虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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そして終焉の日がやって来た

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    ○


 終わりはいつだって突然だ。長らく語ってきたこの話にしたって例に漏れない。

 終焉の日がやって来たよ。

 僕が今こうして君に話してるところに繋がるよう、少しだけ補足めいた後日談を付けはすると思うけれど――最後の一日というのは、この日だと云って差し支えないだろう。

 勿体つけず始めるが……そもそも勿体つけるような終幕じゃないしね。本当に、みっともなくてさ……ああ、僕の無様な取り乱しようは、表現を控えめにしてもいいだろうか?

 ……いや、やっぱり正直に語ろう。散々、他人のことを馬鹿にしてきた僕なんだ。自分だけ馬鹿にされたくないなんて我儘は、それこそみっともないからな。



 僕が起きたときには、既に黄昏も起きていた。彼女はベッドに横になって、手元のランプだけ点けて本を読んでいた。

「おはよ、刹先輩。テーブルにあった本、勝手に読んでてよかった?」

「ああ、いいよ。僕のじゃないけど」

 海老川さんが僕の退屈凌ぎにと云って、持ち歩いてたらしい本を数冊置いて行ったんだ。『虚無への供物』『シャーロック・ホームズの冒険』『火曜クラブ』『レディ・モリーの事件簿』――なるほどなぁというラインナップだったが、どれも昔に姉さんと読んだことがあった。

「こういう本ってあまり読まないなぁ」

 黄昏が手にしてたのは『火曜クラブ』。

「刹先輩が師事してる探偵も、こういう人なの? これは探偵じゃなくてお婆さんだけど――常人とは着眼点が違ったり、洞察力があったり」

「成り行きで弟子にされただけで、師事してるつもりはまったくないんだけどな……。実力の方は、未だ何も解決できてない時点でお察しだよ。思い込みの激しい人でね、小説のようにはいかないさ」

「ふーん、そういうものなの」

 時計を見ると、午前十時を回ったところ。僕がホテルの売店で朝食を買ってきて二人で食べると十一時になった。それから今後について話し合い――と云っても、黄昏の問題だから僕は余計な口出しをしなかったけどね。

 火津路町からの脱出にも昨日のスーツケース作戦が使えそうだということ、それが上手くいけば、資金なんかの問題はあるにせよ、兼ねてより考えていた逃亡生活プランに入れそうだということを黄昏は云った。続いて、その脱出作戦を具体的に練る。なるたけ急ぎたいようだった。朝のニュースを確認すると天織黄昏の名が実名報道されていて、さすがに顔写真の公開は控えられるだろうが、彼女曰く、それもネット上では間もなく流出してしまうらしい。

「湯葉千奈津あたりが流しそうだ。縞崎に惚れてたって云うんだからね、あの糞ビッチ」

 彼女が憎々しげに云ったその時――部屋の電話がトゥルルルルッと鳴った。十一時半のことだった。

 受話器を取るとフロント係が丁寧な口調で、僕に来客があると告げる。海老川さんじゃなくて僕――蟹原刹に、だ。来客の名は丹後たんごとベニシロ。現在、ロビーで椅子に掛けて待っているとの話。

 ああ、こういうことになるんじゃないかとは思ってたんだ。ゲンナリはしたけれど、驚きはなかった。

 やっぱりな……あの少女、あれっきりではなかったか。


 決定的な一幕が、訪れる。


 僕は黄昏を部屋に残して、ロビーへと向かった。それにしても、どうして僕の居場所が分かったんだろう? ベニシロはどうせ〈夜の夢〉の構成員だ。ならば〈首将〉――海老川さんが教えたのか? しかし……そんなことをすれば自分が〈首将〉だと明かしてるようなものだし……このときの僕は、海老川さんが〈首将〉なんじゃないかという疑いにこそ疑念を抱いていた。疑いを疑うなんてややこしいけれど、これについてはその通り混乱していたってのが正直なところなんだよ。

 待ち人はすぐに発見できた。ロビーの隅、椅子とテーブルが固まって設置されているところに、二人並んで座っていた。ダークスーツに身を包んだ初老の男性は微笑し、いつぞやと同じゴスロリ衣装の少女は陶器みたく無表情だった。僕がテーブルを挟んだ向かいに腰掛けると、機先を制するつもりでもないだろうが、初老の男性――丹後が口を開いた。

「蟹原の、弟様の方ですかな?」

 ピク――と、僕の体感時間がひと刹那、停止した。

「……姉を知ってるんですか」

 丹後はこれには答えず、ただ口元を綻ばせた。表情そのものは好々爺といった感じだが、しかし姿勢や喋り方は引き締まっていて隙がない……。年の功が成す落ち着きか、何かただならぬ雰囲気を全身に纏っている……。

「やはり、こちらから接触しますとこうなるのですな。興味深い」

「貴方たちは〈夜の夢〉ですね?」

 こちらからも仕掛けてみたが、

「いいえ、違いますよ」

 その微笑みはごうも崩れなかった。

「申し遅れました――私、丹後と申す者です。〈黒猫の丹後〉というあだ名で呼ばれることもありますがな」

 すぐ近くの床の上で毛並みの良い黒猫がジッとしていることに、僕は遅れて気が付いた。大きな翡翠色の目が見上げている。〈黒猫の丹後〉……最近、どこかで聞いたような……。

 そう思っていると突然、黒猫にも劣らずジッと動かなかった少女が、綺麗な声音で歌い出した。

「黒ネコのタンゴ、タンゴ、タンゴ、僕の恋人は黒いネコ♪ 黒ネコのタン――」

「歌うのはやめなさい、ベニシロ」

 丹後が云うと、少女は再び微動だにしなくなる。

 ああ、その歌――『黒ネコのタンゴ』だ。珠井宮と瑞屋憐が歌っていた……こんな偶然はあり得ないじゃないか……やはりこいつらは、〈夜の夢〉と関係している……。

「貴方たちは……何者なんですか?」

「私共は〈アウフヘーベン〉という団体に属しています。貴方様も聞き覚えがありますでしょう」

「…………ああ」

 これで少し、腑に落ちた。

 最初の方で、蟹原家に昔、大口の経済的援助を施してもらえる話が持ち上がったことがあると云っただろう? その申し出をしてきた宗教団体が、たしか〈アウフヘーベン〉という名前だったんだ。

〈アウフヘーベン〉は僕と姉さんを〈神の子〉だの〈奇蹟の子〉だのと云って、できるなら自分らが引き取りたい、そうでなければ成長の手助けをしたいと話していた。姉さんは隠し子だったけれど、蟹原家が双子を産んだという事実は――取り上げた産婦人科医院なんかはあることだし――完全に抹消まっしょうされていたわけじゃなかった……のかな? その辺はよく分からないが、ともかく〈アウフヘーベン〉は僕らの事情をどこかから掴んでやって来た。どうしてそれが僕らが十歳だかのころになってようやくだったのかも、やっぱり分からないんだが……。

 うん。なんちゃってカトリックの父親はこれを断った。あいつは僕と姉さんを〈悪魔の子〉〈呪われた子〉と考えて譲らなかったし、キリスト教以外はみんな邪教だって云うんだな。仕方ないよ、低能だから。でもこのとき、〈アウフヘーベン〉はこっそりと僕らに一枚の名刺を渡していたんだ。困ったことがあったら連絡するようにと告げて。僕――と云うか姉さん?――はこれを大事に仕舞っておいたと思うんだが……さて、あれはどうなったんだろう? いつからか、すっかり忘れていた……。

「『カンディード』をお読みになったことはありますかな?」

 丹後の声で、遠い日の記憶に没入しかけていた僕は我に返った。

「……はい、好きな小説ですよ」

 なにせ本当のことが書いてあるからな、あれには。

「結構。この世界はまったく最善でありはしない――これは紛れもない真実です。ここから私共は、全能なる神という存在も否定します。そのような存在が創造した世界が、こうした欠陥ばかりのものになるとは不合理だからです」

 噛んで含めるような調子で語られるが、そんなのはグノーシス主義あたりの思想と変わらない。説明されなくたって知ってる話だったね。ここまでは。

「ゆえに私共が掲げますのは、いわば人類の人類による人類のための宗教です。Aufhebenとは〈止揚しよう〉。すなわち、私共が基本とします教義はヘーゲルやマルクスの説く弁証法に依ります。〈最善の状態〉へ向けて、人類は螺旋的発展をおこなっていかなければなりません。貴方様たち双子は、その素晴らしい体現者〈究極の均衡点〉でありまして、ひとつの〈象徴〉と成り得ます。それは私共の考える〈神〉のかたちを表すのですから、貴方様たちは〈神の子〉や〈奇蹟の子〉とも云え換えられるのです。私共が貴方様たちに協力を惜しみませんのは、こういうわけですよ」

「…………すみません、何を云ってるんですか?」

〈アウフヘーベン〉とやらの思想が意味不明なのはいいんだ。そんなの知ったこっちゃない。そうじゃなくて、丹後と僕との間に、何か大きな前提条件の違いみたいなものがあった。僕ら姉弟に関して――いや、姉さんに関してだ。

「ご存知じゃないのかも知れませんけど……姉さんは死にました」

「いいえ、ご存命ですよ。貴方様のお姉様から連絡を受け、私共は彼女に協力しているのですからな」

「…………………………」

「彼女に会うために来ましたが、いいでしょう、貴方様にお伝えすれば、それが彼女にも伝わるはずです。はい、手配いたしました整形師から、仕事が終わったとの報告がありました。声帯も、ご注文にありました首まわりの傷も、すべて完璧とのことです。――では、これで失礼」

 丹後は立ち上がるとハットを被り、一礼の後、杖をつきながら出入り口へと歩き出した。黒猫がそれに続き、最後にベニシロも続いたが、そのときに彼女は一言だけ何かを僕に告げた。

「…………………………」

 二人と一匹が去っても、僕はしばらく動けずにいた。まじろぎもせずに宙の一点を見詰めて、さぞ間抜けな格好だったと思うよ。そのくらいの衝撃だった。何もかもが、一変してしまった。万華鏡がくるっと回って、現れた景色が想像を絶する――なのに、存在の奥底から納得する、納得させられるものだったとでも云うか――しかしすぐに受け入れられるようなそれじゃあなくて、こんなふうに呆然としてしまうのもまた然りで――。

 姉さんが……生きていた? そんな……死んだとばかり、思っていた。死んだ、はずだった。父親に殺された、はずだった。そうだ……あんな胡散臭い老人の言葉を、信じるのか? 姉さんが生きていたなら、そりゃあ嬉しい。何より嬉しいことだ。が……しかし……いや…………でも………………

 その時、ベニシロの去り際の一言が不意に、明瞭に、頭の中に響いた。

『急いだ方がいい』――彼女はそう云ったんだ。

 そして湧き上がった異様な思いに突き動かされ、僕は立ち上がっていた。
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