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翌日の仕事は普段以上にスムーズに進んだ。篠崎との関係が明確になり、やる気に繋がったのだ。自分でも現金なものだと思う。でもダメになったのではなくプラスに作用したのだからいいだろう、と言い聞かす。
 その電話は昼休みに掛かってきた。
『こんにちは』
「え、と……」
 声は景山だ。しかし連絡先は交換していないし、安西に電話してくる用があるとも思えない。声の似た仕事関係者がいただろうか。
『景山です』
「あ……」
 やはり景山だったのか。急いでフロアを出て屋上に向かった。
『今宜しいですか』
「あ、はい……」
 一体何の用だろう。心臓が跳ねる。怖い。
『昨日の話ですが、いくらご用意したら宜しいですか』
「え?」
『手切れ金ですよ。一億程ならすぐにご用意できますが』
「あの、お金じゃなくて……」
 どうして景山はこんなにも別れさせたがるのだろう。
『……アメリカには社長を待つ女性がいるんですよ』
「え……?」
 初耳だった。だって、篠崎は恋人も奥さんもいないって……。
『あなたは社長に何を残せるんですか』
「え、」
『日本にいても同性では結婚もできない。今はいいかもしれませんが、年を取った男二人の生活なんて近所からどんな目で見られるんですかね。子供だってできやしない』
 きつい言葉は、確かに正論だった。
『社長のご両親からも社長を必ずアメリカに連れ戻すようにと言われています』
 安西が何も言えないまま、ご連絡をお待ちしておりますと言って電話は切れた。

 午前中はあんなに仕事が捗ったのに。そう思うけれど仕事にプライベートを持ち込んではいけないと自分に喝を入れる。仕事は沢山ある。定時に帰れそうな気もしない。どうにかミスなく終わらせることに専念し、会社を出たのは22時を過ぎた頃だった。

「おかえり」
「ただいま戻りました」
「遅かったな」
「えぇ、ちょっと忙しくて」
 篠崎はすでにシャワーを終え、リラックスした様子でソファに座り書類を読んでいた。
「食事は?」
「まだ……」
「腹が空いているだろう」
 ということは篠崎はすでに食べたのだろう。
「いえ、ちょっと食欲なくて」
「どうした」
 篠崎が書類を投げ捨て近寄ってくる。
「いえ、ちょっと疲れただけです。大丈夫。お風呂お借りしますね」
 篠崎は怪訝そうな顔をしていたが、背を向けてしまえば追いかけてくることはなかった。

 時間は遅い。湯に浸かる時間はないのでシャワーを浴びた。もうネオンが輝いている。綺麗な夜景。飲み屋街はどこにあるのだろう。自分を捨てた母親もこんな光の中に生きているのか。人に綺麗だと言われるネオンを作り出す一つになっているのか。
「……別れるべきなのかな」
 付き合い初めて数日でこんなことになるなんて。皆こんな思いを繰り返しながら恋愛しているのだろうか。それとも自分が特殊なのか。
 付き合っていても、自分が幸せになるだけだ。篠崎の両親も篠崎にアメリカに戻ってきてほしいと思っている。それに篠崎を待つ女性がいるのなら――
 だって全て、景山の言う通りだった。安西は篠崎と付き合っていれば沢山の幸せも愛ももらえるけれど、篠崎は安西と付き合っていたって失うものばかりだ。
 バーで会ったときに言っていた「日本を気に入れば日本にいようと思っている」その後の「諒がいるから日本にいたいと思った」ということを考えると、安西がいなければ篠崎はアメリカに帰るのだ。そうすれば篠崎は景山とトラブルになることもないし、待っているという女性と結婚して子供を作ることもできる。任されているという会社だって辞めなくていいのかもしれない。
 安西と付き合うにはデメリットばかりだ。メリットが一つも浮かんでこない。
 シャワーを冷水にかえる。冷たい水が肌を刺す。痛い。痛いけど。大丈夫。これからもっと心が痛くなるから。
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