俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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第7話 楽園追放(前編)

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# 第7話 楽園追放(前編)


足音が、やけにうるさく響いた。
心臓の音かと思ったが、それはまだ――遅れてやってくる。

狭い路地。
砕けたブロック塀を飛び越え、フェンスの隙間を抜ける。
雪の声がドローン越しに耳を打った。

『そのまま直進。右手の路地に入って』

淡々とした指示が、かえって現実味を失わせていた。

死ねるならそれでいいと、ずっと思ってた。
なのに、逃げてる。
走って、必死で、生きようとしてる。

「……ふざけんなよ……」

喉の奥から、呟きが漏れた。
こんなの、滑稽でしかない。
生きたいなんて思ってないはずなのに――
心も、身体も、ぐちゃぐちゃに裏切ってくる。

「なんで俺ばっか……なんで……!」

角を曲がった瞬間、背後から腕を掴まれた。
振り返る間もなく、壁に叩きつけられる。
瞬間、視界が赤く弾けた。

「……ふざけんなよッ!!」

咄嗟に肘を打ち込み、相手の腹を突く。
体勢を崩した相手に飛びかかり、そのまま馬乗りになる。

拳が落ちる。
一発、二発、三発――数なんてどうでもよかった。
殴るたび、胸の奥が冷たくなっていく。

「俺は……っ、お前らみたいに、選ばれたことなんかねぇんだよ……!」

ドローンの視界越しに、雪が見た。  
クラウンの瞳は、何かを燃やすように濁っていた。

『クラウン!?待っ…っ!』
「最初から…何にも持ってなかったんだよ……!!」

誰に言っているのかも分からない。
拳も、涙も、止まる気配なんてなかった。  
止まらない。  
止まれない。  
その瞬間――

「やめろ」

乾いた声が、背後から落ちてきた。
振り上げた腕を強く捕まれ、
クラウンの動きが、止まる。
振り返る。
その視線の先に、無表情の男が立っていた。

周囲の喧騒が、音を失ったように感じた。

その指先は、冷たくて、優しくて、  
まるで――

「……っ、なんだよ……!」

クラウンの瞳が揺れた。  
握られた腕が、震えを増した。  
そしてそのまま、崩れるように相手の上から降りて、  
膝をついた。

崩れたのは身体だけじゃない。  
ぐちゃぐちゃになった感情が、喉の奥で音もなく泡立っていた。

肩が、小刻みに震えていた。
ボタボタと、大粒の涙が頬を伝い落ちた。
鼻の奥がつんと痛み、張りつめた喉に息が詰まる。
顔を上げることもできず、耳に届くのは、雫が地面を叩く鈍い音だけだった。

泣きたくなんてなかった。
なのに、言葉の代わりに零れていく。
ただ、怖くて、悔しくて、情けなくて――
どうしようもなく惨めな感情が、溢れて止まらなかった。

ナオはそれを止めなかった。
掴んだ腕に力を込めたまま、静かにその熱を受け止めていた。

どれほどの間だっただろうか。

遠く、かすれたような声が、ドローンのスピーカー越しに響いた。

『……ね、ルカ兄。この子、……連れてきて。』

その響きに、ルカがわずかに眉を動かした。
一拍の沈黙。

「……ルクシオンに、か?」
『……ううん。――私の部屋に。』

空気が、一段階深く静まった。
ルカとナオが視線を交わす。

雪の部屋――ルクシオンの半地下にあるその空間は、
雪が引きこもりのように過ごす、唯一の“居場所”だった。

小さな冷蔵庫と、最低限の生活用品、トイレ。
外に出る必要すらない設計。

クラウンが三大勢力すべてに喧嘩を売っている状態では、
どこが何を仕掛けてくるか分からない。
今は“雪の部屋”こそが、クラウンにとっての避難所になり得る。

ルカは一瞬だけ目を伏せ、そして静かに頷いた。

「……分かった。ナオ、クラウンを。」

ナオは言葉もなく、そっと、腕を支え直した。
その手には、迷いも、拒絶もなかった。
クラウンはもう、拒む気力すら残っていないように、
ただ、泣き濡れた顔を隠すようにうつむいたままだった。

+++

――夜の裏通りを、三つの足音だけが静かに響いていた。

その手の温度は、現実のものとは思えなかった。
本当は、まだ夢なんじゃないかって、そんな逃げ道ばかり探していた。
それでも、足は止まらなかった。止めてしまえば、全部が崩れそうで――。

『……右に。うん、そのまま。』

乾いた声が、ドローン越しに頭上から届く。
雪の指示は短く、正確で、どこか優しかった。

道の脇には、フェンスで囲まれた工事現場。
薄暗い照明が頼りなく照らす中、
三人は、誰にも気づかれぬように歩を進める。

『そこは通らないで。……回って。』

雪の声に従って、角を曲がり、さらに奥へ。
ビルの影と影のあいだを縫うように進むその道は、
まるで街の心臓を避けて歩くようだった。

「……こっちだ。」

ルカの低い声に誘導される。
前を歩くその背中だけが、頼りだった。

やがて、目の前に現れた古びた金属扉。
押し黙ったままのナオが、ドアノブを回すと、がちゃり、と重い音をたてる。

「……ここが、終点だ。」

ルカの声を合図に、足元の鉄扉が、ゆっくりと開いていく。

冷たいのに、不思議と怖くなかった。
まるで世界から切り離された、ひとつの深海のようだった。


――建物に足を踏み入れてすぐ、右手の壁際に、
見落としてしまいそうな階段があった。
誰にも気づかれないように設けられた、ひっそりとした下り道。

ルカが一歩だけ視線を送ると、ナオも無言でそれに続いた。
クラウンも、ゆっくりと足を踏み出す。
三人は音を立てないように、静かに階段を下りていく。

わずか十数段の、短い階段。
でも、その先に漂う空気は、明らかに街とは異なっていた。
地下特有の冷たさと、閉ざされた空間の気配。
そして、その中にわずかに混じる、微かな甘い香り。

階段を下りきった先――
そこには、ひとつの扉があった。

重そうな金属製のドア。けれど装飾もなく、ただ静かに佇んでいる。

クラウンが戸惑うように足を止めると、
背後で、ルカとナオの気配が止まった。

「……ここだ。」

ルカの声が、深く落ちてくる。

クラウンは振り返らない。
けれど、足元から伝わる空気で分かる。
二人がもうそれ以上進まないこと。
ここから先は、自分の意思で踏み込むしかないこと。

「……開けるんだ、自分で。」

その一言に、クラウンの指先がわずかに震えた。

――その一歩を、彼に選ばせるために。
二人は、ただ静かに待っていた。

喉が詰まりそうになる。
息を吸うのも、怖かった。
けれど――それでももう、逃げたくなかった。

クラウンは手を伸ばす。
冷たいドアノブに触れ、そっと押し出す。

ぎぎ、と鈍い音が、静寂の中に響いた。

開いた先から漏れたのは、ぬるい灯りと、
まるで誰かの“心音”のように、微かに揺れる空気だった。

その空気を、クラウンはそっと吸い込んだ。
…息をしてもいいと、やっと思えた。
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