなソファにはやわらかなクッションが並んでいる。
ここで兄が私に膝をついて話してくれたことも、私が兄の怪我を手当したことも、竜之介が私の手首に包帯を巻いてくれたことも、ペディキュアを丁寧に塗ってくれたことも。
覚えてる。
みんな、みんな覚えてる。
胸の奥がぎゅっと痛む。
竜之介は、どこまで覚えてるの?と言いたいのをぐっと我慢しているような顔をしてる。兄から言われているのだろう。
手術から目が覚めて、朦朧とする意識のなかでずっと考えていた。
身体は動かせなかったけど、不思議に意識はいつになく澄んでいたように思う。
そして決めたの。
記憶を奥底に沈めようって。
私が以前そうしていたように。再び。
今度は自分の意思で自分の手で沈めよう。
みんな夢だったことにして。
パパもママもチャチャも。
幸せで、絶望的に悲しい夢たち。
忘れる…忘れたふりをすることは簡単なことじゃなかった。
桃くんがあれこれ協力してくれた。
何を忘れたことにして生きるのか、何を覚えていて大切にして生きるのか。
ノートに書いて整理した。
記憶を書き換えたところすらある。
私の嘘と本当の、つぎはぎだらけの過去の記憶。
桃くんは大切に預かっておくねと言って、そのノートをいつも持ち帰った。
今も桃くんが持っているはずだ。
まだフラッシュバックもあるし、震えが止まらなくなること、涙が出てくることもある、酷い記憶や悪夢が私を殴りつける。
「でも有栖ちゃんが生きているのは"今"だよ?大切な人たちと幸せに生きている今だよ、今を見て。今を」
泣きじゃくる私に桃くんが何度も何度も言ってくれた。
ずっと泣いたらいけないと思っていた。
泣いたら、聞こえてしまうから。
隣の部屋にいる竜之介や兄に。
兄たちとの3人の暮らしが始まっても、うまく泣けなかった。
泣いたら心配かけちゃうと思って。
でも桃くんが、いつもニコニコ笑っている桃くんが、私の両手を握って、真剣な目をして言ってくれた。我慢しなくていいんだよと。幸せになることに、我慢しなくていいんだよと。
そしたらぱたぱたと涙が落ちて、久しぶりに我慢せずに泣いた。
桃くんはずっと肩をそっと撫でていてくれた。ずっとずっと。
桃くんは本当に不思議な人。
大切な人たちのためならきっとできる。
***
「お兄ちゃん…」
私は窓の外を見ながら兄に声をかける。
「なんだ?」
「秋のドライブ行けなかったけれど、あの約束、まだ間に合うかな」
私が言うと、兄はびっくりしたように目を見開いて、それからふっと目を細めて優しく優しく笑った。
「もちろん…。行こう、春のドライブ。3人で……」
春も夏も秋も冬も。
私は自分と自分の大切な人を欺きながら、都合の良い記憶を紡ぐ。
***
次回、最終回です
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