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第三章
55.聖女誕生
しおりを挟む「これは僕の大切な人という証だから」
「私の気持ちは無視していいんですか?」
「大丈夫、アコリーヌはきっと僕のことが好きだから」
「その自信はどこから……」
「だって、アコリーヌはいつだって僕を優先してくれるだろう?」
「それは、あなた様が王子様だからです」
「それだけ?」
「ええ、それだけです」
本当は私にも気持ちがあったのかもしれない。けど、王子様と孤児院の子供が結ばれるなんて、夢のまた夢だと思った。
いくら私がまだ十三才だからといって、世間を知らないわけではなかった。だから、私は指輪を外して、グクイエ王子に投げつけた。グクイエ王子はびっくりした顔で指輪をキャッチする。
そりゃそうだよね。まさか、王子様の指輪を返すなんて、思わないだろうから。でも、それが私の答えだった。
「アコリーヌは僕のことが嫌いなんだね」
「そうだと思っていいですよ」
「じゃあ、僕は帰るよ」
大きな背中を丸めたグクイエ王子は身を翻すと、深くため息を吐いた。
私はその悲しい背中を複雑な気持ちで見送っていたけど——その時だった。
グクイエ王子の踏みしめている地面が、再び闇の色に染まった。その漆黒の色をした足元に私が驚く中、グクイエ王子は気づいていないのか、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
「グクイエ殿下!」
呼ぶと、グクイエ王子はこちらを向いて何かを呟く。
その目は虚ろで、グクイエ王子は闇の中にゆっくりと沈んでいった。
まるで泥の沼に足をとられたように、身を沈めていくグクイエ王子を見て、私は叫び声をあげる。
けど、グクイエ王子は眠るように目を閉じて、闇の中に身を任せていった。
怖くなった私は、慌ててグクイエ王子の手を引こうとするけど、その手はなぜかつるりと滑って、掴めなかった。
「どうすればいいの! 誰か! 誰か来て!」
「お姉ちゃん?」
声を上げると、そのうち孤児院から小さなルビーがやってきた。ルビーは沈むグクイエ王子を見て、手で口を押さえる。
「ルビー、大人の人を呼んできて!」
「う、うん」
私が指示すると、ルビーはスカートを持ち上げて孤児院まで走っていった。
とりあえず助けを求めることに成功した私は、再びグクイエ王子に視線を戻すと、グクイエ王子はもはや手だけになっていた。
私はその手を今度こそ引き上げようとして掴むけど——グクイエ王子に触れたところで、私も闇に引きずり込まれてしまった。
「どうしよう……真っ暗だわ。グクイエ王子! 大丈夫ですか!?」
真っ暗な世界に閉じ込められた私は、息ができることに安堵しつつ、周囲を見回す。どこを見ても真っ暗で、グクイエ王子の存在を確認することはできなかった。
握っていた手はいつの間にか離れてしまって、どこにいるかもわからない状態だった。それでも私はグクイエ王子に、懸命に呼びかけた。けど、反応はなくて、生きているかさえわからなかった。
すると、そんな時。
『ふふふ……今度こそ、捕まえた』
「誰?」
闇の中を男の人の声が響いて、私はとっさに周囲を見回した。と言っても、どこもかしこも真っ暗なんだけど。
すると、声は私に話しかけてきた。
『子供よ、お前は何者だ?』
「何者? 何者と言われても……」
『前回といい、今回といい……どうして闇に精神が呑み込まれない?』
「闇に? 精神? どういうこと?」
『まあいい。私の計画に差し障りのあるモノはこの場で消しておく必要がありそうだ』
その声のあと、私の首が締め付けられる感じがした。
「……がはっ」
真っ暗で何も見えないけど、私の首を絞めているのは、木の枝のような感触だった。私は懸命に木の枝のようなものを首から引き剥がそうとするけど、力が入らなくてどうすることもできなかった。
そうして息をすることもままならず、意識を失いかけていると——ふいに、いつか聞いた声に呼ばれた。
————アコリ。
優しい声が耳をくすぐると、失いかけていた意識を取り戻す。
とても苦しかったけど、それでも私は必死に抵抗した。
すると、私の口から悲鳴のような声が漏れ出した。
しかも口から漏れたのは声だけじゃなくて、光のようなものが溢れて、私の首を絞めていた何かが退いていくのを感じた。
「……ゲホッ、今のは……何?」
————アコリ、歌いなさい。
「歌?」
————そうよ。怖い時は歌を歌うの。
そして声に言われるがままに、私は歌った。
私が知っている曲はたくさんあるけど、その時歌いたくなったのは、やっぱりお母さんが教えてくれた子守唄だった。
優しく、ひたすら優しく、川の流れのように淡々と歌うと、そのうち私の胸が熱くなって、光が満ちてくる。胸に満ちた光は辺り一面に広がると、闇を薙ぎ払った。
そうして視界に森が戻った時、周囲には衛兵やママたちの姿があり、目の前には意識を失った王子様の姿があった。
でも私は気分が良くなって、さらに歌った。すると、足がふわふわと浮いて、空を舞った。こんな感覚は初めてだったけど、とても楽しかった。
鳥になったみたい、と思って下を見れば、本当に地面が遠くなっていた。
地上には地べたを這うように平伏す大人たちの姿があった。まるで王様を前にして頭を下げるような大人たちの様子に、私は目を丸くしながらも、地上にゆっくりと降りていった。
すると、目の前には呆然と立つグクイエ王子の姿があった。
「グクイエ殿下、大丈夫ですか?」
「……アコリーヌは、神の御使いなの?」
「え? 何を言ってるんですか?」
「だって、空を飛んだだろう?」
「それは、気分が良くなったと思えば、ふわふわと浮いていたんです」
「そうか、アコリーヌは特別な人なんだね」
「え?」
それからグクイエ王子は私の両脇を持ち上げて、高い高いをして、そのままぐるりと踊るように回った。
その様子を見て、ぴしゃりと窘める声がひとつ。
「やめなさい、グクイエ」
見れば、国王陛下がなぜかその場にいた。
その姿は、狩りに行くような軽装をしていたから、最初は誰かわからなかったけど——きっと慌てて馬で駆けつけたのだろう。国王陛下は普段着のような格好でそこにいた。
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