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第十七話 皇帝陛下からのお返事は
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「親愛の証でございます。この意味、尊き皇帝陛下ならおわかりいただけますわよね」
月夜を背にし、一人の女が魅惑的に微笑んでいた。
夜闇の中でも輝く青の瞳は宝石のように美しく、見惚れそうになるほどだ。
けれども彼女の本質が見た目そのままの人形のような令嬢ではないことくらい、とうの昔に知っていた。だからこそ興味を抱いたのだから当然である。
そんな女の唇から紡ぎ出された言葉を理解するのにどの程度の時間を要したかわからない。
――は?
思考が空白で埋め尽くされたのは、ずいぶんと久方ぶりな気がする。もし今賊から襲われでもしたら対処できなかっただろう。
女……ミリア・フォークロスから告げられたのは事実上の求愛。
全く考えられない可能性ではなかった。というより、彼女が自身の懐に入り込もうとしていることは、皇帝にはある程度予想がついていた。
にもかかわらず柄にもなく動揺してしまったのだ。
稽古場で剣を振った帰り道、ミリア・フォークロスに中庭へ誘われた。
当然断っても良かったのだが、何か思惑があるのだろうと思ってあえて乗り、そして今に至る。
しばらく奇怪な行動を起こすことがなかったので油断していたのかも知れない。
まさかペリン公爵家令嬢の滞在期間中に……いや、だからこそなのか?
彼女の監視を始めてしばらく経ったが、皇帝は彼女のことをわからずにいた。見れば見るほどよく惑わされてしまう不可思議極まりない女なのだ。
暗殺者、あるいはスパイに違いない。それなら早急に処断しなければならないと思うのに、どこを探しても決定的な証拠が見つからなかった。
出生を探ったものの知れたことはほんのわずか。フォークロス伯と侍女の間に生まれた子なら、伯爵家に引き取られる以前のことだって調べがつくはずだ。経済状況が傾き没落寸前となった伯爵家が皇族を手にかけたい何者かと裏で繋がることを選び、彼女を迎え入れたというのが最も自然な流れに思える。
ミリア・フォークロスが怪しげな動きを見せたら動けるように皇帝は陰ながら準備していた。
しかし近頃はずいぶんとおとなしかった。本当はただの令嬢なのではないか……と疑い始めていたものの、皇帝の考えは正しかったらしい。
この女の狙いを見定めなくては。
「余に何を求める」
「お返事を。それ以外は何も欲していませんわ」
女の声は震え一つなく、堂々としていた。
堂々としている故に……皇帝は直感する。
ミリア・フォークロスは演じているのだ、と。
「偽りを述べるなと言っただろう」
「……承知いたしました。この際、正直に申しましょう。わたしは皇帝陛下の最愛になりたいのです」
「最愛、か」
「皇帝陛下に愛していただくことが今のわたしの望み。皇帝陛下に目を向けられ、皇帝陛下を知るだけでは飽き足らず、傲慢にも欲してしまうわたしをつまらない女だと、そう思われますか?」
縋り付くような声音だった。それでいて決して獲物を逃さない、獰猛な肉食獣のような目をしている。
見つめられて思わずどきりと鼓動が跳ねた。
――どうして俺はこれほど、ミリア・フォークロスに魅入られている?
面白い女だとは思っていたが、それだけだったはずなのに。
皇帝はミリア・フォークロスの視線から逃れられない。逃れる気にすらなれない。
求められているのは返答。しかしどう答えればいいのだろうか?
口の中にクッキーのほんのりと甘い味が残っていて、それがなんだかむず痒く、思考を鈍らせた。
断じて毒物が盛られていたわけではないことだけは確かだ。
媚薬から遅効性、即死のものに至るまで、古今東西の毒を耐性をつけるために食んできたのだから、味や匂いくらいは覚えている。その中のどれにも該当しない時点で、先ほどのあれはただのクッキーに違いない。
ならなぜ、これほどまでに混乱するのか。
その理由はおそらく――。
あり得ないと思いたい。思いたい、けれども。
「面白いな、貴女は」
口から漏れ出てしまった言葉が答えだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「面白いな、貴女は」
そう言われた時、どれほど安堵したことか。
ミリアが皇帝陛下に伝えたことは本当に嘘偽りない。心から快い返事を求めていたし、彼の最愛になりたかった。
ただ、恋情を抱いている故ではないというだけで。
皇帝陛下に否定されなかった。
それどころか、少し躊躇うような口調で言うのだ。
「最愛というのが何かはわからないが……その心意気は気に入った。考えてやらないでもない」
と。
後半の方は若干声が小さくなっており、耳がほんのりと赤い。
これはミリアの勘違いなどではないと思う。皇帝陛下は間違いなく照れていた。
――ずいぶんと可愛らしい反応ね?
もう少し真意を問うてくるかと思いきや、意外とあっさりした答え。
裏がある可能性は大きい。しかしそれにしては演技には見えないのだ。それだけミリアの魅力にどっぷり浸かってくれていたということなら、これまでの努力が実ったというものだった。
「よろしいのですか?」
信じられないように、不安そうに問いかけてみた。
「貴女に偽りを述べるなと言った手前、余がそれに反することはない」
「……ありがとうございます、皇帝陛下!」
皇帝陛下に受け入れられたことへの安堵を前面に押し出し、胸の前で手を合わせながら、とびきりの笑顔を見せる。
しかし意外にも皇帝陛下が注視したのは表情ではなくミリアの手。今まで幾多の血を吸ってきただろう皇帝陛下の掌が上から重ねられ、静かに撫でられ――そして。
「菓子作りのために余の見ていない間に相当苦労したろう。その努力に報いてやる」
囁かれた言葉は、驚くほど優しい響きをしていた。
冷酷非道の血まみれ皇帝と呼ばれている男とは、とても思えないほどに。
――人殺しの匂いをしているくせにねぇ。
「皇帝陛下に美味しく召し上がっていただきたかったので。まだ残っていますが、どうなさいますか」
「食する。半分は貴女も食べるといい」
月明かりの下でミリアと皇帝陛下は一緒になって残りのクッキーを黙って食べた。沈黙したのは、下手に何かを話せばこのいい雰囲気が崩れてしまうような気がしたからだ。
これで皇帝陛下の初恋を奪うことはできただろうか。
きっとできたはずだと、ミリアは信じたかった。
月夜を背にし、一人の女が魅惑的に微笑んでいた。
夜闇の中でも輝く青の瞳は宝石のように美しく、見惚れそうになるほどだ。
けれども彼女の本質が見た目そのままの人形のような令嬢ではないことくらい、とうの昔に知っていた。だからこそ興味を抱いたのだから当然である。
そんな女の唇から紡ぎ出された言葉を理解するのにどの程度の時間を要したかわからない。
――は?
思考が空白で埋め尽くされたのは、ずいぶんと久方ぶりな気がする。もし今賊から襲われでもしたら対処できなかっただろう。
女……ミリア・フォークロスから告げられたのは事実上の求愛。
全く考えられない可能性ではなかった。というより、彼女が自身の懐に入り込もうとしていることは、皇帝にはある程度予想がついていた。
にもかかわらず柄にもなく動揺してしまったのだ。
稽古場で剣を振った帰り道、ミリア・フォークロスに中庭へ誘われた。
当然断っても良かったのだが、何か思惑があるのだろうと思ってあえて乗り、そして今に至る。
しばらく奇怪な行動を起こすことがなかったので油断していたのかも知れない。
まさかペリン公爵家令嬢の滞在期間中に……いや、だからこそなのか?
彼女の監視を始めてしばらく経ったが、皇帝は彼女のことをわからずにいた。見れば見るほどよく惑わされてしまう不可思議極まりない女なのだ。
暗殺者、あるいはスパイに違いない。それなら早急に処断しなければならないと思うのに、どこを探しても決定的な証拠が見つからなかった。
出生を探ったものの知れたことはほんのわずか。フォークロス伯と侍女の間に生まれた子なら、伯爵家に引き取られる以前のことだって調べがつくはずだ。経済状況が傾き没落寸前となった伯爵家が皇族を手にかけたい何者かと裏で繋がることを選び、彼女を迎え入れたというのが最も自然な流れに思える。
ミリア・フォークロスが怪しげな動きを見せたら動けるように皇帝は陰ながら準備していた。
しかし近頃はずいぶんとおとなしかった。本当はただの令嬢なのではないか……と疑い始めていたものの、皇帝の考えは正しかったらしい。
この女の狙いを見定めなくては。
「余に何を求める」
「お返事を。それ以外は何も欲していませんわ」
女の声は震え一つなく、堂々としていた。
堂々としている故に……皇帝は直感する。
ミリア・フォークロスは演じているのだ、と。
「偽りを述べるなと言っただろう」
「……承知いたしました。この際、正直に申しましょう。わたしは皇帝陛下の最愛になりたいのです」
「最愛、か」
「皇帝陛下に愛していただくことが今のわたしの望み。皇帝陛下に目を向けられ、皇帝陛下を知るだけでは飽き足らず、傲慢にも欲してしまうわたしをつまらない女だと、そう思われますか?」
縋り付くような声音だった。それでいて決して獲物を逃さない、獰猛な肉食獣のような目をしている。
見つめられて思わずどきりと鼓動が跳ねた。
――どうして俺はこれほど、ミリア・フォークロスに魅入られている?
面白い女だとは思っていたが、それだけだったはずなのに。
皇帝はミリア・フォークロスの視線から逃れられない。逃れる気にすらなれない。
求められているのは返答。しかしどう答えればいいのだろうか?
口の中にクッキーのほんのりと甘い味が残っていて、それがなんだかむず痒く、思考を鈍らせた。
断じて毒物が盛られていたわけではないことだけは確かだ。
媚薬から遅効性、即死のものに至るまで、古今東西の毒を耐性をつけるために食んできたのだから、味や匂いくらいは覚えている。その中のどれにも該当しない時点で、先ほどのあれはただのクッキーに違いない。
ならなぜ、これほどまでに混乱するのか。
その理由はおそらく――。
あり得ないと思いたい。思いたい、けれども。
「面白いな、貴女は」
口から漏れ出てしまった言葉が答えだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「面白いな、貴女は」
そう言われた時、どれほど安堵したことか。
ミリアが皇帝陛下に伝えたことは本当に嘘偽りない。心から快い返事を求めていたし、彼の最愛になりたかった。
ただ、恋情を抱いている故ではないというだけで。
皇帝陛下に否定されなかった。
それどころか、少し躊躇うような口調で言うのだ。
「最愛というのが何かはわからないが……その心意気は気に入った。考えてやらないでもない」
と。
後半の方は若干声が小さくなっており、耳がほんのりと赤い。
これはミリアの勘違いなどではないと思う。皇帝陛下は間違いなく照れていた。
――ずいぶんと可愛らしい反応ね?
もう少し真意を問うてくるかと思いきや、意外とあっさりした答え。
裏がある可能性は大きい。しかしそれにしては演技には見えないのだ。それだけミリアの魅力にどっぷり浸かってくれていたということなら、これまでの努力が実ったというものだった。
「よろしいのですか?」
信じられないように、不安そうに問いかけてみた。
「貴女に偽りを述べるなと言った手前、余がそれに反することはない」
「……ありがとうございます、皇帝陛下!」
皇帝陛下に受け入れられたことへの安堵を前面に押し出し、胸の前で手を合わせながら、とびきりの笑顔を見せる。
しかし意外にも皇帝陛下が注視したのは表情ではなくミリアの手。今まで幾多の血を吸ってきただろう皇帝陛下の掌が上から重ねられ、静かに撫でられ――そして。
「菓子作りのために余の見ていない間に相当苦労したろう。その努力に報いてやる」
囁かれた言葉は、驚くほど優しい響きをしていた。
冷酷非道の血まみれ皇帝と呼ばれている男とは、とても思えないほどに。
――人殺しの匂いをしているくせにねぇ。
「皇帝陛下に美味しく召し上がっていただきたかったので。まだ残っていますが、どうなさいますか」
「食する。半分は貴女も食べるといい」
月明かりの下でミリアと皇帝陛下は一緒になって残りのクッキーを黙って食べた。沈黙したのは、下手に何かを話せばこのいい雰囲気が崩れてしまうような気がしたからだ。
これで皇帝陛下の初恋を奪うことはできただろうか。
きっとできたはずだと、ミリアは信じたかった。
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