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プロローグ (牧菜)
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あの夜のことを、わたしは一生忘れないと思う。
中学二年生の冬。
両親は相変わらず仕事で帰ってこない夜だった。
リビングのテーブルには姉が作り置きしてくれた夕食があって、わたしは一人でそれを温めて食べた。
味なんて覚えていない。
たぶん美味しかったんだと思う。姉の作る料理はいつも美味しかったから。
姉の部屋は、わたしの部屋の隣にある。
築二十年の一軒家。防音なんて気の利いたものはない。
だからその夜、姉の部屋から漏れてくる声に気づいたとき、わたしの心臓は跳ね上がった。
知らない男の声がした。
低くて、でも優しい声。
姉と何かを話している。
笑い声が混じる。姉の、甘えるような声も。
わたしは自分の部屋のベッドの上で、教科書を開いたまま固まっていた。
聞いてはいけない。
分かっている。
分かっているのに、耳が勝手にそちらを向いてしまう。
姉には彼氏がいた。
飯島先輩。姉が中学生の頃から付き合っている、バスケ部のキャプテン。
背が高くて、顔も整っていて、姉とお似合いのカップルだとみんなが言っていた。
わたしも何度か会ったことがある。
優しい人だった。姉のことを大切にしているのが伝わってきた。
でも、今、姉の部屋にいるのは飯島先輩じゃない。
声が違う。
飯島先輩の声はもっと明るくて、よく通る声だ。
今聞こえている声は、もっと落ち着いていて、どこか不安定な響きがある。
誰?
その疑問が、わたしの足を動かした。
*
廊下に出ると、姉の部屋のドアが少しだけ開いていた。
ほんの数センチ。
きっと姉の不注意だ。いつもはちゃんと閉めているのに。
そこから細い光が漏れている。
オレンジ色の、間接照明の光。
近づいてはいけない。
頭では分かっている。
でも足が止まらない。
気づいたときには、わたしはドアの前に立っていた。
息を殺して、その隙間から中を覗き込む。
見えた。
姉のベッドの上。
ピンク色のシーツの海の中に、二つの身体があった。
姉と、知らない男の子。
二人とも、服を着ていなかった。
でも、激しく動いているわけじゃない。
ただ静かに抱き合って、額と額をくっつけて、何かを話している。
姉の顔が見えた。
わたしは息を呑んだ。
あんな顔、見たことがない。
穏やかで、幸せそうで、でもどこか切なくて。
飯島先輩と一緒にいるときの姉とは、まるで別人みたいだった。
男の子の顔も見えた。
姉より少し背が高いくらい。痩せていて、でも優しそうな顔をしている。
その目が、姉だけを見つめていた。
世界に姉しかいないみたいに。
「先輩と……別れてくれないか」
男の子が言った。
声が震えている。
必死に絞り出しているのが、ドア越しにも伝わってきた。
「そうね……」
姉が答える。
その声はひどく甘くて、ひどく残酷だった。
「……考えとく」
答えになっていない。
男の子もそれは分かっているはずだ。
でも姉は、その唇で男の子の言葉を塞いでしまった。
そしてまた、二人は一つになっていく。
わたしは、その場に立ち尽くしていた。
*
自分の部屋に戻ったのは、それから何分後だったのか分からない。
気づいたらベッドの上に座っていた。
心臓がうるさい。
頭の中がぐるぐるしている。
見てしまった。
姉の秘密を、見てしまった。
姉は飯島先輩を裏切っている。
知らない男の子と、あんなことをしている。
それは悪いことだ。
裏切りだ。
許されないことだ。
なのに。
姉の顔が、頭から離れない。
あの幸せそうな顔。
飯島先輩といるときには見せたことのない、あの表情。
姉は幸せだった。
あの男の子の腕の中で、本当に幸せそうだった。
それを見たわたしの中で、何かがざわめいている。
胸の奥が熱い。
身体の芯がじんわりと疼く。
なんだろう、これ。
分からない。
分からないけど、止められない。
姉の幸せそうな顔を思い出すたびに、その熱は大きくなっていく。
わたしは膝を抱えて、自分の身体を丸めた。
シーツを握りしめる。爪が食い込むくらい強く。
頭の中で、姉の声がリフレインする。
『考えとく』
あの甘い声。
あの残酷な優しさ。
あの男の子を縛りつけて、離さないための言葉。
姉は分かっているんだ。
自分がどれだけ罪深いことをしているか。
でも止められない。
だって、幸せだから。
わたしは目を閉じた。
姉の顔が浮かぶ。
男の子の腕に抱かれて、とろけるように笑っている姉。
ああ、そうか。
わたしは、姉が幸せだと嬉しいんだ。
姉が気持ちよさそうにしていると、わたしも気持ちよくなるんだ。
おかしい。
絶対におかしい。
普通じゃない。
でも、止められない。
気づいたら、わたしの手は勝手に動いていた。
シーツを握りしめていたはずの指が、いつの間にか自分の身体を彷徨っている。
だめだ。
こんなの、だめだ。
でも、姉の顔が消えてくれない。
幸せそうな、あの顔が。
わたしは唇を噛んで、声を殺した。
*
朝、目が覚めたとき、窓からは白い光が差し込んでいた。
しばらく天井を見つめていた。
昨夜のことが夢だったらいいのにと思った。
でも、身体はまだ火照っていて、パジャマは汗でじっとりと湿っていた。
シーツを剥がす。
見なかったことにして、丸めて洗濯機に放り込んだ。
リビングに降りると、姉がいた。
いつも通りの姉。制服を着て、髪をポニーテールにまとめている。
少しだけ目の下にクマがあるのは、きっと昨夜のせいだ。
「あ、牧那。おはよ」
「……おはよう、お姉ちゃん」
声が震えそうになるのを必死で抑えた。
姉は気づいていない。
わたしが昨夜、何を見て、何をしたか。
「お姉ちゃん、昨日誰か来てた?」
自分でも驚くくらい、平静な声が出た。
姉の動きが一瞬止まる。
トーストを齧る手が、ほんの少しだけ固まった。
でもすぐにいつもの笑顔に戻る。
「……内緒」
悪戯っぽく笑う姉。
その笑顔の奥に、昨夜の幸福が透けて見えた。
わたしは何も言わなかった。
ただ頷いて、自分の席についた。
姉が幸せなら、それでいい。
姉が幸せなら、わたしも幸せだ。
そう決めた。
あの夜、わたしはそう決めた。
*
それから二年が経った。
姉はあの男の子と別れた。
別れて、別の男と付き合い始めた。
前田乃蒼という名前の、わたしでも知っているくらい評判の悪い男。
姉の顔から、あの夜の幸福は消えていた。
笑っているけど、笑っていない。
生きているけど、生きていない。
そんな顔をするようになった。
わたしは、それが許せなかった。
だから調べた。
あの夜、姉の部屋にいた男の子のことを。
風見抱介という名前。姉と同じ高校に通っていること。
そして今も、姉と同じ校舎にいること。
わたしは動くことにした。
そして今、わたしは図書室にいる。
目の前には、あの夜の男の子が座っている。
二年前より少し背が伸びて、でも相変わらず冴えない顔をしている。
あの夜、姉を抱いていたのと同じ腕が、今は教科書を捲っている。
わたしはスマホを取り出した。
画面には、あの夜の写真が保存されている。
覗き見ながら、震える手で撮った一枚。
姉と彼が抱き合っている、その瞬間。
「NTRるゲームしません?」
わたしは彼にスマホを突きつけた。
彼の目が見開かれる。
画面に映った自分と姉の姿を見て、顔色が変わる。
「これ先輩と私のお姉ちゃん……ですよね?」
わたしは笑った。
姉と同じ血が流れている、この唇で。
「姉を寝取り返してください、先輩」
そうすれば、姉は幸せになれる。
姉が幸せになれば、わたしも幸せになれる。
でも。
もし、姉を追い越せたら?
もし、この人がわたしを見てくれたら?
その考えを、わたしは頭の隅に追いやった。
まだ、早い。
「成功したら……牧那もあげますよ?」
先輩の顔が、真っ赤に染まった。
中学二年生の冬。
両親は相変わらず仕事で帰ってこない夜だった。
リビングのテーブルには姉が作り置きしてくれた夕食があって、わたしは一人でそれを温めて食べた。
味なんて覚えていない。
たぶん美味しかったんだと思う。姉の作る料理はいつも美味しかったから。
姉の部屋は、わたしの部屋の隣にある。
築二十年の一軒家。防音なんて気の利いたものはない。
だからその夜、姉の部屋から漏れてくる声に気づいたとき、わたしの心臓は跳ね上がった。
知らない男の声がした。
低くて、でも優しい声。
姉と何かを話している。
笑い声が混じる。姉の、甘えるような声も。
わたしは自分の部屋のベッドの上で、教科書を開いたまま固まっていた。
聞いてはいけない。
分かっている。
分かっているのに、耳が勝手にそちらを向いてしまう。
姉には彼氏がいた。
飯島先輩。姉が中学生の頃から付き合っている、バスケ部のキャプテン。
背が高くて、顔も整っていて、姉とお似合いのカップルだとみんなが言っていた。
わたしも何度か会ったことがある。
優しい人だった。姉のことを大切にしているのが伝わってきた。
でも、今、姉の部屋にいるのは飯島先輩じゃない。
声が違う。
飯島先輩の声はもっと明るくて、よく通る声だ。
今聞こえている声は、もっと落ち着いていて、どこか不安定な響きがある。
誰?
その疑問が、わたしの足を動かした。
*
廊下に出ると、姉の部屋のドアが少しだけ開いていた。
ほんの数センチ。
きっと姉の不注意だ。いつもはちゃんと閉めているのに。
そこから細い光が漏れている。
オレンジ色の、間接照明の光。
近づいてはいけない。
頭では分かっている。
でも足が止まらない。
気づいたときには、わたしはドアの前に立っていた。
息を殺して、その隙間から中を覗き込む。
見えた。
姉のベッドの上。
ピンク色のシーツの海の中に、二つの身体があった。
姉と、知らない男の子。
二人とも、服を着ていなかった。
でも、激しく動いているわけじゃない。
ただ静かに抱き合って、額と額をくっつけて、何かを話している。
姉の顔が見えた。
わたしは息を呑んだ。
あんな顔、見たことがない。
穏やかで、幸せそうで、でもどこか切なくて。
飯島先輩と一緒にいるときの姉とは、まるで別人みたいだった。
男の子の顔も見えた。
姉より少し背が高いくらい。痩せていて、でも優しそうな顔をしている。
その目が、姉だけを見つめていた。
世界に姉しかいないみたいに。
「先輩と……別れてくれないか」
男の子が言った。
声が震えている。
必死に絞り出しているのが、ドア越しにも伝わってきた。
「そうね……」
姉が答える。
その声はひどく甘くて、ひどく残酷だった。
「……考えとく」
答えになっていない。
男の子もそれは分かっているはずだ。
でも姉は、その唇で男の子の言葉を塞いでしまった。
そしてまた、二人は一つになっていく。
わたしは、その場に立ち尽くしていた。
*
自分の部屋に戻ったのは、それから何分後だったのか分からない。
気づいたらベッドの上に座っていた。
心臓がうるさい。
頭の中がぐるぐるしている。
見てしまった。
姉の秘密を、見てしまった。
姉は飯島先輩を裏切っている。
知らない男の子と、あんなことをしている。
それは悪いことだ。
裏切りだ。
許されないことだ。
なのに。
姉の顔が、頭から離れない。
あの幸せそうな顔。
飯島先輩といるときには見せたことのない、あの表情。
姉は幸せだった。
あの男の子の腕の中で、本当に幸せそうだった。
それを見たわたしの中で、何かがざわめいている。
胸の奥が熱い。
身体の芯がじんわりと疼く。
なんだろう、これ。
分からない。
分からないけど、止められない。
姉の幸せそうな顔を思い出すたびに、その熱は大きくなっていく。
わたしは膝を抱えて、自分の身体を丸めた。
シーツを握りしめる。爪が食い込むくらい強く。
頭の中で、姉の声がリフレインする。
『考えとく』
あの甘い声。
あの残酷な優しさ。
あの男の子を縛りつけて、離さないための言葉。
姉は分かっているんだ。
自分がどれだけ罪深いことをしているか。
でも止められない。
だって、幸せだから。
わたしは目を閉じた。
姉の顔が浮かぶ。
男の子の腕に抱かれて、とろけるように笑っている姉。
ああ、そうか。
わたしは、姉が幸せだと嬉しいんだ。
姉が気持ちよさそうにしていると、わたしも気持ちよくなるんだ。
おかしい。
絶対におかしい。
普通じゃない。
でも、止められない。
気づいたら、わたしの手は勝手に動いていた。
シーツを握りしめていたはずの指が、いつの間にか自分の身体を彷徨っている。
だめだ。
こんなの、だめだ。
でも、姉の顔が消えてくれない。
幸せそうな、あの顔が。
わたしは唇を噛んで、声を殺した。
*
朝、目が覚めたとき、窓からは白い光が差し込んでいた。
しばらく天井を見つめていた。
昨夜のことが夢だったらいいのにと思った。
でも、身体はまだ火照っていて、パジャマは汗でじっとりと湿っていた。
シーツを剥がす。
見なかったことにして、丸めて洗濯機に放り込んだ。
リビングに降りると、姉がいた。
いつも通りの姉。制服を着て、髪をポニーテールにまとめている。
少しだけ目の下にクマがあるのは、きっと昨夜のせいだ。
「あ、牧那。おはよ」
「……おはよう、お姉ちゃん」
声が震えそうになるのを必死で抑えた。
姉は気づいていない。
わたしが昨夜、何を見て、何をしたか。
「お姉ちゃん、昨日誰か来てた?」
自分でも驚くくらい、平静な声が出た。
姉の動きが一瞬止まる。
トーストを齧る手が、ほんの少しだけ固まった。
でもすぐにいつもの笑顔に戻る。
「……内緒」
悪戯っぽく笑う姉。
その笑顔の奥に、昨夜の幸福が透けて見えた。
わたしは何も言わなかった。
ただ頷いて、自分の席についた。
姉が幸せなら、それでいい。
姉が幸せなら、わたしも幸せだ。
そう決めた。
あの夜、わたしはそう決めた。
*
それから二年が経った。
姉はあの男の子と別れた。
別れて、別の男と付き合い始めた。
前田乃蒼という名前の、わたしでも知っているくらい評判の悪い男。
姉の顔から、あの夜の幸福は消えていた。
笑っているけど、笑っていない。
生きているけど、生きていない。
そんな顔をするようになった。
わたしは、それが許せなかった。
だから調べた。
あの夜、姉の部屋にいた男の子のことを。
風見抱介という名前。姉と同じ高校に通っていること。
そして今も、姉と同じ校舎にいること。
わたしは動くことにした。
そして今、わたしは図書室にいる。
目の前には、あの夜の男の子が座っている。
二年前より少し背が伸びて、でも相変わらず冴えない顔をしている。
あの夜、姉を抱いていたのと同じ腕が、今は教科書を捲っている。
わたしはスマホを取り出した。
画面には、あの夜の写真が保存されている。
覗き見ながら、震える手で撮った一枚。
姉と彼が抱き合っている、その瞬間。
「NTRるゲームしません?」
わたしは彼にスマホを突きつけた。
彼の目が見開かれる。
画面に映った自分と姉の姿を見て、顔色が変わる。
「これ先輩と私のお姉ちゃん……ですよね?」
わたしは笑った。
姉と同じ血が流れている、この唇で。
「姉を寝取り返してください、先輩」
そうすれば、姉は幸せになれる。
姉が幸せになれば、わたしも幸せになれる。
でも。
もし、姉を追い越せたら?
もし、この人がわたしを見てくれたら?
その考えを、わたしは頭の隅に追いやった。
まだ、早い。
「成功したら……牧那もあげますよ?」
先輩の顔が、真っ赤に染まった。
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