俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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第24話 狼と火花

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#第24話 狼と火花


――あの夜から、いくつか日が過ぎた。

混乱は、ようやく街の隅々から抜け落ちつつある。
叉道街の傷はまだ癒えないが、それでも“日常”は、何事もなかったかのように続いていく。

ルクシオンもまた、静かに元の生活へと戻り始めていた。

ルカとナオの怪我もようやく落ち着き、久々に事務所へ顔を出せば――
彼らを迎えたのは、容赦のない現実だった。

「……なんでこんなに溜まってんの?」

書類の山を前に、ルカが絶望的な声を漏らす。
ナオは静かに、こめかみを押さえた。

「……俺たち、散々休んだからな。」


---

「……死んだ。マジで、死んだ。何日やっても終わんねぇ……」

ルカが天井を仰ぎながら呻くようにぼやく。
机に突っ伏したその姿は、魂が抜けかけたサラリーマンそのものだ。
隣ではナオが淡々とシュレッダーに書類を流し込みながら、どこか苦笑している。

気づけば、壁の時計は夜の九時を過ぎていた。
この数日、ふたりはずっと、こんな調子だった。

「……帰ろ。今日くらい、まともな飯、食いてぇ……」
「冷蔵庫……空っぽだったな。」
「マジか……じゃ、ラーメン行くか。」

重たい身体を引きずるように、ふたりして立ち上がる。
机の上を適当に片づけながら、ルカはジャケットの袖に腕を通す。

「ビール飲みてぇ……」
「やめとけ。お前、酔うと面倒くさいんだよ。」
「それ、お前だろ?」
「……覚えてねぇな。」

とりとめのないやりとりが、空気をほんの少しだけ軽くした。

やがて、ふたりは並んで事務所を後にする。
夜風に吹かれて、ルカが小さなくしゃみをひとつ。
ナオは、無言で目を細めた。

そのすぐ先に、静かに忍び寄る気配があるとも知らずに――。

---

建物のドアが、重く閉まる。
夜の街は肌寒く、乾いた風が頬を撫でた――そのとき。

「なんだ、もう動けんじゃん。安心したわー!」

突如、背後から投げかけられたのは、芝居がかった軽薄な声。
けれど、その奥に潜む気配は、決して軽くなかった。

「今夜はまだ早いかな~って思ってたんだけどよ。
いやぁ、良かった……よなぁ?」

声の主は、ビルの脇の影に寄りかかっていた。

黒のジャケットに、胸元の開いた派手なシャツ。
右半分だけ撫でつけた髪に、小さなピアスが揺れている。
左前腕――黒カーボンの義手が、街灯の下で鈍く光っていた。

「おまえだよな?……臑齧りの、“ジュニア”って。」

その一言に、ルカの眉がぴくりと跳ねる。

「……なんだ、テメェ。」

低く唸るような声。
直後、ナオが半歩、無言でルカの前に立つ。
手は自然と、刀の柄へ――。

だがルカは、その肩越しにまっすぐ睨みを送り、静かに口を開いた。

「……躾のなってねぇ、野良犬だな。」

吐き捨てた声には、苛立ちと警戒、そして――
“舐められたくない”という本能的な敵意が滲んでいた。

しかし、相手の男は意に介さない。
むしろ、楽しげに口角を吊り上げ――嘲るように言い返す。

「犬じゃ、ねぇんだよなぁ……“狼サマ”だ。」

瞬間、空気がびり、と音を立てて張り詰める。

「……あぁ、狼。その手。
……ヘリオスのイカレ野郎、だな?」

――黒崎 臣(おみ)。
“斑目の餓狼”。
ヘリオスの若頭補佐。
左腕に刃を忍ばせ、衝動のままに戦場を駆ける、咬み痕だらけの獣。

その名は、ルカの耳にも届いていた。

次の瞬間――
じり、と。
一歩前へ出たのは、相手のほうだった。

戦う構えでもなければ、威嚇でもない。
むしろ両手はわずかに開かれ、肩の力も抜けている。
ただ、無防備な足取りで、じわりと距離を詰めてきた。

その“異様さ”に、ナオがわずかに前屈みになる。
だが――

「Dai, scansa……これは俺に売られた喧嘩だ。」

低く、ルカの声が割り込む。

同時に、右手で、ナオの肩をぐい、と押しやる。
わずかにバランスを崩すナオを横に退けて、
ルカは、一歩前へ出た。
左手は、腰の鞭にそっと添えられたまま。

口元には笑みすら浮かべながら、
その目だけが、獣のそれだった。


「――そんじゃ、やろうぜ!」

言い終えるが早いか、臣の足が、刹那、弾けた。
まるで獲物を見つけた猛獣のように。
たった今までの緩慢な動きが嘘のように、
地を蹴る音すら残さず、一瞬で間合いを潰す。

ルカは、わずかに残っていた右手の感触を――
そのまま力強く、ナオの肩を押し飛ばす。

「ッ……!」

ナオが咄嗟にバランスを取りながらも、わずかに後退する。 
その隙を、見逃すはずがなかった。

臣は詰めると同時に、左腕の肘下を外す。
カーボンの中に隠された刃――
光を帯びたその“ドス”が、真っすぐに突き出された。

だが――

「甘ぇ。」

ルカは両手で鞭を張り、ドスの軌道に沿って絡め取る。

キィン、と甲高い金属音。

しなりと張られた鞭が、まるで“防壁”のように、突きを受け止めた。

「……いい目してんなぁ、ジュニア。」

臣が笑う。

その顔が、ぐっと――至近距離に迫っている。
鞭越しに、火花を散らすような視線が交わる。

「まだ、一手目だぜ?」
「…焦んなよ、センパイ。」

口元をほんのわずか、意地悪く吊り上げながら。
息がかかる距離。
ぞくりとするほどの狂気と愉悦が、交差していた。

――速い。

(今の、見えなかった……)

ナオが押し飛ばされた拍子に後退した、その刹那。
目の前ではもう火花が散っていた。

義手から伸びた刃。
張られた鞭。
まるで舞台の幕が開くように、場の空気が一変する。

けれど――
目の前の男は、まだその奥を見せていない。

(……俺とは、違うな。)

必死さも、痛みもない。
ただ、楽しくて仕方ないって顔で、牙を剥いてくる。

……その異質さに、息を呑んだ――まさにそのとき。
張られた鞭を軸に、ふたたび距離が揺れる。

「ッはは、じゃあ――こういうのは、どうだ?」

臣の体が沈む。

次の瞬間、彼は重心を低く落とし、
まるでブレイクダンスのように地を這うようなステップを踏みながら、回転するように踏み込んでくる。
右足、左肘、膝、そして義手――
あらゆる部位が武器となって、連続して襲いかかってきた。

しかも、その動きには――“リズム”という概念すら、ない。
速い、遅い、高い、低い――
不規則に波打つような変則軌道が、ルカの視界を縫う。

「……めんどくせぇな、ほんと。」

息も乱さず、ルカはぼそりと呟く。

鞭を張ったまま、軸足をずらし、捌き、受け流し――
まるで相手の動きを“泳がせる”ように、致命打を封じていく。

刃が掠めた左腕の袖が、ぱさりと切れる。
だが、ルカの表情は一切揺らがない。

「……ここ、ダンスフロアじゃねぇぞ?」

わずかに口角を上げ、言葉を返す。
挑発というにはあまりにも静かで、
けれど、確かに“乗っている”声だった。

臣の目が、きらりと笑う。

「……乗ってんじゃん、ジュニア。」

空気が軋む。
次の拍が、また来る。

また臣が、リズムを崩した。
直線的なステップの裏をかき、背後から回り込むように踏み込んでくる。

速い。
でも――今度は、読めた。

ルカはすかさず身をひねり、
左手に持ち替えた鞭を“横薙ぎ”に振る。

「……さっきより、焦ってんじゃん?」

その一撃で、張られた鞭が義手を絡め取る。
しなる鞭の弾性が、勢いそのままに臣の腕を封じた。

一瞬の膠着。
空気が凍りつく。

「……黙らせてやるよ、センパイ。」

ぐ、と鞭を引いたルカが、顔を近づけた、その瞬間。

「だぁーれに…モノ言ってんだよ!!」

ガンッ!!

臣の額が、勢いそのままにルカの眉間を打ち抜いた。

「ッ、ぐ……!」

盛大な頭突きに、ルカの体がぐらりと揺れる。
視界がぶれる。
後退しかけた足を、地面が拒むように滑らせる――

視界が跳ね、脳が止まる。
けれど、体だけが――先に動いた。

「……ッの野郎、……」

一拍遅れのカウンター。

鞭を引いたまま軸をずらし、反動で身体をひねると、
ルカの右脚が、唸りを上げて臣の側頭部をとらえた。

バキィッ――!!

鋭い音が、路地裏の壁に反響する。
ふたりの体が、同時に、崩れ落ちる。

鞭と義手は、まだ触れ合ったまま。
重力に引かれながらも、互いを拒むように、名残惜しそうに離れていく。

――どちらの手も、届かない。
ただ、荒い息遣いだけが、夜の路地に滲んでいた。
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