俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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第1話 矜恃の、境界

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#第1話 矜恃の、境界


――これは、まだ“クソ野郎”と呼び合うには、少し足りなかった頃の話。
……それでも、本気で、誰かに届くと思っていた。

「……また、死んでんじゃん。」

廃ビルの床に転がる手を見下ろし、鷹宮ルカはぽつりと呟いた。

皮膚は血を吸って灰色に沈み、潰れた片目が濁ったままこちらを向いている。
血に濡れた指先は、“何か”を掴もうとした形で固まり、もう二度と動かない。

――あと数分、早ければ。
そう思うたびに、奥歯の裏に鉄の味がにじむ。

「派手にやって……まあ、間に合わなかったか。」

何人目だったか、もう数えていない。
死体の山から始まる朝に、慣れてきた自分がいる。
慣れてしまったことが、何より胸糞悪い。

「……俺たちがやってることって、意味あんのかな。」

空気は、錆と血と鉄のにおいで肺を削る。
ポケットの中で汗ばんだ手を握りしめ、けれど拭うタイミングすらもう分からない。

「……ズレてるぞ。」

隣にいた芹原ナオが、低く呟いた。
わずかに目を伏せ、足元の遺体へと視線を落とす。

その声に、ルカはふっと笑った。
笑みに温度はなく、舌の奥に苦味だけが残った。

「テンション、上がるだろ?こういう朝。」
「お前が言うと、冗談に聞こえない。」

ネクタイが、風にわずかに揺れる。
言葉の皮を被った本音だけが、そこに取り残されたまま。

──それでも、止まれなかった。

今日もまた、“誰か”の手前で、踏みとどまれるように。



---

──数時間後、煌都の片隅。
手のひらに残った感触は、何度洗っても消えなかった。
爪の隙間に入り込んだ血の色だけが、やけに鮮明に思い出される。

現場を離れても、まだ呼吸の奥に鉄の匂いが残っていた。

ネオンと排気が渦巻く街の奥、ひっそりと佇む五階建てのビルがある。
表札も看板もないが、そこは《ルクシオン》――この街の“調整屋”の本拠地だった。
目的のある者だけが、ここを訪れる。

そのビルの一室。
ルカは、ソファに深く沈み込んでいた。

ネクタイを指先でいじりながら、天井を見上げている。
金茶の髪は後ろで緩くまとめられ、前髪が目にかかっていた。

「……まだ、匂いが取れねぇ気がするな。」

ぽつりと、独り言のように呟く。
その舌先には、さっきまでの鉄の味が残っていた。

「……洗え。」

隣で資料に目を通していたナオが、表情も変えずに返した。
短めの黒髪、隙のないスーツ、冷めた眼差し。
その声は、感情を押し殺しているわけではない。
ただ、必要以上に色がない。

ルカがちらりと視線を向ける。

「朝からこれで、午後も続きかよ。しんど……」

言いながら、ソファに沈み込む動作にだけ、妙な甘えが滲む。
ナオは何も言わず、資料をめくる指の動きを止めなかった。

──そのとき、ドアがノックされた。

「……あの、失礼します。」

扉が開く。
高めのヒールが、木の床を二度だけ叩いた。
一歩目は躊躇、二歩目は覚悟。
如月が視線をこちらに流す頃には、その逡巡はもう跡形もなかった。

現れたのは、控えめな服装の若い女性だった。
ロングスカートに薄手のカーディガン。
明るめのサングラス。
派手さはないのに、どこか夜の匂いをまとっている。

髪の一部は、片目を隠すように垂れていた。
薄く塗られたコンシーラーの下に、青紫がうっすら透けて見える。

……その理由は、聞かなくても分かった。

彼女は深く頭を下げてから、かすれた声で言った。

「こちらが、ルクシオン……ですか?
私、“クラブ・リュンヌ”で演者をしている、如月と申します。」

その場の空気が、少しだけ変わる。

「どーも。そ、うちは揉め事の“調整屋”。
受けるかどうかは、話の中身と筋次第ってとこ。」

ルカがむくりと起き上がる。

「で、“誰に、何を言われて”……ここへきた?」

その瞳には、さっきまでの緩さとは違う温度が宿っていた。
目が、彼女のカーディガンの裾が少し破れているのを捉える。

「“困ったらここへ行け”って……」

言いかけて、如月は目を伏せた。
指先が、カーディガンの裾をぎゅっと握る。

「……本当は、私が勝手に来ました。
どうしても……お願いしたくて。」

サングラスの奥の目が、一瞬だけ揺れる。
でも、その迷いはすぐに飲み込まれていった。

「最近、一部のお客様が……
演者や他の方に、強く絡んでくるようになって……」

そこで、言葉が詰まる。
唇を噛み、数秒の沈黙。

「……控室の裏で、腕を掴まれて。
痛くて、怖くて……でも、一番怖かったのは――」

彼女の声が、かすかに震える。
手がスカートの端をぎゅっと握ったまま、続けた。

「……誰も、私の怪我に触れなかったことです。
“見なかった”ふりをして、何も言わない。
でも、上の人だけが、黙って……紙を、渡してきて。」

再び、数秒の沈黙。
如月は小さく瞬きをして、吐き出すように言った。

「“言っちゃいけない”んだって、分かってたんです。
……でも、それでも。」

如月は、息を吸って。

「……だから、来ました。」

その目が、ふたりのどちらかを見ていた。
…でも、どちらを頼ったかは、言葉にならなかった。

ルカとナオが、目を合わせる。

「……あー、なるほどな。おたくのバック、アルゴスがついてんのか。」

ルカが苦笑交じりに息を吐く。

「“火種が出たら、ルクシオンに投げろ”。あそこは、いつもそうだ。」

ネクタイの端をいじりながら、どこか吐き捨てるように続ける。

「“財布と口と尻尾の掴み方”だけは超一流。
でも、手は絶対に汚さねぇ。
使えるうちは泳がせて、燃えたら切り捨てる──それが、アルゴスだ。」

目が、如月のサングラスの奥を射抜く。

「この街じゃ、《金と情報》だけで人間の価値を決めてる連中だよ。
痛みも、声も、見なかったことにしてさ。」

その声から、笑みの皮が剥がれていく。
ナオが静かに補足する。

「……うちに投げた、ってことは、もう“黙認された”ってことだ。
止める気がない。──つまり、潰して構わないって合図だ。」

ルカの指先が、ネクタイの結び目をひと撫でする。

「午後、空いてるし。──“お仕置き”くらいなら、してやるよ。」


---

──夕暮れの廃ビル。

陽が落ちかけた午後五時。
ガラスの割れた窓から吹き込む風が、蛍光灯を揺らす。
埃と油の混じったにおい。
その中心で、テーブルを挟み、二人の男が座っている。

ルカとナオ。
その向かい側には、安物のジャージにチェーンを光らせた若者たち。
──“火種”の連中だ。

「……で?あんたら、何のつもりで来たわけ?」

リーダー格の男が、煙草をくゆらせながら足を投げ出す。
ルカは無言のまま、その灰がテーブルに落ちるのを見ていた。

「クラブ・リュンヌでの暴力沙汰。
アルゴスから、“やりすぎるな”って忠告が入ってる。」

ナオが、冷たい目のままそう言った。
その言葉は、この煌都の裏社会では──国家の法より重い。

「俺たちは、伝えに来ただけだ。」
「は?ははっ、ガキのおつかいかよ。」

薄笑い。
舌打ち。
――場をなめ腐った空気。

ナオが静かに目を細める。

「そっちの言い分も聞く。
……話が通じるなら、それが一番だ。」

けれど、返ってきたのは沈黙だった。
空気が、ぬるく淀んでいく。

言葉が、地面に吸われる。
視線がぶつからず、ただ擦れる。
空気が“落ちる”音だけが、耳に響いた。

“ああ、これが限界か。”

ルカは、静かに首を傾けた。
そして、ナオにだけ、視線を送る。

「……ハニー、交代。」

低く、音を撫でるように。
ナオは瞼を伏せ、ひとつ息を吐いた。

「了解、ダーリン。」

──空気が凍る。

ルカが立ち上がる。
ネクタイをきゅっと締め直す。
儀式のように、迷いなく。

指先が震えている。
それが高揚か、怒りかは、もう誰にも分からない。

「で?お前ら、演者に何した?」
「……“ちょっと”手ぇ出しただけだろ?
それを騒ぎ立てて、大げさでさァ。」

ルカの目が、細くなる。

「……“ちょっと”って言えるのか、本人の前でも。」
「……あ?」
「……話が通じねぇなら、次は──“躾”だ。」

最後の一言に、微かに笑みが滲んだ。

ナオは何も言わない。
ただ、音のない合図で動く。

「ふざけんなコラ!」

怒鳴りながら立ち上がった男。
だが、腕が振り切られるより速く、ナオが踏み込む。

拳が、喉元に突き刺さる。
咳き込み、崩れる。
その背後、もう一人がナイフを抜いた。

「……ルカ。」
「あいよ。」

いつの間にか腰から外した鞭が、宙をしなる。
狙いすました一閃が、ナイフを持つ手首を絡め取った。
刃が落ちる音が、やけに軽い。

「お前には早い。──没収な。」

呻き声。
足元に転がるナイフ。
ルカは、笑っていた。

だが──その目には光がない。

“人間”として見ていない。
ただ、ノイズ処理を終えた後の確認のように。

ナオが回し蹴りで、もう一人を壁際に沈める。
残る数人も、戦意を失い、声も出せない。

──終わった、はずだった。

ルカが、ひとりの男に近づいた。
床に倒れ、息も絶え絶えのその顔を、無言で見下ろす。

そして、無造作に腰から鞭を外す。

「……“ちょっと”、か。よく言えたもんだ。」

ぴしゃり。
音を立てて、鞭が床を叩く。
鞭が軋み、金属が悲鳴を上げる。
その振動がルカの腕を伝い、骨の奥でじわりと疼いた。

男がびくりと身体を震わせた、その首元に──
ルカは、ゆっくりと鞭を巻きつけた。

「こっちも、“ちょっと”、やってみるか。」

声は軽い。
けれど、その目は笑っていなかった。
ルカの手が、ゆっくりと鞭を引く。

「……苦しいか?
おかしいな、"ちょっと"、なんだけどな。」

男が喉を鳴らす。
鞭が皮膚に食い込み、擦れる音が部屋に響く。

「おいルカ、やめろ。」

ナオが静かに言う。
だが、ルカは視線を落としたまま、手を止めない。

「……なあ、ナオ。言葉でわかんねぇ奴には、こうして脳ミソに直接叩き込むのが早ぇんだよ。」
「ルカ。」
「……こいつら、“届かない”とでも思ったんだよ。女の声が。
必要なのは説教じゃねぇ、……必要悪、だ。」

ルカの指が力を込める。 喉を締め上げられ、男がじたばたと暴れる。

そのとき──

ナオが、そっとその手を掴んだ。

「……もういい。」

短い言葉に、何かがほどける。
ルカの動きが止まる。

そして、わずかに笑った。

「……悪ぃ。やっぱ今日は、朝からテンション上がってたかもしんね。」

鞭を緩め、男を床に落とす。
ルカはネクタイを引き直しながら、ぽつりと呟いた。

「ここで止まれば、ギリ“躾”……かな?」
「──俺の声が、聞こえてるうちはな。」

ナオの目が細くなる。

ルカは肩をすくめ、
その足元で呻く男のことなど、もう見ていなかった。

静けさ。
わずかな喘ぎ。
そして、ルカの笑みだけが、残っていた。
チラと、未交戦の若者たちに視線を投げる。

「じゃ、伝えたからな。
"次"があれば、来るのは俺らじゃないかもしんねぇぞ。」

ナオは、自然な動作でルカの隣に立つ。

……ほんのわずかでも距離を空ければ、
足元が崩れるような気がした。


---

「雪(せつ)、監視カメラあった。消しといて。」

『……ん、任せて。』

イヤホンから零れる声。
どこか淡々としていて、けれど確かに“そこにいる”音だった。

ナオは短く頷き、ルカとともに、外の風へ歩み出す。


---

風が抜ける路地を歩きながら、ルカはふと立ち止まった。

「なあ、ダーリン。やっぱ俺……やりすぎたかな?」

何気ない口調だった。
けれど、言葉の奥に、微かに迷いが滲んでいる。

ナオは答えず、ただ一歩、隣に寄った。

「……もう聞くな、それ何回目だ。」
「たまに確認しねぇと。
……俺、なんのためにやってんのか、わかんなくなる時あるし。加減も。」

ルカは笑っていた。
でもその視線は、どこか宙を漂っている。

ナオは、ひとつだけ息を吐き、
そっと、ルカのネクタイに手を伸ばした。
結び目を整えるように、指先で軽く引く。

それは、乱れを正す仕草というよりも──
揺れた心を“戻す”ような手つきだった。

ルカはその手を見つめながら、ぽつりと呟く。

「……お前が、あの時もこうしてくれてたら、
少しはマシだったのかな、俺。」

ナオは答えない。ただ、手を戻す。
その手が、“止まり続けるための答え”だった。

――こいつが隣にいる限り、俺はまだ“クソ野郎”でいられる。

沈黙の中、ルカが肩をすくめて笑った。

「……ま、今さらか。」
「……ズレてる。“躾”が足りないのは、お前だろ。」
「ネクタイの話?」
「どっちでもいい。」

ナオがわずかに目を細めた。
その一瞬だけ、ルカの仮面のような笑みが、やわらいだ。


---

──それでも、たぶん。

正義じゃない。
それでも、手を伸ばす。

“届く誰か”がいる限り、俺たちはやめない。
誰かの"均衡"のために、調整する。
それが、ルクシオンの仕事だ。


---

「……じゃ、飯行こうぜ。ナオ。」
「ガキだな。」

ルカの笑い声が、夜風に溶けた。
ネクタイが、ゆらりと揺れる。

それだけが、終わった現場に名残を刻んでいた。


---

──そのビルの斜向かい。
壊れかけた雑居ビルに取り付けられた、防犯カメラが一台。

向かいの窓に、何かが一瞬、映った。

風か、反射か──あるいは、ただの偶然かもしれない。

けれど、それがやがて
この街を揺るがす火種になるとしても──

このときの彼らは、まだ知る由もない。


そして、また誰かが、
手の届かない場所に落ちていく。

気づかぬふりをしていた“毒”は、
もう、街に、静かに、流れ出していた。


遠くで、サイレンがひとつ鳴る。
誰も気にせず、夜が回り続ける。
ネオンが滲む路地に、まだ血と煙の匂いが残っていた。
その中で、二人の影だけが、確かに並んでいた。
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