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第1話 矜恃の、境界
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#第1話 矜恃の、境界
――これは、まだ“クソ野郎”と呼び合うには、少し足りなかった頃の話。
……それでも、本気で、誰かに届くと思っていた。
「……また、死んでんじゃん。」
廃ビルの床に転がる手を見下ろし、鷹宮ルカはぽつりと呟いた。
皮膚は血を吸って灰色に沈み、潰れた片目が濁ったままこちらを向いている。
血に濡れた指先は、“何か”を掴もうとした形で固まり、もう二度と動かない。
――あと数分、早ければ。
そう思うたびに、奥歯の裏に鉄の味がにじむ。
「派手にやって……まあ、間に合わなかったか。」
何人目だったか、もう数えていない。
死体の山から始まる朝に、慣れてきた自分がいる。
慣れてしまったことが、何より胸糞悪い。
「……俺たちがやってることって、意味あんのかな。」
空気は、錆と血と鉄のにおいで肺を削る。
ポケットの中で汗ばんだ手を握りしめ、けれど拭うタイミングすらもう分からない。
「……ズレてるぞ。」
隣にいた芹原ナオが、低く呟いた。
わずかに目を伏せ、足元の遺体へと視線を落とす。
その声に、ルカはふっと笑った。
笑みに温度はなく、舌の奥に苦味だけが残った。
「テンション、上がるだろ?こういう朝。」
「お前が言うと、冗談に聞こえない。」
ネクタイが、風にわずかに揺れる。
言葉の皮を被った本音だけが、そこに取り残されたまま。
──それでも、止まれなかった。
今日もまた、“誰か”の手前で、踏みとどまれるように。
---
──数時間後、煌都の片隅。
手のひらに残った感触は、何度洗っても消えなかった。
爪の隙間に入り込んだ血の色だけが、やけに鮮明に思い出される。
現場を離れても、まだ呼吸の奥に鉄の匂いが残っていた。
ネオンと排気が渦巻く街の奥、ひっそりと佇む五階建てのビルがある。
表札も看板もないが、そこは《ルクシオン》――この街の“調整屋”の本拠地だった。
目的のある者だけが、ここを訪れる。
そのビルの一室。
ルカは、ソファに深く沈み込んでいた。
ネクタイを指先でいじりながら、天井を見上げている。
金茶の髪は後ろで緩くまとめられ、前髪が目にかかっていた。
「……まだ、匂いが取れねぇ気がするな。」
ぽつりと、独り言のように呟く。
その舌先には、さっきまでの鉄の味が残っていた。
「……洗え。」
隣で資料に目を通していたナオが、表情も変えずに返した。
短めの黒髪、隙のないスーツ、冷めた眼差し。
その声は、感情を押し殺しているわけではない。
ただ、必要以上に色がない。
ルカがちらりと視線を向ける。
「朝からこれで、午後も続きかよ。しんど……」
言いながら、ソファに沈み込む動作にだけ、妙な甘えが滲む。
ナオは何も言わず、資料をめくる指の動きを止めなかった。
──そのとき、ドアがノックされた。
「……あの、失礼します。」
扉が開く。
高めのヒールが、木の床を二度だけ叩いた。
一歩目は躊躇、二歩目は覚悟。
如月が視線をこちらに流す頃には、その逡巡はもう跡形もなかった。
現れたのは、控えめな服装の若い女性だった。
ロングスカートに薄手のカーディガン。
明るめのサングラス。
派手さはないのに、どこか夜の匂いをまとっている。
髪の一部は、片目を隠すように垂れていた。
薄く塗られたコンシーラーの下に、青紫がうっすら透けて見える。
……その理由は、聞かなくても分かった。
彼女は深く頭を下げてから、かすれた声で言った。
「こちらが、ルクシオン……ですか?
私、“クラブ・リュンヌ”で演者をしている、如月と申します。」
その場の空気が、少しだけ変わる。
「どーも。そ、うちは揉め事の“調整屋”。
受けるかどうかは、話の中身と筋次第ってとこ。」
ルカがむくりと起き上がる。
「で、“誰に、何を言われて”……ここへきた?」
その瞳には、さっきまでの緩さとは違う温度が宿っていた。
目が、彼女のカーディガンの裾が少し破れているのを捉える。
「“困ったらここへ行け”って……」
言いかけて、如月は目を伏せた。
指先が、カーディガンの裾をぎゅっと握る。
「……本当は、私が勝手に来ました。
どうしても……お願いしたくて。」
サングラスの奥の目が、一瞬だけ揺れる。
でも、その迷いはすぐに飲み込まれていった。
「最近、一部のお客様が……
演者や他の方に、強く絡んでくるようになって……」
そこで、言葉が詰まる。
唇を噛み、数秒の沈黙。
「……控室の裏で、腕を掴まれて。
痛くて、怖くて……でも、一番怖かったのは――」
彼女の声が、かすかに震える。
手がスカートの端をぎゅっと握ったまま、続けた。
「……誰も、私の怪我に触れなかったことです。
“見なかった”ふりをして、何も言わない。
でも、上の人だけが、黙って……紙を、渡してきて。」
再び、数秒の沈黙。
如月は小さく瞬きをして、吐き出すように言った。
「“言っちゃいけない”んだって、分かってたんです。
……でも、それでも。」
如月は、息を吸って。
「……だから、来ました。」
その目が、ふたりのどちらかを見ていた。
…でも、どちらを頼ったかは、言葉にならなかった。
ルカとナオが、目を合わせる。
「……あー、なるほどな。おたくのバック、アルゴスがついてんのか。」
ルカが苦笑交じりに息を吐く。
「“火種が出たら、ルクシオンに投げろ”。あそこは、いつもそうだ。」
ネクタイの端をいじりながら、どこか吐き捨てるように続ける。
「“財布と口と尻尾の掴み方”だけは超一流。
でも、手は絶対に汚さねぇ。
使えるうちは泳がせて、燃えたら切り捨てる──それが、アルゴスだ。」
目が、如月のサングラスの奥を射抜く。
「この街じゃ、《金と情報》だけで人間の価値を決めてる連中だよ。
痛みも、声も、見なかったことにしてさ。」
その声から、笑みの皮が剥がれていく。
ナオが静かに補足する。
「……うちに投げた、ってことは、もう“黙認された”ってことだ。
止める気がない。──つまり、潰して構わないって合図だ。」
ルカの指先が、ネクタイの結び目をひと撫でする。
「午後、空いてるし。──“お仕置き”くらいなら、してやるよ。」
---
──夕暮れの廃ビル。
陽が落ちかけた午後五時。
ガラスの割れた窓から吹き込む風が、蛍光灯を揺らす。
埃と油の混じったにおい。
その中心で、テーブルを挟み、二人の男が座っている。
ルカとナオ。
その向かい側には、安物のジャージにチェーンを光らせた若者たち。
──“火種”の連中だ。
「……で?あんたら、何のつもりで来たわけ?」
リーダー格の男が、煙草をくゆらせながら足を投げ出す。
ルカは無言のまま、その灰がテーブルに落ちるのを見ていた。
「クラブ・リュンヌでの暴力沙汰。
アルゴスから、“やりすぎるな”って忠告が入ってる。」
ナオが、冷たい目のままそう言った。
その言葉は、この煌都の裏社会では──国家の法より重い。
「俺たちは、伝えに来ただけだ。」
「は?ははっ、ガキのおつかいかよ。」
薄笑い。
舌打ち。
――場をなめ腐った空気。
ナオが静かに目を細める。
「そっちの言い分も聞く。
……話が通じるなら、それが一番だ。」
けれど、返ってきたのは沈黙だった。
空気が、ぬるく淀んでいく。
言葉が、地面に吸われる。
視線がぶつからず、ただ擦れる。
空気が“落ちる”音だけが、耳に響いた。
“ああ、これが限界か。”
ルカは、静かに首を傾けた。
そして、ナオにだけ、視線を送る。
「……ハニー、交代。」
低く、音を撫でるように。
ナオは瞼を伏せ、ひとつ息を吐いた。
「了解、ダーリン。」
──空気が凍る。
ルカが立ち上がる。
ネクタイをきゅっと締め直す。
儀式のように、迷いなく。
指先が震えている。
それが高揚か、怒りかは、もう誰にも分からない。
「で?お前ら、演者に何した?」
「……“ちょっと”手ぇ出しただけだろ?
それを騒ぎ立てて、大げさでさァ。」
ルカの目が、細くなる。
「……“ちょっと”って言えるのか、本人の前でも。」
「……あ?」
「……話が通じねぇなら、次は──“躾”だ。」
最後の一言に、微かに笑みが滲んだ。
ナオは何も言わない。
ただ、音のない合図で動く。
「ふざけんなコラ!」
怒鳴りながら立ち上がった男。
だが、腕が振り切られるより速く、ナオが踏み込む。
拳が、喉元に突き刺さる。
咳き込み、崩れる。
その背後、もう一人がナイフを抜いた。
「……ルカ。」
「あいよ。」
いつの間にか腰から外した鞭が、宙をしなる。
狙いすました一閃が、ナイフを持つ手首を絡め取った。
刃が落ちる音が、やけに軽い。
「お前には早い。──没収な。」
呻き声。
足元に転がるナイフ。
ルカは、笑っていた。
だが──その目には光がない。
“人間”として見ていない。
ただ、ノイズ処理を終えた後の確認のように。
ナオが回し蹴りで、もう一人を壁際に沈める。
残る数人も、戦意を失い、声も出せない。
──終わった、はずだった。
ルカが、ひとりの男に近づいた。
床に倒れ、息も絶え絶えのその顔を、無言で見下ろす。
そして、無造作に腰から鞭を外す。
「……“ちょっと”、か。よく言えたもんだ。」
ぴしゃり。
音を立てて、鞭が床を叩く。
鞭が軋み、金属が悲鳴を上げる。
その振動がルカの腕を伝い、骨の奥でじわりと疼いた。
男がびくりと身体を震わせた、その首元に──
ルカは、ゆっくりと鞭を巻きつけた。
「こっちも、“ちょっと”、やってみるか。」
声は軽い。
けれど、その目は笑っていなかった。
ルカの手が、ゆっくりと鞭を引く。
「……苦しいか?
おかしいな、"ちょっと"、なんだけどな。」
男が喉を鳴らす。
鞭が皮膚に食い込み、擦れる音が部屋に響く。
「おいルカ、やめろ。」
ナオが静かに言う。
だが、ルカは視線を落としたまま、手を止めない。
「……なあ、ナオ。言葉でわかんねぇ奴には、こうして脳ミソに直接叩き込むのが早ぇんだよ。」
「ルカ。」
「……こいつら、“届かない”とでも思ったんだよ。女の声が。
必要なのは説教じゃねぇ、……必要悪、だ。」
ルカの指が力を込める。 喉を締め上げられ、男がじたばたと暴れる。
そのとき──
ナオが、そっとその手を掴んだ。
「……もういい。」
短い言葉に、何かがほどける。
ルカの動きが止まる。
そして、わずかに笑った。
「……悪ぃ。やっぱ今日は、朝からテンション上がってたかもしんね。」
鞭を緩め、男を床に落とす。
ルカはネクタイを引き直しながら、ぽつりと呟いた。
「ここで止まれば、ギリ“躾”……かな?」
「──俺の声が、聞こえてるうちはな。」
ナオの目が細くなる。
ルカは肩をすくめ、
その足元で呻く男のことなど、もう見ていなかった。
静けさ。
わずかな喘ぎ。
そして、ルカの笑みだけが、残っていた。
チラと、未交戦の若者たちに視線を投げる。
「じゃ、伝えたからな。
"次"があれば、来るのは俺らじゃないかもしんねぇぞ。」
ナオは、自然な動作でルカの隣に立つ。
……ほんのわずかでも距離を空ければ、
足元が崩れるような気がした。
---
「雪(せつ)、監視カメラあった。消しといて。」
『……ん、任せて。』
イヤホンから零れる声。
どこか淡々としていて、けれど確かに“そこにいる”音だった。
ナオは短く頷き、ルカとともに、外の風へ歩み出す。
---
風が抜ける路地を歩きながら、ルカはふと立ち止まった。
「なあ、ダーリン。やっぱ俺……やりすぎたかな?」
何気ない口調だった。
けれど、言葉の奥に、微かに迷いが滲んでいる。
ナオは答えず、ただ一歩、隣に寄った。
「……もう聞くな、それ何回目だ。」
「たまに確認しねぇと。
……俺、なんのためにやってんのか、わかんなくなる時あるし。加減も。」
ルカは笑っていた。
でもその視線は、どこか宙を漂っている。
ナオは、ひとつだけ息を吐き、
そっと、ルカのネクタイに手を伸ばした。
結び目を整えるように、指先で軽く引く。
それは、乱れを正す仕草というよりも──
揺れた心を“戻す”ような手つきだった。
ルカはその手を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……お前が、あの時もこうしてくれてたら、
少しはマシだったのかな、俺。」
ナオは答えない。ただ、手を戻す。
その手が、“止まり続けるための答え”だった。
――こいつが隣にいる限り、俺はまだ“クソ野郎”でいられる。
沈黙の中、ルカが肩をすくめて笑った。
「……ま、今さらか。」
「……ズレてる。“躾”が足りないのは、お前だろ。」
「ネクタイの話?」
「どっちでもいい。」
ナオがわずかに目を細めた。
その一瞬だけ、ルカの仮面のような笑みが、やわらいだ。
---
──それでも、たぶん。
正義じゃない。
それでも、手を伸ばす。
“届く誰か”がいる限り、俺たちはやめない。
誰かの"均衡"のために、調整する。
それが、ルクシオンの仕事だ。
---
「……じゃ、飯行こうぜ。ナオ。」
「ガキだな。」
ルカの笑い声が、夜風に溶けた。
ネクタイが、ゆらりと揺れる。
それだけが、終わった現場に名残を刻んでいた。
---
──そのビルの斜向かい。
壊れかけた雑居ビルに取り付けられた、防犯カメラが一台。
向かいの窓に、何かが一瞬、映った。
風か、反射か──あるいは、ただの偶然かもしれない。
けれど、それがやがて
この街を揺るがす火種になるとしても──
このときの彼らは、まだ知る由もない。
そして、また誰かが、
手の届かない場所に落ちていく。
気づかぬふりをしていた“毒”は、
もう、街に、静かに、流れ出していた。
遠くで、サイレンがひとつ鳴る。
誰も気にせず、夜が回り続ける。
ネオンが滲む路地に、まだ血と煙の匂いが残っていた。
その中で、二人の影だけが、確かに並んでいた。
――これは、まだ“クソ野郎”と呼び合うには、少し足りなかった頃の話。
……それでも、本気で、誰かに届くと思っていた。
「……また、死んでんじゃん。」
廃ビルの床に転がる手を見下ろし、鷹宮ルカはぽつりと呟いた。
皮膚は血を吸って灰色に沈み、潰れた片目が濁ったままこちらを向いている。
血に濡れた指先は、“何か”を掴もうとした形で固まり、もう二度と動かない。
――あと数分、早ければ。
そう思うたびに、奥歯の裏に鉄の味がにじむ。
「派手にやって……まあ、間に合わなかったか。」
何人目だったか、もう数えていない。
死体の山から始まる朝に、慣れてきた自分がいる。
慣れてしまったことが、何より胸糞悪い。
「……俺たちがやってることって、意味あんのかな。」
空気は、錆と血と鉄のにおいで肺を削る。
ポケットの中で汗ばんだ手を握りしめ、けれど拭うタイミングすらもう分からない。
「……ズレてるぞ。」
隣にいた芹原ナオが、低く呟いた。
わずかに目を伏せ、足元の遺体へと視線を落とす。
その声に、ルカはふっと笑った。
笑みに温度はなく、舌の奥に苦味だけが残った。
「テンション、上がるだろ?こういう朝。」
「お前が言うと、冗談に聞こえない。」
ネクタイが、風にわずかに揺れる。
言葉の皮を被った本音だけが、そこに取り残されたまま。
──それでも、止まれなかった。
今日もまた、“誰か”の手前で、踏みとどまれるように。
---
──数時間後、煌都の片隅。
手のひらに残った感触は、何度洗っても消えなかった。
爪の隙間に入り込んだ血の色だけが、やけに鮮明に思い出される。
現場を離れても、まだ呼吸の奥に鉄の匂いが残っていた。
ネオンと排気が渦巻く街の奥、ひっそりと佇む五階建てのビルがある。
表札も看板もないが、そこは《ルクシオン》――この街の“調整屋”の本拠地だった。
目的のある者だけが、ここを訪れる。
そのビルの一室。
ルカは、ソファに深く沈み込んでいた。
ネクタイを指先でいじりながら、天井を見上げている。
金茶の髪は後ろで緩くまとめられ、前髪が目にかかっていた。
「……まだ、匂いが取れねぇ気がするな。」
ぽつりと、独り言のように呟く。
その舌先には、さっきまでの鉄の味が残っていた。
「……洗え。」
隣で資料に目を通していたナオが、表情も変えずに返した。
短めの黒髪、隙のないスーツ、冷めた眼差し。
その声は、感情を押し殺しているわけではない。
ただ、必要以上に色がない。
ルカがちらりと視線を向ける。
「朝からこれで、午後も続きかよ。しんど……」
言いながら、ソファに沈み込む動作にだけ、妙な甘えが滲む。
ナオは何も言わず、資料をめくる指の動きを止めなかった。
──そのとき、ドアがノックされた。
「……あの、失礼します。」
扉が開く。
高めのヒールが、木の床を二度だけ叩いた。
一歩目は躊躇、二歩目は覚悟。
如月が視線をこちらに流す頃には、その逡巡はもう跡形もなかった。
現れたのは、控えめな服装の若い女性だった。
ロングスカートに薄手のカーディガン。
明るめのサングラス。
派手さはないのに、どこか夜の匂いをまとっている。
髪の一部は、片目を隠すように垂れていた。
薄く塗られたコンシーラーの下に、青紫がうっすら透けて見える。
……その理由は、聞かなくても分かった。
彼女は深く頭を下げてから、かすれた声で言った。
「こちらが、ルクシオン……ですか?
私、“クラブ・リュンヌ”で演者をしている、如月と申します。」
その場の空気が、少しだけ変わる。
「どーも。そ、うちは揉め事の“調整屋”。
受けるかどうかは、話の中身と筋次第ってとこ。」
ルカがむくりと起き上がる。
「で、“誰に、何を言われて”……ここへきた?」
その瞳には、さっきまでの緩さとは違う温度が宿っていた。
目が、彼女のカーディガンの裾が少し破れているのを捉える。
「“困ったらここへ行け”って……」
言いかけて、如月は目を伏せた。
指先が、カーディガンの裾をぎゅっと握る。
「……本当は、私が勝手に来ました。
どうしても……お願いしたくて。」
サングラスの奥の目が、一瞬だけ揺れる。
でも、その迷いはすぐに飲み込まれていった。
「最近、一部のお客様が……
演者や他の方に、強く絡んでくるようになって……」
そこで、言葉が詰まる。
唇を噛み、数秒の沈黙。
「……控室の裏で、腕を掴まれて。
痛くて、怖くて……でも、一番怖かったのは――」
彼女の声が、かすかに震える。
手がスカートの端をぎゅっと握ったまま、続けた。
「……誰も、私の怪我に触れなかったことです。
“見なかった”ふりをして、何も言わない。
でも、上の人だけが、黙って……紙を、渡してきて。」
再び、数秒の沈黙。
如月は小さく瞬きをして、吐き出すように言った。
「“言っちゃいけない”んだって、分かってたんです。
……でも、それでも。」
如月は、息を吸って。
「……だから、来ました。」
その目が、ふたりのどちらかを見ていた。
…でも、どちらを頼ったかは、言葉にならなかった。
ルカとナオが、目を合わせる。
「……あー、なるほどな。おたくのバック、アルゴスがついてんのか。」
ルカが苦笑交じりに息を吐く。
「“火種が出たら、ルクシオンに投げろ”。あそこは、いつもそうだ。」
ネクタイの端をいじりながら、どこか吐き捨てるように続ける。
「“財布と口と尻尾の掴み方”だけは超一流。
でも、手は絶対に汚さねぇ。
使えるうちは泳がせて、燃えたら切り捨てる──それが、アルゴスだ。」
目が、如月のサングラスの奥を射抜く。
「この街じゃ、《金と情報》だけで人間の価値を決めてる連中だよ。
痛みも、声も、見なかったことにしてさ。」
その声から、笑みの皮が剥がれていく。
ナオが静かに補足する。
「……うちに投げた、ってことは、もう“黙認された”ってことだ。
止める気がない。──つまり、潰して構わないって合図だ。」
ルカの指先が、ネクタイの結び目をひと撫でする。
「午後、空いてるし。──“お仕置き”くらいなら、してやるよ。」
---
──夕暮れの廃ビル。
陽が落ちかけた午後五時。
ガラスの割れた窓から吹き込む風が、蛍光灯を揺らす。
埃と油の混じったにおい。
その中心で、テーブルを挟み、二人の男が座っている。
ルカとナオ。
その向かい側には、安物のジャージにチェーンを光らせた若者たち。
──“火種”の連中だ。
「……で?あんたら、何のつもりで来たわけ?」
リーダー格の男が、煙草をくゆらせながら足を投げ出す。
ルカは無言のまま、その灰がテーブルに落ちるのを見ていた。
「クラブ・リュンヌでの暴力沙汰。
アルゴスから、“やりすぎるな”って忠告が入ってる。」
ナオが、冷たい目のままそう言った。
その言葉は、この煌都の裏社会では──国家の法より重い。
「俺たちは、伝えに来ただけだ。」
「は?ははっ、ガキのおつかいかよ。」
薄笑い。
舌打ち。
――場をなめ腐った空気。
ナオが静かに目を細める。
「そっちの言い分も聞く。
……話が通じるなら、それが一番だ。」
けれど、返ってきたのは沈黙だった。
空気が、ぬるく淀んでいく。
言葉が、地面に吸われる。
視線がぶつからず、ただ擦れる。
空気が“落ちる”音だけが、耳に響いた。
“ああ、これが限界か。”
ルカは、静かに首を傾けた。
そして、ナオにだけ、視線を送る。
「……ハニー、交代。」
低く、音を撫でるように。
ナオは瞼を伏せ、ひとつ息を吐いた。
「了解、ダーリン。」
──空気が凍る。
ルカが立ち上がる。
ネクタイをきゅっと締め直す。
儀式のように、迷いなく。
指先が震えている。
それが高揚か、怒りかは、もう誰にも分からない。
「で?お前ら、演者に何した?」
「……“ちょっと”手ぇ出しただけだろ?
それを騒ぎ立てて、大げさでさァ。」
ルカの目が、細くなる。
「……“ちょっと”って言えるのか、本人の前でも。」
「……あ?」
「……話が通じねぇなら、次は──“躾”だ。」
最後の一言に、微かに笑みが滲んだ。
ナオは何も言わない。
ただ、音のない合図で動く。
「ふざけんなコラ!」
怒鳴りながら立ち上がった男。
だが、腕が振り切られるより速く、ナオが踏み込む。
拳が、喉元に突き刺さる。
咳き込み、崩れる。
その背後、もう一人がナイフを抜いた。
「……ルカ。」
「あいよ。」
いつの間にか腰から外した鞭が、宙をしなる。
狙いすました一閃が、ナイフを持つ手首を絡め取った。
刃が落ちる音が、やけに軽い。
「お前には早い。──没収な。」
呻き声。
足元に転がるナイフ。
ルカは、笑っていた。
だが──その目には光がない。
“人間”として見ていない。
ただ、ノイズ処理を終えた後の確認のように。
ナオが回し蹴りで、もう一人を壁際に沈める。
残る数人も、戦意を失い、声も出せない。
──終わった、はずだった。
ルカが、ひとりの男に近づいた。
床に倒れ、息も絶え絶えのその顔を、無言で見下ろす。
そして、無造作に腰から鞭を外す。
「……“ちょっと”、か。よく言えたもんだ。」
ぴしゃり。
音を立てて、鞭が床を叩く。
鞭が軋み、金属が悲鳴を上げる。
その振動がルカの腕を伝い、骨の奥でじわりと疼いた。
男がびくりと身体を震わせた、その首元に──
ルカは、ゆっくりと鞭を巻きつけた。
「こっちも、“ちょっと”、やってみるか。」
声は軽い。
けれど、その目は笑っていなかった。
ルカの手が、ゆっくりと鞭を引く。
「……苦しいか?
おかしいな、"ちょっと"、なんだけどな。」
男が喉を鳴らす。
鞭が皮膚に食い込み、擦れる音が部屋に響く。
「おいルカ、やめろ。」
ナオが静かに言う。
だが、ルカは視線を落としたまま、手を止めない。
「……なあ、ナオ。言葉でわかんねぇ奴には、こうして脳ミソに直接叩き込むのが早ぇんだよ。」
「ルカ。」
「……こいつら、“届かない”とでも思ったんだよ。女の声が。
必要なのは説教じゃねぇ、……必要悪、だ。」
ルカの指が力を込める。 喉を締め上げられ、男がじたばたと暴れる。
そのとき──
ナオが、そっとその手を掴んだ。
「……もういい。」
短い言葉に、何かがほどける。
ルカの動きが止まる。
そして、わずかに笑った。
「……悪ぃ。やっぱ今日は、朝からテンション上がってたかもしんね。」
鞭を緩め、男を床に落とす。
ルカはネクタイを引き直しながら、ぽつりと呟いた。
「ここで止まれば、ギリ“躾”……かな?」
「──俺の声が、聞こえてるうちはな。」
ナオの目が細くなる。
ルカは肩をすくめ、
その足元で呻く男のことなど、もう見ていなかった。
静けさ。
わずかな喘ぎ。
そして、ルカの笑みだけが、残っていた。
チラと、未交戦の若者たちに視線を投げる。
「じゃ、伝えたからな。
"次"があれば、来るのは俺らじゃないかもしんねぇぞ。」
ナオは、自然な動作でルカの隣に立つ。
……ほんのわずかでも距離を空ければ、
足元が崩れるような気がした。
---
「雪(せつ)、監視カメラあった。消しといて。」
『……ん、任せて。』
イヤホンから零れる声。
どこか淡々としていて、けれど確かに“そこにいる”音だった。
ナオは短く頷き、ルカとともに、外の風へ歩み出す。
---
風が抜ける路地を歩きながら、ルカはふと立ち止まった。
「なあ、ダーリン。やっぱ俺……やりすぎたかな?」
何気ない口調だった。
けれど、言葉の奥に、微かに迷いが滲んでいる。
ナオは答えず、ただ一歩、隣に寄った。
「……もう聞くな、それ何回目だ。」
「たまに確認しねぇと。
……俺、なんのためにやってんのか、わかんなくなる時あるし。加減も。」
ルカは笑っていた。
でもその視線は、どこか宙を漂っている。
ナオは、ひとつだけ息を吐き、
そっと、ルカのネクタイに手を伸ばした。
結び目を整えるように、指先で軽く引く。
それは、乱れを正す仕草というよりも──
揺れた心を“戻す”ような手つきだった。
ルカはその手を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……お前が、あの時もこうしてくれてたら、
少しはマシだったのかな、俺。」
ナオは答えない。ただ、手を戻す。
その手が、“止まり続けるための答え”だった。
――こいつが隣にいる限り、俺はまだ“クソ野郎”でいられる。
沈黙の中、ルカが肩をすくめて笑った。
「……ま、今さらか。」
「……ズレてる。“躾”が足りないのは、お前だろ。」
「ネクタイの話?」
「どっちでもいい。」
ナオがわずかに目を細めた。
その一瞬だけ、ルカの仮面のような笑みが、やわらいだ。
---
──それでも、たぶん。
正義じゃない。
それでも、手を伸ばす。
“届く誰か”がいる限り、俺たちはやめない。
誰かの"均衡"のために、調整する。
それが、ルクシオンの仕事だ。
---
「……じゃ、飯行こうぜ。ナオ。」
「ガキだな。」
ルカの笑い声が、夜風に溶けた。
ネクタイが、ゆらりと揺れる。
それだけが、終わった現場に名残を刻んでいた。
---
──そのビルの斜向かい。
壊れかけた雑居ビルに取り付けられた、防犯カメラが一台。
向かいの窓に、何かが一瞬、映った。
風か、反射か──あるいは、ただの偶然かもしれない。
けれど、それがやがて
この街を揺るがす火種になるとしても──
このときの彼らは、まだ知る由もない。
そして、また誰かが、
手の届かない場所に落ちていく。
気づかぬふりをしていた“毒”は、
もう、街に、静かに、流れ出していた。
遠くで、サイレンがひとつ鳴る。
誰も気にせず、夜が回り続ける。
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